#1849/3137 空中分解2
★タイトル (SKM ) 92/ 6/22 9: 3 (156)
「泣くな嘆くなパン屋のおやじ」Vol.1(2) あきちゃ
★内容
パン屋のおやじ旅に出る(2)
私はこの山域を歩くときには決まってこのホテルを使うことにしています。ホテル
と言っても実はつい最近までは「旅館」であったのです。それが今年の正月の年賀状
に建て直して名前も「〇〇旅館」から「ホテル〇〇」に変わった由ご案内があった。
確かに前の建物は古くて風情はあったのですが、建て増しを繰り返したせいか廊下が
くねくねと迷路のようでそのうえ部屋はすきま風がひどく、風呂なども狭くて考えて
みればひどい旅館でした。それなのに何故私が必ずこの宿を使ったかと言うと、そこ
の女主が気に入っていたからです。誤解を避けるために断って置きますが、その女主
はもう六十をとうに出ています。亭主亡き後細腕で独り切り盛りをして立派にここま
でやってきたという気丈の人です。初めのころは私は只の旅行者であったのですが、
一度その女主が働き過ぎから腰を痛めて難儀していた時に私が「東京巣鴨のとげぬき
地蔵」のお札を送ってあげて以来親しく話などするようになっていました。客に対す
る心配りがほのぼのとしていて、彼女が自分で漬けるという何種類もの漬物を肴に酒
を飲むのを私は楽しみにしていたというわけです。
ですから電車のなかで大きな痛手を受けた私としては「もう若い娘はこりごりだ、
ああ早くあの宿のおばちゃんの漬物で一杯やりたいな」と思ってもそれは無理からぬ
ことであったわけです。そんな心の支えにも十分なってくれる観音様のような優しい
あばちゃんなのです。それに、建て直したというその新しい「ホテル」にも興味があ
りました。
タクシーから降りて一歩そのホテルに足を踏み入れた瞬間、私は自分の目を疑りま
した。小さいけれども近代的に作り替えられたそのホテルのフロントでにこやかに私
を待っていたのはあの電車の中のワンレン嬢ではなく、別の若い女性でした。しかも、
非常に私好みの顔立ちをしている。なんですよ、小説だと、ここであのワンレン嬢が
再び登場して話がもつれておもしろくなるんでしょうが、現実ではほとんどそういう
創ったような話はないということを私は豊富な人生経験から学んでいる。しかし、私
はあの高慢ちきなワンレン嬢にここで深く感謝するという心の広さにまたしても自分
ながら恐れ入った次第なのです。なぜかというと、あのグリーンガムです。あれを噛
んでおいたおかげで私は自分の吐き出す息が緑のそよ風のように爽やかであろうとい
う大きな自信を持ちながらそのフロント嬢に対峙したのです。因果応報とはこのこと
だ。ん?違うか。
さて、どのように私好みの顔立ちであるかをここでまた書き連ねても「わかった、
わかった、いいから先にいってくれ」というお叱りを受けるばかりでありましょうか
ら、先にいきます。人生経験が豊富になってくると、しつこいところと、淡泊なとこ
ろが自分の中ではっきり色分けされてくる。
しかし、例によってそのフロントの彼女にも名前を付けてあげなければ不公平とい
うものです。据え膳食わぬは男の恥というでしょう。男はえり好みをしてはいけない。
で、何が特徴的な若い女性であったかと言いますと、眼鏡です。私、眼鏡の女性好き
なんですよね。誤解を避けるために言って置きますが、私の母親は眼鏡を掛けていま
せん。聞かれもしないことにいちいち答えていくという悪い癖が私にはあります。許
してください。。
私はそのフロント眼鏡に向かって、開口一番「サキさんお元気ですか?」と訊きま
した。「サキ」というのがこのホテルの女主の名前なのです。「は?」いきなり親し
げに話しかけられたフロント眼鏡は自分の頭の中にある接客マニュアルをひっくり返
して検索にかかったようですが、営業スマイルが微かにひきつるばかりで、どうも答
は出てこない様子でした。「いえ、〇〇さんですよ」「ああ、はい、お元気です」日
本の社会の中では身内の者の話をするときには敬称や敬語は付けてはいけないという
ことをこの眼鏡ちゃんは忘れているようで、これだけ見てもホテルのフロントマンと
しての経験の浅さが浮き上がっている。そういううぶな緊張感というのはこの際私に
最も好まれる項目の一つなのです。しかし、残念なことにその私の発した「サキ」と
