AWC 「泣くな嘆くなパン屋のおやじ」Vol.1(1)  あきちゃ


        
#1848/3137 空中分解2
★タイトル (SKM     )  92/ 6/22   8:59  (198)
「泣くな嘆くなパン屋のおやじ」Vol.1(1)   あきちゃ
★内容

      パン屋のおやじ旅に出る(1)

 まったくね、いままで私はパン屋だってことを慎重かつ巧妙に隠してきたのに誰だ?
ばらしたのは。もっとも、口止めしてた訳じゃないからいいんですけどね。
 よくあることなんですが、普通初対面の人に対しては「私はパン屋の〇〇です」と
いう具合に自己紹介するわけですが、その途端に相手の方の表情が崩れて「パン屋さ
んですか、楽しそうですね、おいしそうですね、朝早いんでしょ?」なんてことにな
る。それで、こっちが「お職業は?」と訊くと「いやー、フツーの会社員ですよ」く
らいであとがないことが多いですね。どうも世の中での「パン屋イメージ」に偏見が
あるとしか思えない。別にままごとやってるわけじゃないから、パン屋だってラーメ
ン屋だって生き残りゲームの中にあるわけで、それなりに厳しいわけです。ことさら
にそれを強調しても白けるだけですから「ええ、歌にもあるでしょ、朝一番早いのは
パンやのおじさんだって…」。ついでに例の歌を歌ってあげたりすると座が盛り上が
るわけです。
 なんでしょ、職業が知れるとなんかその人に対する評価みたいな物がちょっと変わ
りますよね。特にパン屋の場合は柔らかい仕事のせいか、印象を軟化させてしまうよ
うです。そうすると「あの人はパン屋さんだからパンに免じて許してやるか」みたい
なことが結構あって…、まあ、いいけどねこれで少しでも客が増えれば。「今度パン
を買いにいきますよ!」なんてみんな言ってるけどほんとに来るのかな。あ、製品リ
スト送りますので希望者は言って下さい。地方発送承ります。
 おっとそうだ、今回は旅の話だった。こんな商売をしてるとなかなか旅には出れな
くて、ちょっと長旅なんて言ってもせいぜい3、4日ですね。夏と正月。なんせ、あ
まり長く休んでるとお客に逃げられますからね。普通は休みの日の前日からの一泊旅
行がほとんどです。
 私の場合はどういう訳か一人旅が多いんです。どういう訳かも何もなくて、一緒に
行ってくれる相手がいない。いえ、私が極端に人に嫌われるタイプとは思えないんで
すが、私の旅の目的というかそれに類したものが私の周囲の人々には共感を呼ばない
ようで「連れてって」と言う人が少ない。まあ、その目的というのが例えば「キャン
プをしながら、ムササビの飛ぶを見る」とか「山に住む能面師に会いに行く」とか私
としては興味の尽きないものばかりなんですが、どうも一般受けしない。別に「旅の
ゲテモノ」的な企画ではないと思うんですが、ダメみたいですね、その暗さが。
 そんな訳で私は4月のある晴れた土曜日の午後、一人旅に出たのでした。で、その
目的は「残雪の北八ヶ岳を彷徨する」。ホウコウする。この言葉はすぐに「八甲田山
死の彷徨」を連想させるらしく、今回も同行者は見あたらない。これが「陽光の北八
ヶ岳を気ままに歩く」であればハイキング上がりのネーチャンがお尻にぴったりのジ
ーンズと軽登山靴あたりでヒョコヒョコ付いてこないとも限らないが、そういう御人
はこの時期の北八ヶ岳を知らないからうっかりスケベゴコロを出して連れて行くとと
んでもないことになる。
 ちょっと簡単に説明しておきますが、一般的に「北八ヶ岳」と呼ばれている山域は
八ヶ岳の北部を指しまして「北」の持っている寒い、険しい、寂しいなどといったイ
メージとは逆にむしろなだらかで女性的な山並が続いているところです。樹木もシラ
ビソやコメツガなど湿った感じのものが主体になっていますので、夏ですと欝蒼とし
た独特の雰囲気を醸し出しています。そして冬は雪がその深い樹林にしっかり蓄えら
れて春遅くまでかなりの量が残ります。その雪がたまらなく良い。今回はその雪と戯
れようという企画です。戯れると言っても山深いところでありますから、それなりの
装備と経験がいる。お仕着せのスキー場で滑ったの転んだのとは訳が違う。ジーンズ
のネーチャンではちと足手まとい。
