AWC お題>若き日の約束               YASU


        
#942/3137 空中分解2
★タイトル (UTJ     )  91/ 4/26  22:36  (194)
お題>若き日の約束               YASU
★内容

 タカフミ、カズコ、おまえたちはたぶん今、それぞれの家族といっしょに楽し
そうに田舎へ向かって旅行していることだろう。
 あと一日したら、またわが家にもおまえたちがいたころの賑やかさがかえって
くる。
 あのころは楽しかった。
 田舎にも田舎の活気があった。
 昔ながらの土地の行事と、学校の行事と、それぞれの家の行事が結び付いて、
一年という時間を作り上げていた。
 ひとびとは時間を意識することなく、いつのまにか生長し、年を取り、死を迎
えることができた。
 今、わが家にはそのような自然な時間の流れというものはない。
 そして、それは私たちの家だけではない。
 村全体がそうなのだ。
 ここには古い井戸の底にたまった水のように、外界から遠くへだたった時間の
沈澱が、静かに横たわっているだけだ。
 律子が一年前に死んでから、私にとってますます時間はこごりのようになっ
た。
 カズコ、おまえは前々から私たちの出会いを聞きたがったものだね。
 子供が親の若い頃のことを知りたがるのは、自分の出生の秘密を知りたがるの
と同じことで、誰にでもあることだ。
 しかし、いつも私たちにうまく答えをはぐらかされて、おまえは不満そう
に口をとがらせていたね。
 私たちがおまえに私たちの出会いのことを語らなかったのは、話せないような
秘密があったわけではない。
 ただ、律子と私の間でそのことは誰にも言わないことにしようという、約束が
あったのだ。
 だが、今日私はおまえたちにその話をしよう。
 かといって、恋愛小説を読むような話を期待してもらっては困る。
 私たちの出会いはまったく陳腐なものだった。

 私と律子が知り合ったのは、私が二十一で律子が二十のことだった。
 当時、私は東京のある私立大学に籍を置いていたものの、学校には行かず、昼
間は道路工事夫のバイトをして、夜は詩や小説を書いてばかりいるような生活を
していた。
 両親はそんな私に腹を立てて、おまえが勉学する気持ちがないのなら送金はし
ない、かってに生活費を稼いでやっていけばよい、と言ってきていた。
 私の方もそれならそれでいい、自分でやっていくまでだ、と心に決めて、手紙
一通書かずにかたくなに自分の生活を押し通した。
 いま思えば、豊かではなかった両親は、大学へ行きたかった姉を、おまえは女
だからとあきらめさせて、私を大学へ行かせたてまえ、どうしても私に卒業して
ほしかったのだと思う。
 しかし、私にとって大学は、それほど魅力のある所ではなかった。
 自分にはもっとほかにするべきことがあるように思えた。
 そのころ、もう一つ私を悩ませていたことがあった。
 それはチック症だった。
 右の頬から眼瞼にかけて、筋肉がひきつるようにけいれんするのだ。
 止めようとすると、それは余計にひどくなる。
 人に会っているときなど、来るぞ、と思うと、もう私は激しく緊張してしまう。
「どうしたんですか」
 そう問われただけでいけない。
 私はチックを抑えようと懸命になって、顔を真っ赤にして、あとは会話どころ
ではない。
 自分の症状から解放されるのは、体を酷使しているときだけだった。
 だから私はバイトに道路工事夫の仕事を選んだ。

