#1537/3137 空中分解2
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炎狼鬼 第三章(2) おうざき
★内容
角井と正影は、互いを剣で串刺しとしていた。
角井の胸と、正影の背から、互いの剣の刃先が顔を出している。おびただしい
命の固まりが、滝となって吹き出し、雨に濡れた足元を赤黒く染め上げる。
相討ちを覚悟であったかは、定かではない。ともかく正影が、角井が炎狼鬼に
向かう瞬間を狙っていた事は、今や明白であった。
角井は首を回し、肩ごしに正影の引きつった顔を睨んだ。
「この、馬鹿者が」
その後は、言葉にならぬ。千万の罵倒に代わり、赤い命の固まりが、角井の口
から泡だってこぼれた。
最も巨大な衝撃を受けたのは、かすり傷ひとつ負う事のなかった、栄一郎であ
った。
彼は、事の起こった場所から、七歩ほどの場に立ち尽くしていた。この惨事に、
彼は貝殻ほどの重さも関わる事ができなかった。肝腎な時に、動きえなかったと
言ってよかったのである。自分のなすべき事も果たせえず、何が剣の達人か、剣
豪か! 拙者はとんでもない役立たずだ。無能のきわみではないか。
どちらからともなく、双方の体が離れた。二人を繋ぐ二本の鉄の枝が、肉のき
しむ音をたてながら、互いの体から抜けてゆく。
角井は、名鉄定宗が妙に軽く、次いで重く感じていた。体はやたらと熱く、そ
して冷たく感じる。かけ寄った栄一郎の背が、急に伸びたように感じた。実際は
そうではなく、角井がへたり込んだのである。
なぜ、このような事になったのであろう。このような事を、誰が予想しえたで
あろうか。おそらくは、正影すらも、この結果とは異なる予想をしていたに相違
ないのである。
(六)
顔に雨粒が当たり、汗とともに流れ去る。
煙を吹いてもおかしくはないほどの熱い痛みが、だんだんと薄らいでいくよう
であった。眼は開いているというのに、回りの景色は暗くなってゆく。なぜとは
なしに、おかしさがこみ上げてきた。重くなった目蓋と唇をゆがませる。
「これで良かったのやも知れぬ。炎狼鬼にかかって友が次々と消え、一人生き残
って戦うのは、実のところ苦行であった。心残りは、拙者が果てた後も、あの化
物がぬけぬけと生きおおせる事だが」
「角井殿、炎狼鬼はそれ、まだそこに立っておる。まだ休んではならぬ。気を確
かに持たれい、角井殿!」
この時ほど、言葉の無力を思い知らされた事はない。会話がまったく噛み合っ
ていない事も分かっていた。だが、償いの機会すら失った今、励ます以外に、栄
一郎にできる事はなかった。
その時、地響きと水音が、栄一郎と、死にゆく男達をわし掴みにした。
炎狼鬼が、人々の喜怒哀楽にいささかも感銘を覚えぬ風で、巨大な一歩を踏み
出したのである。
栄一郎は、炎狼鬼を正面から睨み上げた。その両眼には、炎狼鬼も及ばぬ紅連
の炎が燃え上がっていた。
「消えろ」
栄一郎は、握ってあった剣を、逆手に持ちかえた。
「消えろ、消えぬか!」
炎狼鬼すら気をそがれるほどの咆哮を放ち、人ならば胸板にあたる所をめがけ、
剣を槍のごとく投げ放った。
剣は風を生んで飛び、肉のきしむ音をたてて、炎狼鬼に拳二つ分、尽き刺さっ
た。炎狼鬼の咆哮が裏がえった。血が、霧のごとく吹き出し、炎狼鬼の上半身を
血煙が覆った。
炎狼鬼は悲鳴をまき放ちつつ、傷口を爪でかきむしった。新たに肉と皮が破れ、
血潮が滝のごとく、はじけ流れた。剣はそれでも炎狼鬼を捕らえて放さず、傷口
にねばり付く。
後ろ足で仁王立ちとなっていた炎狼鬼がこの時ふらつき、もんどりうって後ろ
の川へ転がり落ち、水音がかぶさった。
炎狼鬼は、雨で増水しつつある川の流れに抗しえず、転がるごとくに下流へ押
し流されていった。
(七)
肩で息をしつつ、栄一郎は冷静さを取り戻し、角井の元にかしづいた。角井の
表情は、穏やかなものになりつつある。この男には、絶対に似つかわしくない、
それは表情であった。
「やりおったな、森口殿。さすがは井岡の獅子の一粒種。この角井、死ぬ前に良
きものを見せてもろうた」
「倒した訳ではない。あの炎狼鬼が、あれしきで片付くと、お主は本気で信じて
おられるか」
「森口殿、邪魔を入れんでもらおうか」
栄一郎は、口をつぐんだ。何も言えぬ。
「そうだ、お主、剣があるまい。拙者の定宗を譲りつかわそう。良き剣だ、大事
にな」
角井の体の外へ、命の固まりが、またひと握りこぼれた。
「角井殿、死ぬでない。師を失い、国にも帰れず、この救いなき世でどう生きて
いけと言われるのか」
心なしか、角井が微笑んだように思えた。何度か口を動かし、宮津の豪傑は、
最後の言葉を出した。
「生きろ。生きて悩め」
語尾がかすれ、空に消えていく。
霧が晴れたばかりの、周囲の色が暗転した。仕事柄、死人を見るのは慣れてい
たはずであった。眼の前で人が死ぬ事も、いくらも経験していたが、今回は極め
つきである。
「なぜだ!」
叫びはむなしく消えてゆく。小降りになった雨も、川のせせらぎも、栄一郎の
傷ついた心を洗うにはおよばない。
宝羽三年、角井源之進は三十一歳であった。彼の残した言葉を、栄一郎は生涯
忘れようとは思わなかった。
(八)
「へへ、ははは」
笑い声が起こった。栄一郎のものではない。角井と刺し違えた男、正影英明で
ある。
人は、死ぬ前に笑うものとみえる。
栄一郎は、肩ごしに瀕死の男を睨んだ。正影が、あえぎつつ笑っている。
「何か面白い事でもあったか、正影」
「角井源之進も、拙者と刺し違えるなぞ、考えてみればつまらぬ死に方をしたも
のよ。まるきり道化ではないか。同じ茶番にしても、お主が炎狼鬼の餌食になる
なら、笑うに笑えぬところだて」
死者のたわ事にしては、内容が聞き捨てならぬものがあった。
「お主、何を言うておるのだ」
「お主と炎狼鬼は、所詮、同じ穴の狢よ」
背筋に冷たいものが走った。栄一郎は、炎狼鬼と身近にあいまみえた時の、あ
の怪しい感じを思い出していた。
「分かるように話せ。話さぬか!」
正影は表情を引きつらせ、命の固まりを口から吐き出した。
「ぶ、奉行に聞け」
「奉行とは、む! 望月康正か!」
望月康正。栄一郎が同心をしていた時分、奉行であった。一度、酒に誘われ、
奇妙な事を聞かれたのを憶えている。許嫁殺しの疑いで、同僚から縄を打たれた
のは、その翌日の事である。
(あの男、何かを知っているとは思っていたが)
井岡の国に帰る必要がある。今回の一連の件に関して、裏がある事、まず間違
いない。危険な事とは承知の上である。
正影は、もはや息をしているようには見えなかった。
「お主が死んだ事を知らせたい者がいるか」
返答はない。正影英明、二十六歳。森口栄一郎と同じ年に生まれ、角井源之進
と同じ年に死んだ。
<炎狼鬼 第三章おわり>