 で、私はその土曜日の午後の仕事を早めに切り上げて、中央線の新宿駅に急いだの
でした。私の出立はニッカズボンに革の登山靴、そしてカッターシャツの正統派山屋
スタイル。ひと昔前までは山に行く人のほとんどがこれだった。今は少しづつ変わっ
て来ているようですね。ファッショナブルになってきている。私のように破れたニッ
カボッカを繕ってまで着ている人はほとんど見かけません。とにかく、そういうスタ
イルで私は中央線の特急「あずさ」に乗り込みました。
 一人旅には電車が良く似合う。高速道路には車が溢れていますが、高速道路を一人
でドライブなんていうのは後免被りたい。なによりも、電車で行く旅には思いがけな
い出合の予感があります。座席は二人掛けですから、いやでも接近する。ちょっとし
たきっかけから言葉を交わす。旅に出ているという解放感から話が弾む。偶然隣に座
り合わせたその人の人生の年輪と私のそれとの間で干渉縞のような複雑な心模様が織
りなされる。名も知らぬ人との出合と別れ。一人旅の醍醐味はそこにある。
 ゴールデンウィークの前ということもあってか、列車は比較的すいていました。私
は窓際の席に陣取ってホームの売店で買っておいたワンカップを2つ、窓枠に置いて
発車のベルも待てぬとばかり一人で宴会を始めました。つまみは豆菓子。ポリポリと
かじりながらこれからの旅へと思いを馳せながら暮れゆく都会の街並を眺めておりま
した。
 発車の時刻が迫って、今まで空いていた席もほぼ埋まってきたというのに、私の隣
の席だけは一向に人が寄りつかない。入り口に近いというマイナス要因を加味しても
解せない。私が特別太っていて、隣の席まで尻がはみでているという訳でもなし、頬
に傷が有る訳でもなし、左耳にピアスを二つしている訳でもなし、もちろん座席に荷
物を置いている訳でもない。私の隣だけが空いている。何故だ。嫌われているのでは
ないかと勘ぐるのは寂しいものだ。疑心暗鬼。これでは出合と別れも醍醐味もない。
 まあしかし、考えてみれば、隣に誰も座らないというのも気が楽なものだ。足を思
う存分延ばせる。いざとなれば肘掛けを枕に横にもなれる。それに、万一、口さがな
いおばちゃんにでも隣に座られたら私の繊細な干渉縞は千々に乱れてしまう。まあ今
日のところは馥郁たる孤独の時間を楽しもうとばかりワンカップをグビリとやりまし
た。これも一人旅の醍醐味には違いない。
 そうこうしているうちに発車となって、夕映えの高層ビル群は窓から流れ去り、電
車は一路信濃路へと向かったのでありました。
 すきっ腹に飲んだせいか、それとも心地よい電車の振動のせいか、日本酒は豊島園
のジェットコースターのように体内を駆け巡り、私の酩酊度は4まで上がっていまし
た。ちなみに10でダウン。
 最初の停車駅八王子を過ぎてしばらく経った頃「ここ、あいていますか?」という
女性の声に私は車窓の外に向けていた視線をマリオネットの人形のような不自然さで
斜め後方に振り上げました。声の主は若いのか年寄りなのか。期待と不安。
 小説ならここでいかようにも登場人物の設定は出来よう。しかし、これは随筆であ
る。私は天に誓って真実のみを語ろう。そこに黒目がちの愛くるしい瞳もて私を見お
ろしていたのは、ワンレン爪長ハイヒール、加えてグラビア美人。浅野ゆう子の隣に
置いても引けをとらないほどの美人でありました。私はバタバタと居住まいを正して
「は、はい、どーぞー」語尾が震える。
 いままで私の周囲にも美人は何人かいた。不美人は大勢いた。美人と言ってもそこ
そこに、とか、比較的、とか但し書きが付いた。それでも私はコツコツと実直にそれ
らの女性に尽くしてきた。やはり徳は積んでおくべきものだ。神様はずっと見ておら
れたのだ。私は心密かに思った。ついに来るべきものが来たのだと。
 彼女は薄手のコートを脱ぐと小さく畳んで網棚に上げようとつま先立ちで私に接近
する。パチンとしたヒップが私の鼻先をかすめる。ミ、ミニスカートだ。
「失礼」と彼女は言った。「い、いいえ」と私は言った。あとから思えば、この瞬間
が最初の「ちょっとしたきっかけ」であったのですが、心の準備が整っていなかった
私はそれを逃した。伝統的日本男児の生ける化石を標榜する私のプライドが邪魔をし
