#1490/3137 空中分解2
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大和の空(3) YASU
★内容
(4)
有馬皇子が難波宮を去り大和へ移ったのは、天皇の死後七カ月ほ
どたってであった。彼は本当はいつまでもこの見捨てられた宮を寓
居とし、和歌の心を追い求めて生きていきたかった。しかし、大伴
伊呂麿が訪ねてきて、中大兄皇子やその側近達は彼がここに滞在し
続けることを快く思っていない風がある、今は自重して早く大和へ
移り住むようにと進言したとき、皇子は何か大きな力が自分を押し
包んでくるのを感じた。
伊呂麿は大和への途上、しきりと皇子を慰めた。彼はその言葉の
裏に秘められているものをおぼろげに考えていた。
彼らが大和の都に近づいたとき、周囲はあわただしく活気づいた
雰囲気になってきた。
「大和はずいぶんにぎやかだなあ。百済か新羅から朝貢の使いでも
来たのか」
「いえ、天皇は今や天の下に並ぶ者なき御威光をあまねく民に示し
給わんと、香具山の西から石上山までの大治水工事の志しを立てら
れ、広く民を集めておられます。工事はまもなく始められましょう。
が、なにしろ前代未聞の大工事にて、数しれぬ人の命が奪われるこ
ととなりましょうなあ」
「・・・」
「すでに民の間ではこの無謀な工事を誹謗する声があがっておりま
す。不平はこれからどんどん広がっていくことでしょう」
伊呂麿はじっと有馬皇子の顔をのぞき込んだ。皇子は目をそらせ
た。
これまでは伊呂麿の傲岸さと皇子の気の弱さが二人を結び付けて
いた。自分にはない若き伊呂麿の野心を少しでもかなえてやること
が皇子にしてやれる唯一のことだった。しかし、今の皇子の立場で
はもう彼に援助してやることはできない。皇子の存在自体が天皇や
皇太子中大兄皇子には疎ましいものになっているのだ。
孝徳天皇の皇后であり、舒明天皇の娘でもある間人皇女は容姿の
美しさでは当代随一の誉れ高い人であった。彼女には清楚と優雅が
適度な調和でそなわっていて、見る者の心を軽い驚きでひきしめる
何かがあった。しかし、近ごろの彼女の目はいつも潤んでいて、顔
にはおびえがあった。河原の枯れ草を震わせて通り過ぎる秋風にさ
えおののく病的な興奮が日増しに高じていた。
めったにないことだが、彼女が純白の筒袖に茜の領布(ひれ)を
纏って黄帝朝堂に入ってくるとき、群臣達の間から期せずして感嘆
のため息がもれた。そのようなとき中大兄皇子は目をじっと彼女に
向けて、彼女の視線を捉えようとした。だが、彼女は朝堂では決し
て顔を上げなかった。自分の席に着くと静かに高御座に向かい深々
と頭を下げ、その後はうつむいたきりだった。
彼女の大和へ来てからの憔悴ぶりは人々の目を引いた。彼女が回
廊を渡って内裏に帰っていく時の衣擦れの音は弱々しいにもかかわ
らず、他の音を制して人々の耳に残った。
「有馬皇子ではございませぬか」
皇子が間人皇后に呼び止められたのは、大和へ移りしばらくたっ
た日の朝議からの帰り道でであった。内裏に住居をまだ持たぬ彼は
、宮に近い所に寓居を営んでいた。
こんな所で間人皇后に出会うとは思いがけないことだった。都が
移って間もないころであり、やっと豪族や官吏の家も少しずつ建ち
始めてはいたが、周りはほとんどが水田と潅木だった。
間人皇后は婢を一人連れて道の側の林に立っていた。細々と立つ
雑木の中で、皇后自身もその一本であるかのように心細く弱々しか
った。
「このようなところで何をなさっておいでなのです」
立ち止まり、有馬皇子は訊いた。
「私はこの林の主ですの。でもこのあたりも次第に開けて、だんだ
ん木々が切り倒されていくのです。そして、そんな運命に私は抗す
るすべがありません」
そう言いながら、彼女は危うい足取りで皇子の方に近づいてきた。
そのとき皇子は自分の立場を忘れて、彼女の不安定な所作が美し
いと思った。衣の裾を拾う動きがなんとなまめいて見えることだろ
う。かつては父の妻であり、今は中大兄皇子の寵愛をほしいままに
し、武官文官の耳目を一身に集める彼女は、皇子には無縁の人であ
るが、たとえ神神の目にも今の間人皇后は至高の美と映っているこ
とだろう。
「皇子、大和へはいつ来られたのです」
「一月ほど前です」
「難波宮はとうとう見捨てられたのですね」
「・・・」
「そうですわね、都は次々移されても、結局天皇家のふるさと、大
和へ帰ってくるのですね。でも、私はもう一度難波宮へ行ってみた
