#1532/3137 空中分解2
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炎狼鬼 第一章(2) おうざき
★内容
「お主、おい、お主だ。待たぬか」
「はいはい、どうもいつもお世話様でございます。ちょっと牢を探しております
のですが」
角井は、そらとぼけて役者をよそおった。役人の視線から、腰の名鉄を隠すご
とく体を直し、首だけはねじ曲げて役人に向ける。
「牢に入りたいのか」
役人が逆にした質問は、かなり意地の悪いものではあった。が、今すぐこの男
の舌を引き抜いてやる訳にもいくまい。
「ご冗談を。辻斬りの下手人と称される、森口栄一郎に面したく存じます。です
が何分にも広うございますゆえ迷いまして」
役人はなおも、視線で角井を刺してまわっていたが、ありもしない確信で自分
を納得させたらしくあった。
「よかろう。ちょうど拙者、牢番の交代に行くところ。そういう事ならば一緒に
来るがよかろう。なに、目と鼻の先じゃ」
「ありがとうございます」
角井は、役人の後ろについて歩きながら、腰の名鉄に指をかけた。
「それ、そこじゃ。あまり長居は」
その時である。奉行所を揺るがさんばかりの大声が轟いた。
「奉行所内に曲者がおる! 出あえ、出あえー!」
役人が角井に視線を走らせたのと、角井が役人にみね打ちを浴びせたのとは、
ほぼ同時であった。
(七)
明るいとは言いがたい雰囲気の牢の片隅に、若い男の姿をした絶望がたゆたっ
ている。
その絶望には、名前がある。姓は森口、名は栄一郎。
彼は、若くして剣豪の名を欲しいままとし「井岡の獅子」と呼ばれた剣術師範、
森口大善の一粒種である。
栄一郎もまた、父の血を過不足なく受け継ぎ、井岡の国で片手の指に入るほど
の剣の達人として成人した。そして両親の没後、道場をたたんで奉行所に勤めた。
「名に寄らず、腕をもって混迷の世に身を立てよ」
これが大善の遺言であり、栄一郎はそれにならい、剣の腕を我が為に生かす道
を選んだのである。
彼は頭が切れる割には正義漢であったし、加えて剣の腕は並外れていたもので
あったから、同期の中で、暗黙のうちに筆頭の立場に身を置く事となる。
彼の選んだ道には、穴も曲り角も、そして障害もたいしてありはしなかったと
言える。許嫁となったお浜と知り合い、その道はさらに広さと平坦さを増したご
とくに感じられた。
生涯まっすぐ続くと信じていた道も、宝羽三年を境に途切れて消えた。
何と言おうと、現役の同心が、酒に酔って許嫁を斬り殺したというのである。
動揺と、そして次には非難の声が、溶岩のごとく吹き上がった。
「剣に長けた有能な手下は自慢の種であった。いろいろと目をかけてやっておっ
たというのに、恩を仇で返すとは、まさにこの事だ」
「尊敬申しておりました。彼を目標と精励しておったというのに、今は目の前に
おるではないか。牢番の仕事がこれほどに辛く感じたのははじめての事。拙者は
この後、誰を目指せばよかろうか」
この声には、同心として優秀にすぎた栄一郎に対する職場のやっかみも、多少
は混じっているやも知れぬ。
森口栄一郎、二十六歳の初夏の事である。つい先日までの幸多き暮らしが、今
ではひどく昔の事に思えていた。
(八)
かつては同僚であった、正影英明や腕塚光弘などといった男達から受ける拷問
と尋問に、栄一郎は屈しなかった。栄一郎には、お浜を斬った憶えがなかったか
らである。本当に斬ったのならば、酔っていたといっても、忘れられるものでは
あるまい。
憶えがないものを、認める訳にはいかなかった。
だが、それも三日目となった。「井岡の獅子」の息子といえど、性根が岩石で
できている訳ではない。栄一郎の心にもきしみが生じはじめ、黒い影が、彼の頭
の内側にはびこりはじめていた。
(拙者はもしや、本当にお浜を斬り殺したやも知れぬ。ただ単に酔うて、斬った
のかも知れぬではないか。そうであって悪いという話がどこにある)
(ここで罪をかぶり、腹を切って楽になる方が、見苦しい言い訳を吐きつつ恥多
い人生をはいずるよりも、いっその事よしなのではないか)
そのごとき考えまで頭の端に浮かべた栄一郎ではあったが、そこで救いのない
静寂は、音とともに破れた。
「曲者! 出あえ、出あえー!」
ほんの一瞬前が別世界の事であったかのごとくに、鋭い怒号と足音によって、
奉行所の建物が振動した。騒然とした空気が飛び込んで来たのに気づいて、栄一
郎は我にかえる。
「まさか、助けが!」
鈍い動きで牢の奥から進み出た栄一郎の耳元に、あわただしい足音とともに、
角井源之進の声がたたき込まれた。
「森口栄一郎殿はいずこか、お返事めされい!」
この機会を逃す訳にはいかぬ。何度か口を動かした後、栄一郎はやっとの事で
返事を投げ返した。
(九)
「話は後刻に。拙者は角井と申す者、ゆえあってお助けいたす。走れるか?」
「うむ!」
耳障りな金属音が錠を開くと、二人の男は、疾風のごとく駆け出した。
「いたぞ。待て!」
待てと言われて待つ馬鹿はおらぬ。だが、追っ手は数を頼んで二人を追う。つ
いに二人は、奉行所の一角に追い詰められた。
「さて、どうしたものか」
さても困惑したごとくつぶやいた角井であったが、その眼は不敵に笑っている。
殺気だつ追っ手をかき分けて、二人の男が進み出て、剣を抜いた。正影英明と
腕塚光弘である。
二人とも、栄一郎には敵意にも似た競争心を持っていた。否、今この瞬間も持
ち続けている。目ざわりな男をのめす機会だと思っているのであろう、らんらん
とした炎を両眼にたぎらせていた。
「森口、刻限をやる。十まで数えるまでに、救いなき考えを直す事だ」
どこかわざとらしい口調を舌にのせて、腕塚が言い放つ。それが本心でない事
は、むしろ正影への目配せが、露骨に証明していた。
「一つ、二つ、三つ」
その時、正影が、
「十、数え終わった!」
そう叫び、栄一郎に斬りかかったのである。
(十)
周囲に、鉄どうしが擦りあわされ、きしんでもつれあういやな音が散った。栄
一郎はそれを耳にした時、息を飲んだ。無傷である。
正影は、鈍い振動と衝撃を手首に感じ、低くうめいた。