たのだ。あの所ジョージ系の軽さで『ヤハハハ、どちらまで?』たったそれだけが何
故言えない。
 電車は単調な響きと共に走り続けている。私は横目で彼女の様子を窺った。的確な
状況判断というものがなければ命取りになる。これは山登りで鍛えた私の経験がそう
教えてくれている。私は第一段階で大きな過ちを犯していたことは否めない。それは、
あまりにも電撃的にほぼ理想的なパターンでその「出合」が現出したからに他ならな
い。艶やかに光輝く緑のワンレンに幻惑されて、彼女の属性を把握することを怠って
しまったのだ。おそまきながら私は彼女の観察を実行することでどのようなきっかけ
がやってこようと即座に対応出来るようにシュミレーションを作っておくことにしま
した。
 まず身なりから判断するに歳の頃は二十代半ば。学生ではなさそうだ。職業婦人で
もなさそうだ。職業婦人。古い言葉だ。まあいいか。仕事を持っているにしろおそら
くそれは事務的なものや、サービス関係ではないだろう。そういう仕事をしている女
性にありがちなストレスの堆積が感じられない。かなり自由なそれも自分の魅力を発
揮出来る仕事であろう。だから話題としては彼女が誇りとするその魅力が何なのかを
まず引き出すことから始めるのが良いだろう。その魅力が肉体的なものである場合は
話が早いが、知的な分野の場合は気を引き締めていかなければならない。
例えば大学での専攻が比較文化で卒論は萩原朔太郎であった場合、その時代のフラン
スの詩人の名前の二つや三つは今から準備して置かなければならない。出来れば詩も
数行でよいから思い出しておくに越したことはない。それに確かにグラビア的な美人
ではあるが、気品というか育ちの良さというかかなり素性の良さが臭って来る。そう
なると当然クラシック音楽の素養もあるだろう。もし音楽の専門的な話題になってこ
ちらが手詰まりになりそうな時は、あの名門の某オーケストラの内部では不倫が横行
しているという話題に振ろうか。いやいや、それではこちらの品性を疑われてしまう。
そうだ、私の友達のチューバ奏者が二日酔いでコンサートに出て途中で気持ちが悪く
なり、チューバの中にゲロを吐いてしまった話で笑いを誘おう。
だめだめ。もっと悪い。ちょっと酔いが回ってきた。酩酊度6。私は次なるきっかけ
をひたすら待ってグビリとやりました。二本目のワンカップも半分くらいになってい
ました。
 きっかけが掴めないまま私の意識は冷凍庫に入れた金魚のように硬直していく。こ
のままではいけない。私はガラス窓のクモリを指でこすってすっかり暗くなってしま
った外の景色を見るふりをしてそこに写った隣の席の彼女の姿をかいま見た。ブティ
ックのマネキン人形のように整ったそのワンレン嬢は本を読むわけでもなく前方を見
据えたまま微動だにしない。そのきりっと引き締まった横顔は強い意志と知性の象徴
であろう。形の良い鼻筋。少し広めの額の丸み。黒目がちの大きな瞳。ふっくらとし
た唇。完璧に私の好みである。
 突然、私は豆菓子がまだ残っていたことを天の啓示を受けて思い出した。物を食べ
るとそこにはリラックスした雰囲気が生まれる。それはとりもなおさず人の心の柔ら
かい部分に存在する琴線に波長が合いやすくなってくる。この場合そういう環境づく
りが肝心なのだ。こちらが彼女を意識していると思わせてはならないのだ。私はカサ
パサと袋の中に手を突っ込んで残っていた豆菓子を数個いっぺんに掴むとそれを口の
中に放り込んだ。その時である。豆菓子が一つ、私の唇を避けてこぼれ落ちた。誓っ
て言うがわざとしたのではありません。床に落ちた豆菓子は天の啓示を受けてワンレ
ン嬢のハイヒールの踵のあたりまで転がった。私は少し慌てたが、私の脳味噌に照明
弾のようにブリリアントなアイディアが裂烈した。そうだ、これが第二の「ちょっと
したきっかけ」に違いない。
 手を延ばしてその豆菓子を拾う格好のままで、ワンレンを下から見上げながら「し、
失礼」と私は言った。「いいえ」と彼女は言った。ただそれだけであった。『ヤハハ
ハ、お一ついかがです?』と言って、まだ底の方に二三個は残っていた豆菓子の袋を
差し出しさえすればそこから芋づる式に、いや話の糸口が掴めたかも知れないのに、