い」
皇子は少し腹立たしくなった。彼女は父と自分を置き去りにして
大和へ移って行ったではないか。
「しかし、あなたには大和の方がふさわしい」
間人の顔が蒼白ざめた。
「そうお思いですの。結局私も天皇家の一員ですのね。私今刺繍を
しています。黄泉の国を描こうとしているのですが、出来上がるに
つれて恐くなってくるんです。なんだか私の思っているものと次第
にかけ離れてくるようで」
「一度ぜひ見せてほしいものです」
「ええ、お見せいたしましょう。でも、完成しないままになりはし
ないかと思いますわ」
その理由を訊くのは残酷なように思えた。
「皇子、あなたは私のことを恨んでおられるでしょうね、先の大君
をお見捨てした私を」
「そんなことはありません。今となっては私にとってどうでもいい
ことなのですから」
「いいえ、いけません、そんなふうにおっし
ゃられるのは。こんなことを私が申し上げるのは笑止とお思いでし
ょうが、父君の遺恨はいつもあなたの中で燃え続けてるはずです。
その火を絶やしてはあなたは生きていけないにちがいありません」
皇子は后の顔を見つめた。
彼女は興奮のあまり今にも絶え入りそうだった。それでも懸命に
有馬皇子の目を見返した。二人は互いの心を読みとろうとするかの
ように見つめ合った。
皇子の冷静な目に対して、間人皇后の目の中には揺らめく炎があ
った。やがて皇子の目にも彼女の炎が移って燃え立った。それを見
て取るや、彼女の体は支えを失ったように大きく揺らいだ。婢が体
を脇から支えなければ、倒れるところだった。
皇子は彼女を内裏まで送って行こうと言ったが、絶え入りそうな
声で、しかしきっぱりと彼女は断った。
「口さがない燕雀はどこにでも飛び交っています。三日後私は朝儀
の場に出ようと思っています。またお会いいたしましょう」
そう言うと婢に体をもたせかけて帰って行った。
間人皇后は自分の部屋に戻るとすぐ床に臥せってしまった。近ご
ろ言い様のない疲労感によく襲われた。自分の体が絹衣のようにと
らえどころがなくなり、ふわりと奈落の底に舞落ちていくような、
それでいて下降していく自分を意外とはっきりした意識が見届けて
いる、そんな不安を伴った疲労感だった。
横たわった彼女の脳裏に、先ほど会った有馬皇子の姿が浮かんで
きた。彼の物静かな視線は彼女を不安にした。彼の目の中に憎悪か
侮蔑を捜したが見いだすことはできなかった。もし彼があらわに自
分への憎しみを示したなら、彼女は自責の念から多少解き放たれた
ことだろう。
「中大兄皇子さまがおいでになりました」
婢が儿帳越しに伝えた。
「今日は気分がすぐれませぬ故、お会いできぬと申し上げてくださ
い」
彼女はとっさにそう言った。
婢が去っていくと、すぐ入れ替わって男の足音がした。
「どうなされた、また気分が悪くなられたか」
あたり構わぬ大声で中大兄皇子が儿帳のすぐ外に立った。。
「はい、先ほど外へ出たもので疲れたのでございましょう」
「何故外などへ出られる。まだ都が移って間がないので、内裏より
外へ出られるのは危険ですぞ」
「少しは気が晴れようかと思いまして」
「一目なりと会って行きたいので、儿帳を取り外してください」
「いいえ、今日はどなたともお会いしたくありません。どうかお帰
りを」
「だが、多忙な政務の間をぬって来たのです。お声ばかりでは頼り
ないではありませんか」
会わない、会ってほしいの押し問答がしばらく続いた。間人皇后
は次第に腹立たしくなってきた。孝徳帝でさえ自分が会えないと言
えばおとなしく引き下がったのに、今は権勢並びなき中大兄皇子と
はいえ、このように執拗に自分に向かって我を通そうとする権利な
どないはずだ。
「いいえ、どうかお帰りください」
りんと響く声が儿帳の中から発せられるや、中大兄は儿帳の布を
引き上げて中に押し入った。
声を上げるまもなく、彼女はたくましい男の腕に抱き起こされて
いた。
「私がこれほどお願いしているものを、そのように無下に拒まれる
のはいけませぬ」
有無を言わせない押し殺した声が、皇后の耳元でした。
男の肌は女のそれのようにじっとりと潤んでいて、ゆっくり、し
かし力強く彼女の体に絡んできた。
「おやめください」
間人は押しつぶされた喉の奥でふりしぼるように叫んだ。
「何を言われる。あなたはもう私のもの。そして、あなたは二度も
皇后の地位に上がることができようというもの」
それを聞くと体が石のように冷たく固くなっていくのを彼女は感
じた。そのとき彼女は中大兄を心から憎んだ。