#1534/3137 空中分解2
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炎狼鬼 第二章(1) おうざき
★内容
(一)
「井岡の国に名高い、お主の腕を借りたいのだ。このまま奴を野ざらしに置いて
おけば、わが国は滅びはててしまおう。憎き炎狼鬼を片付けるゆえ、協力してほ
しいのだ、森口殿」
「角井殿には、牢から出していただいた恩があり申す。今さら、お主の頼みを断
わる道理とてないが、あえて聞かせてはくれまいか。炎狼鬼とは、ぜんたい何者
か」
宝羽三年と呼ばれる初夏の事である。
栄一郎の里である井岡の国と違い、宮津の国には雨が多い。ことに、辺境の板
原と呼ばれる村を抱えるある藩は、夏の間ついに雨が降りやむ事がなかった、と
史料は伝えている。
降りそぼつ雨の音に、角井の声が重なっている。
「追っ手の事なら、心配はあるまいて。板原村に望んでおもむく者を捕らえにく
る奉行など、この国にはおらぬ。井岡の奉行が何やら言ってこようともな」
角井のその言葉に、栄一郎は踊りあがって喜んだりはできなかった。早い話、
角井は暗に「板原村に行って生きて戻った者はいない」と言っているのである。
「もはや井岡の国へ戻る訳にもいかぬ。結局、道なりに行くしか、ありはせぬか」
栄一郎は、雨を透かして前をにらんだ。そこには、板原村へ至る道が横たわっ
ていた。
「この街道は、まるで板原村がお主を招いておるごとくに見えるぞ」
肩を並べる角井が、そう言って笑った。
夏の終わりに、栄一郎はその言葉を、苦き面持ちで思い出す事となる。
(二)
ここで少し、時をさかのぼる。
若き同心の森口栄一郎は、一日の終わりに、奉行たる望月康正に声をかけられ、
結果として一杯誘われた。
最初は堅い話、柔らかい話、世間話などで時をにごしていたが、うちに望月が
座り直して声をひそめる。
「宮津の国で、剣の達人が神隠しにあっておるという話だ。森口、お主は、そち
らの線で何かつかんではおらぬか」
それが望月の、今夜の酒の目当てであるらしかった。
剣士には剣士だけの、噂の抜け筋というものがある。栄一郎も、無論その手の
触覚を持ってはいたのであるが、神隠しはおろか、宮津の国からの話など、触れ
た憶えはなかった。
「神隠しですか。さて、拙者は聞いてはおりませぬが」
そう言って、栄一郎は一口飲んだ。この時、望月の両眼が異様な光を放ったが、
栄一郎は気づかなかった。
その翌日、栄一郎は、職場の牢にたたき込まれる事となった。罪状は辻斬り、
それも実に許嫁殺しである。
「話をお聞きくだされ、憶えなき事にございます!」
「森口! 見苦しき真似はよさぬか。これほどの不祥事は、我が奉行所はじまっ
て以来、それも模範同心のお主が、酔うて女を斬り殺すとは、何たる醜態か!
引ったてい!」
奉行は何かを知っている。でなくば、こうも都合よく物事が運ぶ道理がないで
はないか。
(三)
炎狼鬼。いかなる時代の人間であろうと、この言葉に好意を感じる者はいない
であろう。
「炎狼鬼か。誰がつけたか知らぬが、存外によい名だ。お主はそうは思わぬか、
森口殿」
返答に窮する栄一郎をよそに、角井は語をついだ。
「宮津、いや宝羽に残る化物よ。奴にかかって、板原村の男は大概殺され、残っ
た者は村を捨てた」
その言葉は、栄一郎を立ち止まらせた。傘をかぶった頭がいきおい強く回って
角井を向き、水滴を散らした。
「炎狼鬼は、人ではないと申されるか。拙者は、剣人の異名だと勝手に信じてお
ったが、そうではないようだ」
角井は、薄く笑った。その笑いは、僅かにゆがんでいた。
「あいまみえるまでは黙っておくつもりだったが、つい歯がすべったか。森口殿
は推察家だ」
「はぐらかすでない。何ゆえ黙っておられたか」
「はぐらかすつもりはない。ただ、心配でな。炎狼鬼が実は人にあらず、魔物で
あるという事を知ったお主が、どうするかと思うてな」
雨の音が、二人の間に割って入った。
「ここで引き返した者は、両手の指にあまる。お主はどうか。井岡の国に帰るか」
「今さら、国になど帰れぬ」
「では、どうするのかな」
栄一郎は、頬に雨をしたたらせながら言った。
「炎狼鬼に会うしか、ないであろうな」
二人の男は、笑いを交わした。
「その言葉、長い間待っておった」
(四)
「この山を越せば、板原村だ」
角井は慣れたものである。坂道を軽々と登っていくが、栄一郎はそうはいかな
かった。雨の山道をこれほどに歩くのは、生まれてはじめてと言ってよい。四苦
八苦の末に峠にたぐり着いた時には、精も根も尽き果てていた。
周囲はすでに、夜の闇に沈んでいる。二人は夜が明けるまで、峠に建つ無人の
茶屋に、半ば強引に泊り込む事にした。
荒れはてた茶屋の中にあった、ありあわせの物を敷いて寝床を作ると、闇の中、
かすかに耳をたたく雨の音を道連れに、二人は横になった。
泥のごとく疲れていた栄一郎はすぐに寝息をたてはじめたが、角井はそれにな
らわず、闇を透かして天井をにらんでいた。
ややあって、何かを思い出すごとき表情を浮かべたようであるが、それとて一
瞬の事であった。
「以前来た時は、狼が鳴いておったが。静かなものだ」
意味があるとも思えぬ独り言をこぼすと、角井はそっけなく眼を閉じた。
(五)
「栄一郎様」
聞き憶えた声がある。
「お前様、栄一郎様」
周りはすべて霧に包まれ、景色はつかめぬ。
栄一郎は振り向いた。上下前後左右から声が聞こえたのに、声の主が後ろにい
るのが、不思議にも分かったのである。
「お浜!」
栄一郎の眼前に現れた姿は、許嫁であったお浜のものであった。
それを認めた瞬間、栄一郎は剣を抜き放ち、彼女に向けて駆け出した。そして
大上段にふり構えた。
「なぜだ、何ゆえ拙者は! 何をやっておるのだ!」
降り降ろした。が、そこにはお浜の姿はない。かわりに、背中で声がした。
「栄一郎様」