#1491/3137 空中分解2
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大和の空(4) YASU
★内容
(5)
有馬皇子は病気を理由に数日朝儀に出なかった。
このようなとき内裏に起居していないことは都合がよかった。
何もない、また二人の従者以外誰もいない貧しい寓居では、心お
きなく瞑想にふけり、歌作に専心することができた。だが、この家
の外では自分に対する奸計が密かにしつらえられているのではない
か、そんな不安が心のどこかにいつもあった。
それが本当に動き始めたら、このような無防備な屋敷などひとた
まりもないだろう。そして、私は自分の知りもしない罪を着せられ
て、太陽の前の朝霧のように存在を抹殺されるのだ。
皇子が自らの運命をこのように予感しだしたのには、はっきりし
た根拠があったわけではない。だが、父である孝徳天皇が他界した
おり、その葬儀が皇子をまったく無視して行われ、それ以降の政治
向きのこともすべて皇子を排除して決められていくのを見ながら、
彼は自分が消極的に忌避されているのではなく、自分の存在を消し
去ろうと言う大きな意思が働いているのを感じていた。
難波の宮を離れるとき、皇子は自分に決意を迫る時期が次第に近
づいて来ていると思った。
だが、それから一月たった今も表面的な静けさのために、彼は自
分の道を選ぶためのこの猶予の時間を無為に過ごしていた。
稲田を渡る風が張り水の表につつっと小さな波を起こし、畦の雑
草を撫でていく夕方、伊呂麿が久しぶりに訪ねてきた。皇子は彼を
田畑や林や山並しか見えぬ南向きの部屋に通した。
酒杯を運ばせ伊呂麿に酒をついでやり、自分も満たした杯を手に
取った。
杯に酒の中に暮れゆく初夏の余光があった。
一息に飲み干すと喉を熱く流れる酒が快かった。
黙って杯を重ねてから、伊呂麿がぽつりと言った。
「健王(たけるのおおきみ)がなくなられました」
うん、とうなづいて、皇子はまた杯を干した。
健王は中大兄皇子の子であり、斉明天皇には孫に当たる皇子だが
、生来病身の上に口がきけなかった。だが、天皇はこの孫をことの
ほか可愛がっていた。
「天皇はこのところ気がふさいで食事も取られぬことがあるとか」
「私も聞いた。健王の死を傷まれて、毎日嘆かれているという。詠
まれる歌も彼の王のことばかりとか」
「天皇も神にあらず。どのように豪気のお方も、年老いてくると身
近な者の死は淋しさをいやますものなのですね」
伊呂麿はこの小さな死を現実的に考えていた。
天皇が老いて退位を決意すると、一体誰が次の大君になるであろ
う。これは一悶着ありそうだ。そうなれば中大兄皇子の横暴に好感
を持たぬ豪族たちが、団結して有馬皇子を押さぬものでもない。
一方有馬皇子は健王の死をもっと切実なものとして感じていた。
幼い者の死はいつも悲劇的だ。皇子は自分も若くして死ぬのではな
いかという考えにずっととりつかれていた。
いや、今は死ぬことはできない。自らの存在の痕跡もとどめずし
て死ぬことはできない。
死は彼には恐ろしいものではなかった。ただ彼は時間を超越する
ことだけを望んでいた。千年後、いや二千年後でもよい、誰かが私
の存在に気付いてくれればそれでよい。
伊呂麿が予想したように政治は根底から揺れ動き始めていた。
大化改新以後、土地を朝廷に奪われた地方の豪族の不満は次第に
高まってきていた。治水事業や大伽藍の建設に賦役として駆り出さ
れる民衆の間では、天皇を恨む声がふつふつと囁かれるようになっ
た。
だが、女帝はなぜか年老いるにしたがいますます大工事に意欲を
燃やした。
中大兄皇子や中臣鎌子はあえて無謀な計画を諌めようとはしなか
った。
いつの時代も一つの絶大な権力が成就するには、多大の犠牲が払
われないとならないのだ。
(6)
有馬皇子が間人皇后から、ぜひ内裏の自分の部屋まで来ていただ
きたい、私はこのところ疲れがひどくてどこへも出かけられません
ので、という短い手紙を受け取ったのは、長い梅雨の雨が都の家家
の屋根と飛び交う燕の翼を打つある日のことであった。
彼は、皇后が先日言っていた黄泉の国の刺繍を見せるためだろう
と思った。
翌日間人を訪れた皇子は、彼女がひときわ痩せ衰えているのに驚
いた。しかし、老いた身が枯れ木のごとく衰弱するのとちがって、
身体とは逆に精神はますます鋭敏になっていくらしく、目は危険な
光を宿し唇は異様に紅かった。
向かい合って二人は互いを見つめていたが、その重みにさきに耐
えられなくなったのは皇子の方であった。
「黄泉の国は完成したのでしょうか」
「いいえ、でも生き地獄は日一日と成就されています」
「・・・」
「私はこのごろ先帝の夢ばかり見ます。恨みとも軽蔑ともいえぬ表
情を浮かべられているのです」
「しかし、私は先帝は後の世で、もはやその地位が誰にも脅かされ
ないことでみ心を安んじておられると思いますが」
