AWC 京夜日記>その壱 「綺麗」      ■ 榊 ■


        
#1005/3137 空中分解2
★タイトル (HHF     )  91/ 6/26  23:57  ( 99)
京夜日記>その壱 「綺麗」      ■ 榊 ■
★内容

   人はいろいろな感情を持っているが、「綺麗」だという感情についてだけは僕
  は理解することができなかった。
   ライオンを見て「恐い」と思う。
   映画を見て「悲しい」と思う。
   試合に勝って「嬉しい」と思う。
   すべての感情が、ステゴザウルスがやったとしてもおかしいとは思わないよう
  な、本能的なもののように受け取ることができる。
   でも、「綺麗」だけは違う。
   ステゴザウルスが、遥かなる夕暮れを見て「綺麗だ……」と呟いたとして、そ
  れがいったい何になろう。生きていく上で必要な感情だとは、とても考えること
  はできなかった。
   こういった考えが幼心のついた頃からあった僕は、何を見ても「綺麗」だと感
  じることはなかった。
   そういった意味でこの「綺麗」だと感じる気持ちは、僕にとって後天的なもの
  であり、学習して得たものであった。

   いちばん最初に「綺麗」だと感じたのは、おそらく中学の頃だったと思う。
   どんな些細な感動でも涙を流してしまう母親と一緒に青葉しげる庭をながめて
  いると、母は「もっと、感受性を持ちなさい」と言った。
   あまりにも感動薄いこの息子を心配しての一言のようだったが、僕にはまった
  くこの言葉の意味が解らなかった。
   何はともあれ部屋にひきこもり、辞書で「感受性」と言うものを調べ、「感じ
  ること」であることを何はともあれ憶えた。それが実際に体感に変わったのは、
  それから1週間ぐらい後のことだったと思う。
   あれは確か、日曜日に家族一緒にぶらぶらと町内を歩いていたとき、夕暮れ近
  い空に黄金に輝く曇が散らばっていた。
   沈みかけた太陽がまともに曇の表面に光をあてたせいで黄金色に見えたのだが、  ドイツに行って始めて憶えた言葉が通貨単位の「マルク」だった僕にとって、そ
  れはとても「綺麗」な色だった。
   お金を散りばめたような黄金に輝く曇………それが最初の「綺麗」だったと思
  う。
   それから段々と「綺麗」だと感じる回数は多くなっていったが、単純なことに
  最初はほとんど空に関してだった。
   見上げる空の限りなく透明に近い青、
   限りないグラデーションを見せる夕暮れの色合い、
   太陽が沈むほんのわずかな間だけ、深い青色に没する街。
   そういったものを見て、「綺麗」だと感じていた。

   そして次はちょっとは成長して、小賢しくも絵を見て「綺麗」だと感じた。
   これまた家族で、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの絵画展を見に行った。
   その数多くの習作の中で、二つ心に残る絵があった。
   1つは、木々の隙間から本当の太陽がのぞいてるいるような絵。そして、もう
  1つはゴッホ自信の部屋に奇妙に置かれた椅子の絵だった。
   その椅子の絵を見たとき、何と下手な絵だろうと思った。
   なんでこんなおかしな風に椅子を描いたのだろうかと理解できずに、しばらく
  考え立っていた。
   しばらくじっと立ってその絵を見つめていた僕に、横にいた母がこう説明して
  くれた。

  「変わり者のゴッホにもたった一人だけゴーギャンという友達がいて…………会
  えばいつも喧嘩して彼はこの部屋を出て行ってしまうのだけれど、また来てはこ
  の椅子に座っていたんだって。でもとうとうゴーギャンが旅立って二度とこの椅
  子に座らなくなって、ゴッホは寂しくしょうがなくてこの絵を描いたみたいよ…
  …」

   ゴッホの人となりは、何となく理解していた。
   天才故に狂人で、一人ぼっちで、寂しがりやで、貧乏だった。
   理解されずに、一枚も絵が売れなくても描き続けていた。
   そしてとうとう、喧嘩ばかりするけど大切な友達がいなくなって、苦しいほど
  に寂しくなった。
   どんな思いで、この椅子を描いたのだろう。
   どんな願いを込めて、一タッチ、一タッチ、描き入れていたのだろう。
   そう思ったら、ふいに胸がしめつけられた。
   その奇妙に置かれた椅子が他のものを圧倒して、目の前にあった。
   綺麗だった。
   激しく綺麗だと、そのとき思った。


   数年後、僕は受験に失敗した。
   最初のテストで絶望的な成果を残したとき、迫りくる結果に恐怖して、夜にな
  っても震える体を止めることができなかった。
   生まれて始めてのことだった。
   何もすることができず、ただライト一つの闇のなか机の前で僕は震え、マリア
  ナ海溝の底にたった一人残されたような孤独感におおわれていた。
   その長い夜が開け、初めに見たのは、木々を切る庭師の姿だった。
   頼まれてやってきた庭師が、庭の木々の手入れをしていた。
   海での嵐のように荒れた心が、そのごく普通の、何でもない光景をとらえた。
   涙が出そうだった。
   すべてが平和だった。
   その平和な姿が、極度に緊張し疲れきった意識がほんの少し休むことを、許し
  てくれた。
   ちょっとだけ安堵して、凍えたときにふともれたため息のように、涙がでた。
   多くの光の中にいる時はその光の存在に気が付かなくとも、闇の中にいる時は
  一筋の光でも気が付くのと同じ原理なのかもしれない。
   本当に何でもない光景かも知れない。
   でも全てが平和で、綺麗であった。
   何を見ても美しくて、涙が出そうだった。


   どんなに落ち込んでも、いや落ち込むほど「綺麗」であることが胸にこたえる。   そして、僕を深い底から蜘蛛の糸のように引き上げてくれる。
   すべてが綺麗でありますように。
   すべてが平和でありますように。
   強く、生きるために。
   微笑むために。

                                                     (HHF99190) ■ 榊 ■





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