たったそれだけが何故言えない。ああ、日本男児よ、時代は変わったのだ。目覚めよ
と人の呼ぶ声がする。
 私は自分のふがいなさに天を呪った。そして残っていた酒を全部グビグビとやった。
酩酊度8。私は彼女に悟られないように静かに、大きくため息をついて目を閉じた。
こういう出口の見つからない逼迫した状況には瞑想が一番である。己を空にし、心身
の気を高め、時の流れを断ち切る。そうすることによって、無意識の世界で思いがけ
ないチャネルに接続が可能になる。しかし、それは裏目に出た。人間の体はアルコー
ルという薬物に対して非常に従順なものだ。日頃の睡眠不足も手伝って私の瞑想狸寝
入りは白雪姫の深い眠りに変わってしまった。そうだよ、きっと彼女が..頬にキス
して...起こしてくれるのだぁ....。
 頬に暖かな唇の感触を得て私は目覚めた、のではなく、かすれたおじさん声の「次
はコブチザワ、小淵沢」という車内放送が私の安らかな眠りを妨げた。しかし、無粋
な車内放送にも感謝する広い心を私は持っている。何故なら次が私が降りるべき茅野
(チノ)であったからです。
 しかし、その広い心も現実の冷たい嵐の前にはボートから転げ落ちた赤子のように
為す術もなく鼓動を止められたのです。悔恨というのはこういう時のためにある言葉
なのです。隣の席のワンレン嬢がいない。誰もいない。私が眠っている間にどこかの
駅で降りたのでしょう。そんなもんですよ、現実は。
 ここまでなら私でなくても予想は出きるでしょう。よくあることですからね。しか
しである。私は次の瞬間まったく不条理なというかシュールなというかこれを読んで
いる誰にも予想できないような映像に慄然としたのです。私が飲み干してしまったワ
ンカップの横に《グリーンガム》が二枚置いてあるのを発見したのです。彼女の仕業
に違いない。他には誰もいなかったんだから。置こうと思えば他にもいくらでもスペ
ースはあったのです。それなのにしっかりワンカップの脇に添えてある。私の優れて
鋭敏な女性心理解読機能は自動的に作動して即座に答をもたらした。『日本酒は臭い
のでこれを噛んで臭いを消してください。ほんとに、臭くてたまりませんでした』。
《グリーンガム》の発するその声はエコーとなって私の脳髄を震撼せしめた。
 冷たい女だねー。袖触れ合うも他生の縁って言うでしょう。そりゃ確かに歳甲斐も
なく若い女性を相手に独り芝居で妄想を抱いた私がバカでした。でもねー、仮に臭く
てもなにも人を傷つけるようなおきみやげはないでしょー。それに私が寝てる間にそ
の清らかな寝顔を横目で盗み見て心の中では冷たく笑っていたと思うだけでも腹が立
つ。あんなに私好みの顔立ちをした人が、あんなにむごい仕打ちをするなんてにわか
には信じられない。まさかよだれは垂らしてなかっただろうな。そんなに私の吐く息
が酒臭かったのかなぁ。そんなに嫌な思いをさせたのかなぁ。だけどね、日本人は日
本酒でぇ。卑弥呼の時代から米に感謝して飲んでんだ。瑞穂の国のうま酒だぁ、ばぁ
ろー、どこが悪い。それともなにかい?小綺麗にカクテルだったら付き合ってくれた
ってのかい?てやんでー、こっちから願い下げだね。おいらそのへんのヤワな青瓢箪
とは一緒にされたかないね。
 独り息巻いてみてもそこにはすでにボールはなく空振り三振バッターアウト、試合
終了。私の負けです。傷つく傷つく。
 私はやり場のない憤りが怒涛のごとく下腹部から沸き上がって来るのを覚えました。
日本の若者の心の荒廃を深く憂えておりました。もうこの国も長くないぜ。
 深く傷ついた虚ろな魂は網棚からザックを引きずり降ろし、せっかくあの娘がくれ
たのだからと《グリーンガム》を二枚いっぺんに口の中に放り込んでクチャクチャと
未練とポリシーをごちゃまぜに噛み砕きながら出口へと向かうのでありました。
 いいさいいさ、あの純白に輝く峰々が私を優しく迎えいれてくれるはずだ。私は体
に馴染んでいるはずのザックと靴をいつになく重く感じながら次の茅野で降り今日の
宿泊先である町外れのホテルに向かったのでした。

                      つづく




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