AWC お題>「鏡」    YASU


        
#1004/3137 空中分解2
★タイトル (UTJ     )  91/ 6/17  21:46  (130)
お題>「鏡」    YASU
★内容
 一日中上を向いて寝ていると、はじめのうちは死ぬほど退屈で、
何でこんな思いをして生きていなくてはいけないのかと、それこそ
神仏を恨む気持ちだったが、二、三か月もすると、じっと寝ている
だけでも考えたりしたりすることはあるものだと、納得するように
なった。
 首から下が何の感覚もなく、もちろん自分の意志では両手両足と
も動かせないのだが、五官のうちほかの感覚は異常がないから、じ
っと寝ていても、外界のいろいろな刺激は入ってくる。動けない分
ほかの感覚は鋭くなるらしい。
 とくに嗅覚は鋭敏になる。隣の家はいつもは夕食の魚は鯖かせい
ぜい鯵だが、今日はぶりにしたらしい、たぶん主人の給料日だから
だろう、とか、母がトイレの臭い消しを取り替えたな、とかが分か
るようになる。
 そこからいろんな想像が湧くから、けっこう他人が思うよりも楽
しんでいる。
 聴覚もそして味覚も、事故に遭う前よりはずっと細かい弁別がで
きるようになったと思う。
 だが、視覚だけはいけない。なぜなら、首さえも動かせない人間
にとって、固定された視野ではいくら感覚が鋭くなっても、得られ
る情報は限られてしまうからだ。
 最初は母が来るたびに首の位置を変えてもらったり、電動ベッド
の傾斜の角度を変えてもらったりしていたが、それでも見える範囲
は一定だから周囲で何が起こっているか、視覚的に把握するのは難
しいことが多い。
 じっとして見ていて分かったことだが、人間の見ている範囲とい
うのはずいぶん狭いものなのだ。視野の周辺で何かが起こっても、
眼球が移動する間にそれが視野を離れてしまえば、何が起こったの
か分からない。だから人間の視力は敏感な体の反射運動に支えられ
ている、ということができる。
 このような感覚の研究が、ぼくのような脊髄損傷の患者を使って
行われたことはあるのだろうか。医者はぼくのようなあきらかに治
療不可能な患者には興味がないらしい。
 交通事故で運び込まれた病院に、パート医として来ていた若い医
者は、頚椎の手術を熱心にすすめて、自分の勤める大学病院へぼく
を転院させた。そして大きな機械の前で何時間も耐えられないほど
不自然な姿勢を強要し、首の後ろから太い注射針を差込み、ぼくの
体を団子でも揉むように左右にころがした。
「辛抱してくださいね、手術のためにはどうしても必要な検査です
から」
 ぼくはその言葉を唯一の頼りにして耐えた。
 脊髄啌に造影剤を流し込まれたときは、一晩じゅうひどい頭痛と
吐き気に悩まされ、眠れなかった。いまでも曇天の日には頭痛がす
るのは、このときの検査のせいでないか、と怪しんでいる。
 結局、この患者には手術の適応はない、という教授の鶴の一声で
ぼくの運命は決まった。
「すみませんでした、やるべきことはやったんですけど」
 若い主治医のすまなそうな顔を見ては、胸の憤懣をぶちまけるこ
とはできなかった。
 彼のアドバイスに従って、大学病院を退院し、リハビリテーショ
ン専門の病院に移った。そして、このとき以来彼とのつながりも切
れてしまった。
 リハビリといっても、ぼくのように完全な四肢の痲痺を来してい
る者は結局あまり効果が望めないらしく、理学療法士の先生たちの
言葉の端々にも絶望的なニュアンスがしだいにみえてきたので、ぼ
くは通院を断念した。
 以来ぼくは終日をべッドで送ることになった。
 最初は気分の滅入る日々だった。
  死を考えることもないではなかった。
 だが、生への力のほうが強かったらしく、だんだんと自分のこれ
からの生き方を冷静に考えられるようになった。
 なによりもまず自分の世界を少しでも広げるように考えてみた。
 そしてぼくが試みたのは、目の届く所にいろいろな鏡を置くこと
だった。
 まずベッドの足元に嫁いでいった姉の古いドレッサーを置いた。
長い楕円形のドレッサーだった。少し前かがみにして置くと、自分
の全身とさらに頭を越えてドアーの辺りまでが見えた。
 ベッドの右脇の本棚には母の昔使った顔を見るだけの小さい鏡台
を置いてもらった。千代紙模様の和紙を貼ってある、引出しのつい
た古ぼけた鏡台で、鏡自体にも粉を吹き付けたようなくもりが浮き
出ていた。これはベッドの左側の畳から窓際、さらに庭の方まで写
している。
 本棚の最上段にはホームセンターで買ってきた、自動車のルーム
ミラーに使う細長い凸面鏡を付けてもらった。これで部屋全体がよ
く見えた。
 それ以外に枕許には丸い女ものの手鏡が置いてある。これは備え
付けの鏡でも死角になる部分を、母がぼくに見せるために使うもの
で、さすがに自分だけで留袖や小紋を粋に着こなすことができる母
は、合わせ鏡をしてぼくに庭先のとても見えそうにない場所まで見
せてくれた。
 はじめの頃は一つの鏡から別のに移ると、どこを見ているのかし
ばらく考えないと分からなかったのが、今ではテレビ・ディレクタ
ーがさまざまのアングルのカメラを自由自在に使いこなして一本の
作品を作るように、鏡はぼくの第二の目になっている。

