AWC 封神(5)        青木無常


        
#930/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ     )  91/ 4/19   7:59  (194)
封神(5)        青木無常
★内容
 その小さな肩に戸川静子と桑原弘の身体を軽々とかつぎあげて、ゆかりが森の中
から姿を現した。
 「間にあわなかったわ……」淡々とした調子で、告げた。「ひとり、死なせてし
まったの……」
 武彦はうなずき、そして居合わせている全員に向けて叫んだ。
 「さあ、さっさと帰り支度を始めた方がいいぜ! 死にたくなかったらな!」
 途端、なにかに弾かれでもしたかのように、あわてて人々は走り出した。
 菊村明久だけが、茫然と佇んでいた。
 「あんたもね、先生」
 武彦が言ったのへ、菊村はその視線を巡らせる。
 刺すような憎悪の視線だった。

       6

 蒼空の西の彼方から、ゆっくりと黒雲が湧き出してきた。
 かすかに、雷音が響く。
 春雷は慈雨を運ぶ吉兆なのだろうが、目に見えるほどのはやさで広がりつつある
黒雲の中で閃く雷光の輝きは、どこか不吉で凶々しい。
 冷たい風が樹間にざわめいた。
 「陰気が充ちてきたわ……」
 だれにともなく、ゆかりがつぶやく。武彦は黙ってうなずくだけだった。
 麓から続く林道を、二台のマイクロバスが昇ってくるのを見つけて、今か今かと
待ちくたびれた人々の目が一斉に輝きを帯びる。
 だれもが一様に安堵の表情を浮かべている。
 「どうにかかたづいたようだな」
 武彦の肩ごしに、嘲るような声が小さく聞こえた。
 ふりかえりもしない。ふりかえっても、そこに何者の姿も見出だせないことを武
彦は知っていた。
 「遅きに失したようだぜ、彪太」
 抑揚のない言葉の裏側に、後悔と叱責が隠されている。
 応えた嘲り笑いには、怯む様子の一片だに含まれてはいなかった。
 「まあ仕方あるまいよ。おまえのせいじゃない。報せをやらなかったおれのせい
さ。全部、な」
 むっつりと黙りこんだまま、武彦は近づいてくるバスに視線を向ける。
 「あの人頭虫の幻影はなかなかよくできていただろう」くつくつとおかしそうに
笑いながら、姿なき声は言った。「人面犬とかいうばかげた話から思いついてな。
連中、心底震えあがってたようだぜ」
 そこで初めて武彦はふりかえり、林の奥の下生えに向けて刺すような視線を送っ
た。
 「あれもわざとだったのか?」
 「なにが?」
 そらっとぼけた返答に、武彦は牙を剥く野獣のような顔をしてみせた。
 「とぼけるない。おまえの幻影にけしかけられて、何人かが薮ん中に潜んでいた
化物の顎に呑みこまれちまった」
 ああ、と彪太はいい、
 「偶然さ、偶然。知らなかったんだ。あんなのがあそこに隠れていやがったなん
てな」
 真実味のかけらもない口調で応じた。
 けっ、と吐き捨てて武彦は向き直り――眉をひそめる。
 「斉藤さん」
 呼びかけられた斉藤が、背をぎくりと震わせてふりむいた。不安と緊張が極限に
まで高まっていたのだろう。
 「――なんでしょう……」
 怯えた目が機嫌をうかがうように上目使いに向けられる。
 「菊村先生はどうしたんだ?」
 武彦の問いに、斉藤は驚いたように周囲に視線を走らせた。
 「……いないんですか?」
 「見当たらないね」
 不安に怯えた数十人の顔の中には、たしかに菊村明久の姿は見出だせない。斉藤
はにわかにうろたえ出した。
 「まさか扉の方に行ったんじゃ――」
 武彦は音高く舌打ちをした。
 今まで気がつかなかったのが不覚だ。学究の徒というのは、時に想像を絶する愚
挙に出るものだ、と今さらながらに痛感する。偉大な発見の多くもそのような愚行
から為されてきたものなのかもしれないが、この世には人間の踏みこむべきではな
い場所が無数に存在することを、恐怖によってさえ受け容れられないなど、度が過
ぎている。死の危険をさえかえりみようとはしていないのだ。
 「ゆかり、後を――」
 頼む、と言いかけて、武彦は言葉をのみこんだ。
 すさまじい圧力を伴った邪気が、急速に接近しつつあるのを感じたのだ。
 燃えるような視線を、ゆかりは林道の脇の樹間に向けていた。
 その喉から、かすかに獣のうめき声が響く。
 武彦は見た。
 山腹を、白いものがうねりながらゆっくりと這い降りてくるのを。
 霧であった。
 異様な霧だ。元来、不定型で虚空をさまようだけのものであるはずなのに、その
霧は明らかにひとつの形を成して、まるで生物ででもあるかのようにゆっくりと這
い降りてくる。
 長く、うねりながら。
 蛇体。
 そう、それは忌まわしき蛇体を思わせる形状をとりながら、山腹を音もなく滑り
降りてくるのである。――今まさに、林道を昇りつつある二台のマイクロバスを目
指して。
 「そんな……」
 見守る一人が、うわごとのようにつぶやいた。
 シュッと、空気が鳴いた。
 と同時に、武彦の傍らからゆかりの姿が残像を残して消えた。
 普通の人間には不可能な加速で、ゆかりは蛇体の霧に向かって走り出したのであ
る。
