AWC 「泣くな嘆くなパン屋のおやじ」Vol.1(3)  あきちゃ


        
#1850/3137 空中分解2
★タイトル (SKM     )  92/ 6/22   9: 5  (121)
「泣くな嘆くなパン屋のおやじ」Vol.1(3)  あきちゃ
★内容

      パン屋のおやじ旅に出る(3)

 普通であればこの場合旅の目的が山登りであるわけですから、当然話の中心は山の
魅力や山での出来事であるべきなのでしょうが、今回の場合、その核心部分がすっぽ
りと抜け落ちます。まあ山の魅力を語り始めたらすばらしい、とか、美しいとかを連
発するわけですし、私の稚拙な文章表現ではかえって山に失礼になることでしょうか
らやめておきます。それに、なんとか書いたとしても、その私が長年かけて開拓して
きた私のテリトリーをその文章に啓発された人々によって侵される恐れは十分にある
わけで、登山人口の増加ということにでもなれば自然環境の破壊にもつながりかねな
い。山にも許容量があるのです。とまあ御託をならべて、下山したあたりから話をつ
なぎましょう。
 残雪の北八ヶ岳は私のズタボロ心を癒して余りあるものでした。前日とその朝の忌
まわしい出来事をすっかり雪で漂白してきた私は意気揚々と山の麓のバス停に帰って
来たのです。ここからはもう茅野行きのバスに乗るだけで、あとは東京に戻って明日
からはまたパン屋の仕事に精を出す訳です。しかし、田舎のバスというのはおそらく
日本中そうなのでしょうが、本数が少ない。一日に4本とか5本。私はそのバス停に
四時頃着いたのですが次のバスは五時過ぎにしかない。その約一時間をどう潰そうか
考えるまでもなく、そこには私の知らない間に立派な美術館が建っていたのです。確
かにこのコースには数年来ていなかったのですが、それにしても美術館とは驚きまし
た。そういえば最近は地方の自治体が高価な絵画や彫刻を買ってそれを目玉に美術館
を建てるケースが増えていますが、これもその手合いであったようです。案内板を読
むと閉館時間は五時になっていました。好都合です。私に見られたくて建っているよ
うな美術館なのです。私は実は絵を描くのも好きでこういう小さな旅行にも必ずスケ
ッチブックと水彩の道具を持って行きます。そういう事情が揃った訳ですから、見て
やらねばなるまいて。
 私はザックを担いだまま館内に入り受付で入場券を買おうとして目を疑りました。
その受付に座っていたのはほとんど私の理想とする顔立ちをした若い女性であったの
です。またかよ、と思われるかも知れませんが、こんな田舎にまさかと言うような整
った美人です。髪はかるくウエーブをかけたショートですが、そのしなやかなうねり
が頬にかかる陰影の色っぽさは並の素質ではないことを窺わせるに十分な器量です。
私はザックからスケッチブックを取り出してモデルになって貰うべく哀願している自
分の姿を頭の中から取り払うのに相当のエネルギーを費やしました。しかしこういう
公共の場でしつこく女の子に迫るのはそれがたとえ女性の虚栄心を利用した詐欺のよ
うな古くさい手法であるにしろ許されるはずはありません。私は時の流れに身を委ね
モデル要請のための好機が訪れるのをじっと待つことにしました。今嫌われては元も
子もない。山で大雨に降り込められた時なども「降りやまぬ雨はない」とひたすら待
つということに慣れているのです。つまり、私は社会人としての理性を取り戻して絵
の鑑賞に取りかかったというわけです。
 私は少し見て歩いただけでやはりというか、まあねというか、少なからず落胆しま
した。この手の「村おこし美術館」によくあることなのですが、コンセプトがない。
一点豪華主義で村の活性化と文化水準を引き上げようという行政サイドの思惑は分か
らないではないのですが、美術館の主体性みたいなものが見えてこないと鑑賞する側
にインパクトは与えられない。私が館長ならあの受付の女の子を額にいれて一点豪華
主義にする。もちろん「作品には手を触れないで下さい」の注意書きも忘れない。
 そういうまじめな美術館論を繰り広げながら私は幾分早足で館内を見て回りました。
30分ほど経った頃でしょうか、私は場違いの騒音にあたりを見回しました。すると
どうでしょう、掃除婦のおばさんが業務用の大きな掃除機をブンブン振り回しながら
掃除を始めたのです。私はひょっとして閉館時間を過ぎたのか、もしそうなら大変だ、
終バスが出てしまう、と腕時計を見ました。まだ四時半です。いくらなんでもあんま
りでしょう。本屋の立ち読みをはたきで追い払うのとは訳が違います。かりにもこち
らは入場料を支払っているお客様です。やだねー田舎は。文化の香りのする美術館に
はあるまじき行為です。そりゃ館員達は公務員だから五時にはぴっちり仕事を終わり
たいかも知れませんが、まだ見ている人がいるのにと下腹部から怒りがこみ上げてく
るのを禁じ得ませんでした。私は同じ関係者であるその受付のショートカット嬢もこ
の非文化的非道徳的な行為に加担しているのかと思うと情けなくなり、彼女をちらっ
と見ますと、よくしたもので以心伝心と言うのでしょうか、やはり彼女も私を見つめ
ていました。ただ心持ちその端麗な顔立ちに愁いの陰が宿しているようです。もっと
具体的に言うと、眉間に少ししわが寄っている。ちょっと困ったような顔をしている。
そりゃそうでしょう。上司達の決めたことで下っ端の彼女としては如何ともしがたい。
しかしその困惑の色を隠せないうぶな緊張感というのはなんとも心に染みる。ああ、
なんという魅力的なかげりなんだ。私は文化のブの字もない荒廃した辺境の地で清ら
かなわき水に出会ったような感動を覚え、乾いた私の心にひたひたと救いの聖水が満
ちてくる音を聞きました。私も彼女を見つめる。見つめ合う二人の目と目。モデル要
請の機は熟したのだと私は直感しました。
 その運命の赤い糸を引き合う二人の胸のときめきを蹴散らすように掃除婦のおばさ
んは所かまわずといった感じで掃除機を振り回す。それどころか、こちらに迫ってく
る気配がする。もう我慢できない。私はショートカット嬢に頼んで責任者を呼んで貰
おうと一歩受付に向かって歩きだした時、以心伝心と言うのでしょうか、彼女が私に
向かって近づいて来る様子にさもありなんと運命の糸の存在を確信したのです。純粋
に引き合う者同士、どちらが先にとかいうことがあってはなりません。男のプライド
や女の見栄をかなぐり捨ててこそそこに「真の愛情」の金字塔が打ち立てられるので
す。
 それにしてもうるさい掃除機だ。青い作業用の制服に白いエプロンと三角巾を身に
つけたおばさんは、もうほとんど私の真後ろあたりでブラシがぐるぐる回る掃除機を
右に左に動かしています。
 ショートカット嬢は楚々とした身のこなしで私に近づくと涼しげなつぶらな瞳で私
をまっすぐ見つめ「お客様、たいへん恐れ入りますが、これに履き替えていただけま
すか?」と茶色のスリッパを差し出し、視線を私の足元に落としました。私は何のこ
とやら意味がわからず同じく視線を私の足元に落としました。見ると、そこには黒々
とした小さな土の塊がいくつも散らばっていました。登山靴の底の刻みはかなり深い
ので山を歩いているうちに泥が食い込んでそれが徐々に落ちたものと分析出来なくも
ない。後ろはと振り返ると掃除婦のおばさんと視線が合いました。ものすごい形相で
私を睨みつけています。まだ信じられない私は右の靴を左の靴に思いきりぶつけてみ
ました。ボロといくつもの塊が落ちました。
 そうならそうと入場した時に注意してくれりゃいいじゃないの。私の身のこなしか
ら都会の人だということで気後れしたのだろうが、遠慮が美徳とは限らないのだよ。
それどころか公衆の面前で人に恥をかかせて良いものか。
 「あ、いや、どうも、バスが出るので、帰りますから」私はそそくさと出口に向か
ったのでした。出口は入り口でそこには「靴の汚れがひどい方はスリッパにお履き替
え下さい」という小さな立て看板が立っていました。こんな半端な表示じゃ誰も気が
つかないぜ。

