#1535/3137 空中分解2
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炎狼鬼 第二章(2) おうざき
★内容
剣が、またも空を斬った。
「なぜ拙者は、お浜を斬ろうとしておるのか!」
お浜の姿が遠ざかり、暗く小さくなってゆく。
お浜!
「お浜!」
絶叫が天井に跳ね、栄一郎を叩いた。
栄一郎は、跳ね起きると同時にへたり込んだ。
横の角井がむくりと起き、眠たげな声をあげた。
「夢か?」
「う、む。そうあるらしい」
冷たい汗が、背中をしたたっていた。
角井がのそりと立ち、雨戸を開けた。まぶしい光が刃物と化して飛び込み、茶
屋の中にたゆたう空気を切り刻んだ。
角井は日の光と対面した。雨はまだやんでいない。天気雨であった。
(六)
二人は歩きはじめた。木々が切れ、村を一望できる場所に出た。
「角井殿、お主は炎狼鬼が人にあらずと申される。正体を存じておられるならば、
うかがいたいものだが」
角井は立ち止まって振り向いた。
「舌にも筆にも尽くせぬ。見れば分かるとしか言えぬ。だが、一つだけ明るい事
がある。奴は、馬の肉を喰ろうておった。人が肉を喰うと思うか?」
返答できず、栄一郎は沈黙を返した。
「この眼で捕らえたゆえ、相違ない。二本足で歩いておったが、人にあらず」
角井は山のふもとに視線をめぐらせ、無人の板原村に向けた。栄一郎も村に眼
をおろす。周りを山々に囲まれた板原村は、霧の中にうっすらと埋没していた。
「む!」
ふいに、栄一郎は背後に気配を感じた。研ぎすまされた触覚が、眼に映らぬ思
念の波をからめ取り、警告を全身に満たした。
(後ろに、誰かがおる!)
振り向いても無駄であろう。おそらく巧妙に姿をくらませながら、憎悪を乗せ
た視線だけを放っているのだ。
角井は気づいているのか、いないのか。
栄一郎は、角井に声をかけようとした。が、それをさえぎるごとく、角井が叫
びを上げた。
「炎狼鬼だ、あそこだ! 森口殿、川べりを!」
「なに!」
背後が気になったが、それを追いやり、全ての感覚を、角井の指の方向に向け
た。
板原村をつらぬく川と、その向こうの海が、太陽に照らされ、異様に輝いて霧
から浮かび上がっている。川に焦点を合わせ、それを流れにそって動かした。そ
れが、ある一点で凍りつく。そこには。
「見たぞ。見たぞ! あれ、が。あれが!」
次の瞬間、見てはならぬ物を見たという思いが、背筋を降りていった。
(七)
ばきばきという音を散らせ、霧に濡れた枝草を折りしだき、踏み締めながら、
つやのない毛むくじゃらな太い足が動いている。足であるからには爪が生えてい
るのであるが、それは誰がどう見ても、人のものとは思えない形をしていた。広
く、太く、先になるほど細く尖っていたのである。
巨大な獣であった。
それも、単なる獣ではない。
眼の前をうねってふさぐ繁みを、ものともせぬ。折れた枝が胴に爪を立てよう
と、まったく気に止めぬ。
その獣は、ずたずたに引き裂いた狼の死骸を、口にくわえていた。川辺に向け
て歩みを進めて、死骸を放り出すと、水を飲もうと、人の丈の三倍はあろうかと
いう巨体を傾けた。さざめく水面に、その顔が映る。
そのまなこ、炎のごとく。
その力、狼をしのぎ。その所行、鬼のごとし。
実際に見た者でなければ、形容は困難であった。外見から、その正体を悟る事
もできぬ。
それを人は呼んだ。炎狼鬼と。
(八)
足元に水ぼこりが立った。角井が駆け出したのである。
栄一郎も動こうとして、思いとどまった。背後の例の気配が強まったからであ
る。
後ろに水音が追いすがる。栄一郎は振り向きざまに剣を抜きさした。
「お主、何者か!」
「どけい、邪魔だ!」
雨の中、二本の光が、くねるごとく舞った。湿った空気が切断され、鈍い風音
がそれを埋める。真珠のごとくに水滴を散らせて、二つの光が衝突した。耳を切
りそうな音がほとばしり、どこまでも反響した。
「馬鹿が、お主のごとき腰抜けに、拙者が斬れるか」
それを耳にした栄一郎の両眼が、鋭い光を放った。この声には、憶えがあった。
「正影、お主か」
それに直接は応えず、男は声をたてずに笑った、幼少の頃は親友であり、現在
は最近まで同僚であった。古い日々に二人が交わした無垢な表情は、もはやそこ
にはない。代わりに、この男の顔の半身には、角井の作ったみね打ちの傷があっ
た。
(宮津の国まで、我らを追ってきたというのか)
だが、詮索もそこで終わりをつげる。正影が腕力をつけて、剣ごと栄一郎を押
しやったのである。姿勢をくずして地べたに尻をつく栄一郎を、正影は無視して
のけた。
剣をおさめ、背を向けて角井を追う正影を、呆然と見送る栄一郎である。握っ
た剣が、上りはじめた日の光に、むなしく反射した。
我を戻して腰を上げ、栄一郎は剣を手にしたまま走り出した。
角井が走る。正影がそれを追う。その二人を、栄一郎が追って走る。水の煙が
生まれては消えた。
雨は、まだやまぬ。
(九)
霧にけぶる川のほとりに、炎狼鬼はその姿を見せていた。
らんらんとした眼を光らせ、四つ足で、水をむさぼっている。
気配に顔を上げ、今度は後ろ足で、人のごとくに立った。何と巨大な!
霧に日の光がさして、いたる所がぎらぎらと輝いている。
いらつくがごとくにうなりを上げると、ひときわ輝くものがある向きに、両眼
を向けた。
そこには、目ざわり悪く光る趣味の悪い着物をまとう、角井の姿があった。
敵意を乗せた、互いの視線が衝突した。
炎狼鬼は吠えた。
およそ、生物の作り出した音響とは思えなかった。それを耳にしただけで、性
根の弱い者ならば、心の臓を粉みじんとされていたに相違ない。
風圧らしきものを感じ、栄一郎は総毛立つ。握った剣が震えた。恐怖をはらう
ために、歯を噛いしばらねばならなかった。それは正影とて同様であった事であ
ろう。
角井が足を止めた。息を整える。
「妖邪の化身が。今度こそ、引導を渡してくれる」
宝羽三年。角井のつぶやきに重なり、無人の村に、炎狼鬼の作ったこだまが響
きわたり、山からはじけ返って男達の背中を叩いた。
<炎狼鬼 第二章おわり>