 野獣の動きであった。軽やかに、優雅に、そして俊敏に跳躍をくりかえし、虚空
にたゆたう妖魅に飛びかかる。
 空気を切り裂く鋭い音が耳に響いたような気がした。
 鮮やかに弧を描いたゆかりの手刀に、一瞬、妖魅の蛇体が分断された。
 が――粒子の集合体には、なんの効果もなかった。まっぷたつにされた胴体はす
みやかにもとの形を復元し始める。
 「退がれ、ゆかり!」
 武彦の叫びが響きわたった。
 ざん! と音を立ててゆかりが樹間に退いたのを確認する間もなく、武彦もまた
妖魅に向かって走った。
 コートの内側に手をさしこむと、刺すような視線を霧怪に向ける。その唇がかす
かにうごめき、呪文のようなつぶやきがもれ出てきた。
 コートからぬき出された手には、黒塗りの手裏剣が数本。
 打ち出された手裏剣は、黒い閃光と化して霧怪の頭部を貫く。
 と同時に、武彦の両の手が印を結んだ。
 ひそやかなつぶやきに呼応するように、印の中央に光が生まれた。霊光だ。無論、
普通の人間の目には知覚できない。
 蛇体がのたうちながら、武彦の方にその顔を向けた。霧の奥に見える光は、目な
のだろう。邪気が噴きつける。
 ごっ、と音を立てて、強烈な風圧が叩きつけられた。髪とコートが大きく後ろに
なびく。
 仁王立ちのまま微動だにせず、武彦の唇はよどみなく呪文をつむぎつづけた。
 その双眸が、すうと細められる。
 次の瞬間、大音声とともに霊光が爆発した。
 樹々が一斉にざわめき、視界が白く染め上げられた。
 霊光に追い散らされて霧怪は爆散した。
 ふう、と息をつぐ間もなく、背後から怒号が轟きわたった。
 ふりむく武彦の前に、樹々の間から巨躯が踊り出た。牙の立ち並んだ巨大な顎に
はたしかに見覚えがある。ついさっき武彦に追われて森の奥に逃走した妖獣だ。
 ――が、その巨体は、明らかに先刻よりもひとまわり大きくなっていた。
 「くそ……!」苦々しい思いが口をついて出た。「あの先生、開けやがったな…
…」
 目に見えるほどに、妖気が強まっているのだ。いまや全天をおおいつくした黒雲
も、この妖気に召喚されたものか。
 巨大な鈎爪がぶん、と風を切って飛来する。武彦の身体がふわりと後方に飛び、
鋭利な爪は宙を薙ぐ。
 入れかわるように、ゆかりの小柄な影が疾風のごとく傍らを走り抜けた。
 黒影は妖獣の眼前を横切る。
 灰色の皺のおりたたまれた妖獣の顔面が、影の飛来した軌跡を追って五条に切り
裂かれ、すだれのように皮膚をたれさがらせた。
 どっ、と、噴水のようにどす黒い血が噴き出した。
 ガラスに刃を立てるような耳ざわりな咆哮が周囲をどよもし、妖獣は狂ったよう
に鈎爪のついた腕をふりまわした。地響きを立てて林道を横切りはじめる。
 そのまま、棚状になった道の谷側までふらふらと歩み寄り、足を踏みはずして滑
り落ちた。
 立ち並ぶ樹木が、膨大な重量をささえ切れずに次々と薙ぎ倒され、怪物とともに
斜面をずり落ちていく。
 その下に走る林道を、今しも二台のマイクロバスが通り過ぎようとしていた。
 岩塊が後ろの一台の進路をふさぎ、急ブレーキの音が鳴り響く。
 避け切れず、よろめきながら鼻面を岩塊に追突させて、バスは停止した。バスを
運転していた者は衝撃によろめきながら、前部ドアの開閉装置に手をかけた。
 空気の抜けるような音がした。
 それだけだった。ドアは、開こうとするそぶりさえ見せない。
 衝突のショックでドア部分がひしゃげてしまったのだろう。運転手は舌を打ちな
がら、忌まいましげにバスの進路をふさいだ障害物に目を向けた。
 罵言のひとつも吐くかわりに、ひっと音を立てて喉を震わせた。
 すだれに切り裂かれた傷口からどす黒い血を流す怪物が、怒りに充ちた眼光を車
内に佇む自分に向けて据えていたのである。
 声さえ出てはこなかった。がくがくと笑いはじめた膝を必死にひきずって、亀の
のろさで後退るのが精一杯だった。
 地獄の底から響きわたるようなすさまじい咆哮が、バス全体をびりびりと震わせ
た。
 恐怖に縮み上がって腰をぬかしてしまった運転手には、気づく余裕さえなかった
だろう。野獣のように猛スピードで斜面をかけ下ってくる救いの女神の姿には。
 葉ずれの音とともに林道に降り立った少女に、妖獣は憎悪の眼を向けた。
 ゆかりの唇の端が、きゅっとつりあがった。その狭間には、キラリと光を放つ白
く鋭いものがある。
 首に二重に巻きつけた数珠のようなものに、手をやった。
 シュッと音を立てて、首飾りははずれ――一本の鞭のようになった。
 その先端の珠が、鋭利に尖っている。
 妖獣の双眸に怯えの色が奔ったと見えたのは、単なる錯覚なのだろうか。鞭状の
数珠の放つ霊光には、たしかに力強いものが宿っていた。
 怒号とともに、両腕をふりあげて妖獣は少女に襲いかかる。
 瞬間、少女の身体が閃光と化した。
 ずっ――
 鈍い音がして、ゆかりの姿が妖獣の背後に鮮やかに舞った。
 怪物の首が、ゆっくりと傾き始めた。
 ぽろりと落ちた。
 きれいに分断された傷口から、どす黒い血がどっと噴出した時、バスの車内では
運転手が己れの失禁にも気づくことなく呆然とした表情で腰を抜かしていた。