いう言葉を聞きつけて奥から一人の野郎、ではない、男性フロントマンが登場してき
ました。気色悪くもにこやかに笑っている。「ああ、お待ちしておりました。母から
話はよく聞いております」なーんだ息子か。それでひとしきりその息子の聞きたくも
ない身の上話に付き合わされてしまった。なんでも東京のある自動車会社を辞めて一
年間ホテル経営の専門学校に入って親の跡を継ぐべく苦しい畑違いの勉強を重ねてや
っと去年ホテルの建て直しにこぎ着けたそうな。サキさんも歳だからと身を引いて今
は自宅で隠居暮らしに入ったそうな。せっかくサキさんに会えるのを楽しみにしてき
たのに、なんてことだ。言いたかないけどね、こんなホテルどこにでもあるよ。あた
しゃ帳場の炬燵でサキさんの漬物で一杯やりたかったんだ。コンピューターがずらず
ら並んだ事務室であんたとお茶なんて飲みたかないね。同じお茶なら眼鏡ちゃんを出
せー。
ホテルと日本旅館の「もてなし」に対する違いをそのホテル経営専門学校でどのよ
うに教えられたのか、そのフロント息子に聞くのを忘れましたが、私なりに理解して
いるところでは、ホテルは宿泊者を良い意味で放っておく。日本旅館は宿泊者を別宅
のお妾さんがするように下にも置かない。もちろんどちらが良いとも言えない。お金
のない学生がアルバイトまでして「君とあのスキー場でホワイトクリスマスを過ごし
たい」なんて下心見え見えで女の子に迫る場合はホテルでなきゃだめだろうし、同じ
若い人でも「畳の上で上げ善据え膳って日本的で素敵!」の場合は旅館でなきゃとい
うことになるのでしょう。
いえここで私は宿泊施設論を展開するつもりは毛頭ないのですが、こんなことを言
いたくなるほどサキさんのいない「ホテル〇〇」にがっかりしたのです。食事は妙に
シラーとした食堂で机と椅子でしょ。酒はご丁寧にお燗までして自動販売機で売って
いる。私もホテルの良さは認めるのですが、今回は心づもりが違っていたのが災いし
てしまった。救いと言えば、地下に大浴場があることと、和室の部屋もいくつかある
ということぐらいでしょうか。もっとも、この和室と大浴場の関係が面白くて、畳の
部屋には備え付けのバスルームはなく、ベッドの部屋にはバスルームがついていると
いう具合です。まあ、あまり深く考えても疲れますのでやめにして、私は和室の方を
選びました。
嘆いてばかりでも大人げないので、私はその自動販売機で酒を買い、食事の前に一
杯ひっかけてひと風呂浴びて来ることにしました。何故かホテルでも必ず用意されて
いる浴衣とザックの中の下着を点検して私は今一度自分のふがいなさに呆れたのでし
た。それは家を出てくるとき余りに急いでいたために着替えのパンツをザックに入れ
忘れていたのです。いえ、もっと正確に言うならば、パンツとソックスを間違えて下
着の袋に入れて来てしまった。なんてことだ。しかたがないので風呂を浴びて小ざっ
ぱりとした体に脱ぎ捨てたパンツをもう一度はいてなるべくがにまたで歩くような努
力をして、食堂に赴きました。こういう臨機応変というのは山屋さんの得意とすると
ころで、パンツを履き替えなくても死にはしないさと生命の根本原理まで遡る。その
うえ今回は同行者がいない。黙っていれば誰にも気づかれない。これも一人旅の醍醐
味には違いない。
それで悔しいので翌朝私はホテル内の探検に出ました。職業柄朝は誰よりも早く目
が覚めてしまう。哀しいパン屋の習性なのです。まだホテル内はしんと静まり返って
いる。私の部屋には洗面所もありませんでしたので、部屋の外の洗面所で洗面を済ま
せた後タオルと歯ブラシを持って浴衣のまま全館見て歩きました。宴会場、配膳室、
ボイラー室、女性用大浴場。熱気の冷めた大浴場というのは寂しいものですよ。それ
はそうとまたしても腹が立つことには一階の奥まったところには小さなバーまである
じゃないですか。なんで言ってくれなかったんだ。バーテンダーは眼鏡ちゃんに違い
ない。惜しいことをした。
私に限らずそうだと思うのですが、「PRIVATE」とか「関係者以外の立ち入
りを禁ず」とかの表示があるとなおさら入ってみたくなるものですよね。もちろんそ
ういう場所や部屋には鍵がかかっている場合が多いのですが、なかにはうかつにも開
いているところがあるものです。そうするとそこが実は従業員の休憩室だったりする。
とりすましたホテルの表の顔とは裏腹のひどく生活の臭いのする場所であったりして