「いいえ、帝はこの世での遺恨が晴らされるまでは心安らかになる
ことはありません」
「しかし、それは時の流れが決めること。この世を去った者は私た
ちとはちがって、永遠の時間を待つことができるのですから」
「そのようなことはさかしげな沙門らの申すことです。私たちが生
きているのは心の内に熱い思いを持ち続けていればこそ。この火が
消えぬ限りは、たとえ肉体は滅んでも魂は死にはしません。私とて
も・・・」
さっきまで死人のように蒼白だった彼女の顔は輝きを取り戻し、
目には一層燃え盛る炎を宿していた。
彼女は皇子の方ににじり寄ると、皇子の手を取り自らの頬に押し
当てた。彼はとっさに彼女の手を払いのけようとした。だが、皇后
の手は意外なほど強く、彼は逃れることができなかった。
彼女の髪は皇子の目の中でいっぱいに波打っていた。彼女を囲む
香の薫りは皇子をも包み込んで心を撹乱した。
美しかった。実際彼女は美しかった。
だが、彼はその美しさを自分のものにしたいという気にはなれな
かった。それは間人が父の后であったからではない。彼女の背後に
うごめく大きな力を彼はどうしても感じ取らずにはいられなかった
のだ。
二人が抱き合ったままでいたのはどれくらいの間だったのだろう。
突然間人皇后は皇子の胸に顔をうずめたままつぶやくように言った。
「皇子、どうか亡き大君の遺恨を晴らしてください。皇子こそ帝と
なるべきお人です。そして、私を苦しみから救ってください」
後で思い出すとき彼女はそう言ったようであり、何かまったく別
のことを囁いたようにも思われた。
だが、そのとき皇子は夢中で間人の体をはねのけるや部屋を飛び
出していた。
どこをどう通ったのか、気がつくと彼はそぼ降る雨にぐっしょり
濡れて、内裏からそう遠くない池のはたにたたずんでいた。
有馬皇子が発狂したという噂が群臣たちのあいだで私語かれるよ
うになるまでに、時間はかからなかった。
ある者は、皇子が和歌を作ってはそれを理解できそうにない童た
ちに詠み聞かせていた、と言い、別の者は、彼があてもなく都大路
を歩きまわり、誰が話しかけても返事をしないばかりか、あるとき
などは通りかかった坂田部連(さかたべのむらじ)の娘を見て、間
人皇后と呼びかけたと話した。
この噂は政情不安という風にもてあそばれて、またたくまに広が
った。
ただ中大兄皇子と間人皇后、そして大伴伊呂麿の三人はそれぞれ
の思惑から、皇子の発狂を信じていなかった。
現在我々は、皇子が本当に発狂していたのか、偽装だったのか、
それとも一時的にしろ彼の行動を奇妙に見せる心の混乱が彼の中に
あったのか、知るすべを持たない。ただ日本書紀は、彼が天皇に休
養を乞い温泉地に出かけて行ったことを伝えている。
そして、再び都へ帰ってきたとき、彼には変化が起こっていた。
彼は歌を詠まなくなった。
あれほど切実に求めていた歌の心を、彼は放棄したようにみえた。
また、彼の顔からかつてのような物思いに沈んだ暗い翳が消えた。
落ちついたというよりどこか飄然とした彼の態度は、彼を見知る
人々を驚かせずにはいなかった。
絶望的に何かを追い求める心の不安が去り、自分の得たものを温
め優しく守ってやりたいというゆとりが感じられた。
ある者は彼が浮き世離れしてしまったと言ったが、彼は世事に無
関心になったのではなく、それどころか日常のささいな出来事にも
心優しい興味を持つようになった。
終日を語部の老婆のもとで過ごし彼女の語る神々の世の希有な話
しに熱心に耳を傾けたり、ひとりで都の外に出かけて行っては、民
の暮らしを眺めて倦むことがなかった。
しだいに周りの者達も彼には関心を持たなくなった。
中臣鎌子は都の造営を自ら指揮して、腹心の部下と都大路を歩い
ていた。そのとき彼は、有馬皇子が一人の髪を背まで垂らした少女
を連れてこちらへやってくるのを見つけた。
「有馬皇子、久しぶりでございますな」
彼は軽く頭を下げた。
「牟婁(むろ)の湯はいかがでしたか」
「ええ、とてもいい所でした。静かで海に近く、また山も迫り出し
て、人が定住できそうにないのがかえっていい」
「それは、それは、私もぜひ行ってみたいものですな」
「一度行かれるといいでしょう。天皇にもお勧めしてみようと思っ
ています。あのように健王のことばかり思われていては、お体にさ
わりましょう」
鎌子は鋭く皇子の顔を窺った。
こいつ、急に大人びてきやがったが、はたして何か胸に一物持っ
ているのではあるまいか。
だが、鎌子の鋭敏な眼差しも、落ちついた皇子の目の中に一点の
危険な光も見いだすことはできなかった。彼の他人を信じることを
知らぬ耳も、皇子の言葉の中に作為を聞くことはできなかった。
皇子は連れの少女の頭を撫でて、先へお行き、そして雲がおまえ
の失くした犬の面影を作ってくれるのを待っているんだよ、と言い、
少女がうなずいて駆け出すのを微笑んで見送っていた。