 そのころの私の唯一の楽しみは、バイトの後の遅い夕食を済ませて立ち寄る、
地下鉄の駅の近くの喫茶店だった。
 薄暗い店内は私にとって安らぎの場だった。
 抑えた音量でクラシックが流れていた。
 バッハは緊張に疲れた私の神経をなだめてくれた。
 モーツァルトは明日への希望を呼び起こしてくれた。
 ただマーラーだけはいけなかった。マーラーはなぜか両親の悲しそうな顔を思
い起こさせた。
 そして私はある日、その喫茶店でおまえたちの母と出会ったのだ。
 その日も私は心身ともに疲れはて、夕食もほしくなくて、喫茶店の椅子に沈み
込むように座っていた。
 強いコーヒーが胃の粘膜のひだのすみずみまで刺激するのを感じる。
 やっと他人の視線からのがれて、チックが起こりそうになるのを必死で抑えな
くてもよくなった。
 バッハの「トッカータとフーガ」が荘重に響いている。
 私はすべてを忘れて、この音楽に身をゆだねた。
 オルガンのしみわたるような低音。
 心がゆっくりときほぐされていく。
 あれほど私を苦しめたチックまでが洗い流されるような快感。
 目を閉じてこの瞬間を生きていることを感謝する。
 そのとき私は誰かが自分を見ているように思えて、目を開いた。そして玉しだ
の鉢の向こうから私を見ている、若い女性の視線にぶつかったのだ。
 それが律子だった。
 私はひどく狼狽した。
 仮面をかぶることに馴れた人間が、素顔の自分を見られたように、相手にどの
ような顔を向ければいいのか分からなかった。
 そしてそんな状況に自分を追いやった女に腹が立った。
 私は乱暴にレシートを手に取ると、席を立った。
 ところがその翌日、喫茶店で私はまた律子に会った。
 私はいつも奥のトイレのそばの、あまりひとが座りたがらない席に座るのだが、
なにげなく目をあげると、昨日と同じ場所にあの女性が座っているのだ。
 私はまたうろたえた。そしてうろたえた自分に憤りを感じた。
 私は彼女に背を向けるように座りなおした。
 しばらくして背後で声がした。
「あのう、ちょっとだけお話してもいいですか」
 彼女だということは、振り向かないでも分かった。
「いいですよ」
 私は自分でも言った後で無作法すぎたかなと思ったくらい、ぶっきらぼうに答
えていた。
 彼女はこちらがかわいそうになるくらい緊張した面もちで向いの席に腰を下ろ
した。
「あなたはひどいひとね」
 下を向いて、彼女はぽつりと言った。
 なんだ、これは、と思った。
 私が黙っていると、彼女も我慢比べをするように、身を堅くしている。
 やがて静かに泣きだした。
「ぼくが何かしたというのですか」
「ええ、あなたは何もしません。でも何もしないことで、私をからかっていたの
ですね」
「わからないなあ、一体本当にどうしたというんだ」
 私はだんだん腹が立ってきた。
「私のことはもう一週間も前から、気付いていたんでしょう」
「なんだって」
「あなた、はじめてのとき、私に何度もウインクしたじゃないの」
「ウインクした」
「そうでしょう」
 あんたのことを知ったのは昨日のことだぜ、と言おうとして、私は気が付いた。
 私のチック症を彼女は自分へのウインクと勘違いしたのだ。
  ほの暗い音楽喫茶の店の中では、そんなふうに見えたとしてもおかしくはない。
 あはは、と笑ってから、私は急に覚めた気持ちになった。
 自分の触れられたくない部分を、自分で説明しなくてはならない羽目に陥って
いるのだ。
「あなたは笑ってごまかせるかもしれないけど、私は許せないわ」
「許してもらわなくてもいいけど、とにかくひどい誤解だ」
「そう、それじゃあ、いくら話し合ってもしかたないわね。でもあなたは私をか
らかった上に、傷つけたわ。むしろ冗談、冗談だよ、と言うひとのほうが、よほ
ど誠実だわ」
 そう言うと、彼女は私をにらみつけてから、突然立ち上がった。そして、レジ
のほうへ行こうとした。
 私はどうしたものかと迷いながら、彼女の後ろ姿を目で追っていた。
 歩くたびに、彼女の上半身は左右に大きく揺れた。
 あきらかに彼女は脚が悪いのだ。
 私は彼女を追って立ち上がった。
 レジで追いつき、
「君、ちょっと待てよ」
 と、声を掛けたが、彼女は私を無視して、レジの女の子にお金を渡すと出て行
こうとする。
 私もあわてて勘定をすませ、後を追った。
 怒りにまかせて、彼女ははや五十メートルぐらいさきを、やはり上体を激しく
左右に揺るようにして歩いて行く。
「待ってくれよ、頼むからさ」
 私は息を切らせて彼女に追いついた。
 だが、彼女はものも言わないでどんどん歩いて行く。
「事情を説明するからさ、ちょっと止まってくれよ」
 私が彼女の肩に手を触れると、
「何するのよ」
 と、彼女は怒鳴るように言った。
 通りすがりの人たちが私たちを見た。
 だが、そのときの私は全然人目が気にならなかった。
 私は彼女の目をじっと見つめて言った。
「チックなんだよ、チック」
「チック」
「そう、ウインクしたわけじゃないんだ。これ、ぼくのビョウキなんだ」
 彼女は私の顔を大きな目で見返した。
 そのとき私は、本当にチックが起こればいいと思った。
 だが私の顔面の筋肉はぴくりともしなかった。
「そうなの、そうだったの」
 ひとりごとのように言う。
「はじめ私、あなたが私に好意を持ってくれたのかと思って、それで毎日あの喫
茶店に行き、あなたの来るのを待っていたの。でも昨日のあなたは、急によそよ
そしくなったようで、結局あなたも脚の悪い私をからかっただけなのだって思っ
たの」
 彼女の目に涙が浮かんだ。
 心底かわいいと思った。
 抱きしめたい気持ちをじっとこらえた。
「あした、もう一度会ってくれる?」
 彼女は目を上げて、私を見た。
 私も律子を見つめた。
 こっくりうなづいて、彼女は手をちょっと上げてから去って行った。

 これが私と律子の出会いだったのだ。
 まもなく私は律子と結婚した。
 そして、タカフミ、カズコ、おまえたちができた。
 医者は先天性股関節脱臼のある律子が、子供を二人も生むのは無理だと言った。
 しかし、律子はどうしても子供がほしいと言って、反対を押し切った。
 こんな頑固な患者ははじめてだ、と医者もあきれていた。
 だが、彼女は妻としても母としても立派だった。
 おまえたちは律子に感謝しなければならない。
 不自由な体で子供二人育てることは、並み大抵のことではない。
 タカフミ、カズコ、覚えているかね、死ぬ間際の律子のことばを。
 乳ガンにおかされ、二度も手術を受け、それでも愚痴一つ言わなかった母が、
最後におまえたちに残したことばは
「生きていたい、生きていたい、誰のためにでもなく、自分のために生きていた
いんだよう」
 あのことばを死に行くものの未練と考えるなら、それはおまえたちの思い違い
だ。
 彼女は懸命に生きた。
 そのことをせめて家族は知っていてほしい、彼女はそう言いたかった。
 これで私のおまえたちに伝えたかったことは終わりだ。
 律子が死んだとき私の人生は終わっていた。
 明日の律子の一周忌を私は自分の人生の最後の日に選んだ。
 そうすれば二人の命日は同じになる。
 悲しむことはない。私は望んでそうするのだから。
 ただ一言付け加えると、おまえたちは私のチックを見たことがないことを、不
思議に思うかもしれない。
 しかし、律子と出会った日以来、私のチックは治っていたのだ。

                                 <了>




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