味わい深いものがあるのです。
このホテルは三階建でエレベーターはありませんでした。私の部屋はその三階にあ
りました。探検の結果、つきなみな小さなホテルであるなという結論に至り、このホ
テルが黒字になるまでには十年はかかるなと頼まれもしない企業診断まで下して私は
三階の部屋に戻ることにしました。階段をひいこら登りながら今日の山登りは大丈夫
であろうかと不安の影と押し問答の末たどりついた階段の一番上で私は新たな発見を
しました。その階段のすぐそばに見慣れぬドアノブが付いていることに気がついたの
です。
勢いというのはおそ恐ろしいもので、幾つものドアをドキドしながら開けて回った
その学習効果が素直に出て、私はそのドアノブを見た途端ほとんど反射的に回して引
っ張っていました。15センチぐらい開いたところで私は中をのぞき込みました。な
んとその中は壁だったのです。なんだ、これは防火扉じゃないか。火事の時に自動的
に閉まって階段が煙突になるのを防ぐやつだ。が、その時です。ほんの一瞬ですが全
館の非常ベルがビビと鳴りました。このときの私の判断は非常に迅速で的確でした。
防火扉と非常ベルが連動していることに即座に気がつきその少しだけ開いていたドア
を急いで壁に押しつけました。これでその非常ベルは鳴りやみました。私はさすがに
これはまずいと思い、その場を離れようとドアから手を離した瞬間、ドアが自然に開
いてまたビビ。私はドアを押しつける。一階のフロントあたりで人の声がする。「な
んだ?」「どこだ?」この段階での私の判断も的を得たものでした。一旦開いた防火
扉はなにかコントロールシステムの解除をしなければ閉まらないのではないか。もし
そうだとしたら、このドアは物理的な方法で閉めて置かなければ非常ベルはビビビビ
と鳴り続けるであろう。この仮説を立証している暇はないようなので、私は機転をき
かせてあたりを見回しました。ありました。私が立って押さえているドアから目測で
およそ二メートル程離れた壁際に真っ赤な消化器が一つ置いてありました。あれを引
き寄せて私の代わりにここに立たせればドアは開かない。そして私は逃げる。しかし
このシナリオを実行に移すには問題が一つあります。それは私が手を離すとベルが鳴
るということです。もしそのようなことになれば安らかに眠り続けるほかの宿泊客を
パニックに陥れることになる。それは人の道にはずれる。それで一計を案じて、私は
まず歯ブラシケースを口にくわえタオルを肩に放り上げ、次ぎにしっかりつま先でド
アを押さえ、バタンと床に腹ばいになりました。精いっぱい手を延ばせば消化器に届
くはずです。私の右手が消化器の底の部分にかかり、ずるずると引き寄せ始めたとき
「三階だ!」という声とともにドドドと階段を何人か掛け上がってくる音がしました。
もう少し、もう少し、と私が必死の努力を重ねているその時に「お客さん、どうなさ
いましたか?」というフロント息子の声が私の頭上で冷たく言い放たれました。万事
急須です。私は腹ばいのまま顔を上げ彼の顔を見ました。歯ブラシケースがポロリと
床に落ちました。「いえ、ちょっとドアを引いてみたら閉まらなくなって…」立ち上
がった私がそれでもドアを押さえ続けていたのは私の責任感の強さの証です。
まずいことにそこにはジャージ姿の眼鏡嬢も立っていました。みんな慌てたのでし
ょう。悪かった、悪かった。皆の視線を下腹部に感じた私は自分でもその視線をたど
ってみると私の浴衣は前がすっかり乱れてパンツが見えていました。履き替えられな
かったあのパンツ。幸いなことに黄ばんではいなかった。
チェックアウトの時、眼鏡嬢の眼鏡の奥に冷たく光っているであろう私好みの一重のまなこをまっすぐ見れなかったのは言うまでもない。探検には誰もが大きな代償を
支払ってきたのだから私とて例外ではない。不幸中の幸いと言えば、ホテル側のシス
テムが不完全であったために消防署や警察署に自動的に通報されなかったことです。
もし、ビビが消防署でもビビとな鳴っていたら私は山どころではなく、冷たいスチー
ル机の前に座らされて制服姿のコワモテのおっさんにたっぷり油を絞られていたこと
でしょう。いいさいいさ、あの純白に輝く峰々が私を優しく迎えてくれるのだ。しか
し、さすがに罪の意識は重くのしかかり、私はピッケルにすがるようにして駅のバス
ターミナルに向かったのでした。
つづく