 古い家を改造して使っているぼくの家は、縁側の向こうにアルミ
サッシの窓がある。そこから庭につらなっていて、庭にはカイズカ
、楓、イヌツゲにまじって、コデマリやキリシマなどの潅木が植え
てある。
 これまで何気なく見ていたときには余り気が付かなかったが、庭
も季節によってずいぶん趣が変わる。
 楓の色づく頃のはなやかさと室内を満たす晩秋の冷気、コデマリ
の雪を思わせる花と春の明るい日差し、剪定を済ませたばかりのカ
イズカに降り注ぐ初夏の太陽。同じ庭とは思えない変化だ。
 自然のいとなみの偉大さを想う。

 植物ばかりでなく、動物も懸命に生きている。
 今日も隣の飼い猫がのそりと現れた。
 たしか名前をミッチーとかいっていた。何度か孕んでいるのを見
た記憶があるから、雌猫にちがいない。もう十年近くは飼われてい
る。人間で言えば老年期を迎えているわけだ。
 彼女は毎日一回は庭先を横切る。そして、そのときこちらの様子
を必ずうかがう。どうもぼくを人間様とは認めていないふうで、泰
然自若として部屋の中を見る。鏡の中から舌を鳴らせて呼んでみて
もそ知らぬ顔で通り過ぎる。
 そんな彼女が早春のある日現れたときは、どこか落ち着きがなか
った。こちらをぜんぜん見ようとしない。ぼくの所からは見えない
が、隣の家との境をなす朽ちかけた板塀のほうをさかんに気にして
いる。いつもならさっさと通りすぎるのに、妙にぐずぐずしている。
 そして、その理由はまもなく分かった。大きな雄の黒猫が、庭の
右半分を写している棚の古い鏡台の視野にはいってきたのだ。
 黒猫が近付くと、ミッチーはさっとコデマリのしげみに入ってし
まう。黒猫は彼女の動きをじっと見ながら、なんとか追いつこうと
して駆け出すが、ミッチーのほうが一枚上手らしく、思いの丈がと
げられないようだった。
 ぼくは古い鏡台とさらにその上にある凸面鏡を交互に見ながら、
二匹の生き物の動きを追った。
 一度だけ黒猫はミッチーをとらえて、交尾できそうな瞬間があっ
た。
 しかし、ミッチーはするりとのがれて、また二匹は追っかけゲー
ムをやりはじめた。
 そして、やがて二匹は鏡の中から消えてしまった。
 あの年でやるものだと、ぼくは感心した。

 その年の夏、ミッチーの腹はまた大きくなった。そして、しばら
く姿を見ないと思ったていたら、すぼんだ腹にピンク色の乳房をい
くつも白い毛の間からのぞかせながらのっそり現れた。
 彼女にとってはそろそろ子育てが負担になってきているのではな
いか、そんなことを思いながら、ぼくは彼女の姿を鏡の中に捜して
いる毎日である。
              <了>




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