 私はこのささやかな山旅で大きな教訓を幾つも得ました。あらためて列挙するまで
もなく、若い女性には気をつけろということです。

                 おわり

 一旦おわりにしたのにまた出てきたりして未練がましい奴だとお思いでしょうが、
実はその未練の話です。
 旅から帰った私は最初の電車の中の《グリーンガム》の話を友人にしたところ、
「それは見当はずれの思い違いをしている」と言うのです。《グリーンガム》には特
殊な意味があって、恋人達はデートの時にグリーンガムを噛んでその後の事態に備え
ると言うのです。だから例えば女性がグリーンガムを男性に差し出して「はいどうぞ」
と言えばその後の事態についても暗黙のうちに「はいどうぞ」と容認しているという
意味なんだそうです。知らなかった。ということは、あのワンレン嬢の一件をその説
に従って解釈すると、ワンレン嬢は精悍なニッカボッカに好意を持った。しかし、草
枕、旅の身のはかない縁、ほんの束の間の逢瀬を惜しんで彼女は自分の思いの丈をグ
リーンガムに託し、その見事な黒髪を引かれる思いでまたいつ逢えるとも知れない人
との別れを辛い定めと諦めて、長いまつ毛に涙を溜めて振り切るようにその場を後に
した。そうに違いない。待てば海路の日和かな。持つべきものは良い友達だ。一人で
思い込んでいてはいけなかった。それなのに私はあの大事な場面でうかつにもうたた
寝をしていたのだ。私の女性心理解読機能もたまにはデータ不足で誤った答を引き出
すことがこれで判明した。
 しかし、まあ、釈然とはしませんね。もしあの時のワンレン嬢、この文を読んでく
れたならなんとか私と連絡をとって欲しい。メールでもいい。高慢ちきなんて言って
悪かった。冷たい女なんて言って悪かった。グリーンガムの本当の意味を教えて下さ
い。

               ほんとのおわり





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