 樹間をぬってつづら織りにはしる林道を、ゆっくりとカーブしながら先頭のバス
が姿を現した時、人々はほっと安堵のため息をついた。
 つかのまの希望に過ぎなかった。
 群がるように車体にとりついた無数の小影に人々は眉を潜め――恐怖に喉を鳴ら
す。
 猿、と見えた。
 少しちがっていた。
 その身体の形状や大きさはたしかに猿だった。が、その生き物には目がひとつし
かなく、さらに頭部からは鋭利な長い角がにょっきりと生え出ていたのである。
 運転席の人影はハンドルに顔を伏せたままぴくりとも動かない。
 バスが急な曲がり角にさしかかり、見ている者たちの間にああ、とため息とも悲
鳴ともつかぬ声があがる。
 カーブを曲がり切れぬまま、バスはゆっくりと谷底に向けてその鼻面を乗り出し
た。
 ぎちぎちと絶望の音を轟かせてバスが谷底に落ちていく寸前、車体に取りついて
いた無数の黒影は次々に山林に向けて消えていった。
 「くそったれめ――」
 苦渋に充ちた声音で、武彦はつぶやいた。
 「やるしかねえのか……」
 「そのようだな」
 さもうれしげな調子で、あいかわらず声だけの彪太が相槌を打つ。
 ぎり、と奥歯を噛みしめ、踵を返すと武彦は山間目指して走りはじめた。
 その先には、菊村明久がいるはずであった。




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