#887/3137 空中分解2
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影の棲む館(2) 青木無常
★内容
血まみれの顔貌からはすでに、実業家の顔も霊能者の顔も、ふたつながら
喪われようとしていた。そこにあるのは苦悶する老人の死相以外のなにもの
でもない。おそるべき邪悪さを噴出する妖気にあてられて即死を免れただけ
でも、霊能者としての名誉は充分に立証されたはずだ。一瞬のうちに数十年
もの老いを見せるにいたった事実は、彼がいかに壮絶な恐怖を体験したかを
物語っているに過ぎない。
苦々しい思いと、そして無力感とが、葉子の胸に湧きあがる。
激しく首を左右にふって、強いてそれを否定した。
まだ終わってはいない。
なにもかもを投げ捨てて敗北を認めるには、まだ早い。
それは、予感であった。揺るぎない確信にも似た予感。
父を押し退けて有無をいわさず救急車に乗りこんだのも、その予感ゆえで
ある。いまごろ両親はどこへいくもならぬまま、あの洋館でまんじりともせ
ずに葉子の帰りを待ちわびているのであろう。
が、葉子はどうしても、この男の死を看取らないわけにはいかないように
思えたのである。
なにかが、なにかとても重要なことが残されているような気がしてならな
かったのだ。
一千万ドルの夜景が、今宵はやけに色褪せて見える。闇をぬうようにして
赤色灯の回転が街をすりぬける。道ゆくひとの姿も、すれちがう車のヘッド
ライトもない。街の夜はただひたすら、静まりかえった暗闇の底に沈みこん
でいるばかりだった。
「――ど……」
しぼり出すような声が、葉子を我にかえらせた。
白蝋のような唇が、葉子になにかを告げようとしていた。
耳を寄せる。と、わななく唇がしわがれた声をしぼり出してきた。
「じょ……うど……浄……土…武…彦に…………」
残されていた重大なものが今、葉子に告げられようとしていた。
1
少女は、三宮駅構内へとつづく繁華街の壁にその背をあずけて、若者が電
話をかけている姿にじっと見入っていた。
先を急ぐ人びとが目の前を次々にすりぬけていくのを気にかける風もなく、
ただじっと電話ボックスの中へ、その澄んだ瞳を向けている。
年のころは十六、七。うす汚れた男もののコートを引きずるようにして羽
織ったその姿は、微笑ましい光景でもあり、また少しうら寂しいようなもの
を感じさせもした。
身につけているものに代表されるみすぼらしさは、少女の秘めた愛らしさ
を損なわせてはいない。長くのびた髪をポニーテールにしている。頭上の高
架線から響いてくる列車の音に、ふと夕空にそまよわせた瞳の色は淡く、ま
るで高価な宝石のような美しい輝きを秘めていた。
暮れはじめた街角。歩道にあふれ出す人の群れ。それぞれのゆく先をめざ
して、街の住人たちは整然と流れに身をまかせていく。
そんな夕暮れの中でひとり、少女だけが、安らぎのようなものを抱きなが
らただ、たたずんでいた。
都会の雑踏には似つかわしくない姿かもしれない。
しかし、少女の浮かべた可憐な微笑が、道ゆく人びとをも含めた風景の中
に、ささやかなコントラストを添えているのもまた、たしかであった。
安らいだ微笑は、電話ボックスの中の若者に向けられたものだった。
その微笑を呼んだ若者は、受話器を架台に戻して電話ボックスを出るとこ
ろだった。
身長は百九十前後。春までにはまだずいぶん間があるというのに、よれよ
れのシャツの上から三つまでボタンをはずして寒そうなそぶりさえ見せてい
ない。泥のこびりついた靴をゆっくりと踏み出して、少女の待つ一角へと人
波を横切りはじめる。
ゆったりとした動作だが、隙がなかった。駅の玄関から無数に吐き出され
てくる人の流れを崩すこともなく、いとも無造作に突っ切ってくる。
少女と同じように、髪も顔も汚れ放題になっていた。おそらく何日も風呂
に入っていないのだろう。荷車に毛布とガラクタを積みこんで公園のベンチ
にでも寝転がっていれば似合いそうな風体だ。が、その汚れの下に隠されて
いるのは、どこか高貴なものを思わせる精悍な顔立ちであった。
少女は微笑みながら若者を見つめる。湖面に舞い落ちた一片の花片を思わ
せる微笑。
それがふと、問いかけるような表情に変わったのは、少女が若者の顔にい
つもとは違ったものを感じたからだったのか。
「どうだった?」
問いかけに応ずる若者の答えは、きわめて簡潔であった。
「死んだそうだ」
少女の瞳に驚きの色が浮かんだのは、ほんの一瞬。
「そう」
そっけないとさえ感じさせる言葉も、若者と同じように平静で簡単なもの
だった。
ハイライトをくわえて火をつけると、若者は深々と肺に煙を送りこんだ。
少女の瞳は、すでに闇一色に染まりはじめた虚空に向けられる。
「いつ?」
「昨日」
「息子さんは?」
「弟が引き取るってことだが……。中山さんとこに行くことになかもしれ
んな」
「前の奥さまが亡くなったのはたしか……」
「二年前だ」
「そういうことか」
「ああ」
追悼の言葉もなく、哀惜の涙も流されはしない。
が、それでもなお、ふたりの瞳の奥には、なにかが光っていた。
夕暮れの街角。ふたりは古い友人と待ち合わせていた。約束の時間に友人
は現われず、一時間待って若者が電話をかけた。そして訃報を受け取った。
それだけのことだった。
しかし――
「たしか」再び若者を見上げた少女の目には、先程とは違った光が宿って
いた。「あの人、近いうちに除霊をなさるって、言ってたわよね」
「ああ。知り合いに頼まれてな」
「それはいつ?」
「昨日だったそうだ」
「そういうことか……」
「らしいな」
その短いやりとりは、先程とは微妙に雰囲気が異なっていた。
紫煙がゆらゆらと立ち昇っていく。そのゆく先を、ふたりは見るともなし
に眺めていた。
ふと、若者の視線が横を向いた。
人波の中に、学校の制服に身をつつんだひとりの少女が、駅構内から走り
出てくる姿が見えた。息を切らして人群れをぬいながら、きょろきょろと周
囲に視線をはしらせている。人をさがしているのだろう。
若者は、その光景をぼんやりと眺めていた。
その二の腕を、少女がぐいとつねった。
「兄さま」
咎めるような視線の奥に、笑いが隠されている。
若者は苦笑し、煙草を靴底で踏み消すと、もたれていた壁から背を離した。
「いくか」
少女はうなずき、ふたりは肩をならべて歩き出した。
その時、ふたりの背後から声がかけられた。
「あの……」
ふりかえるとそこには、ついさっき武彦が見とれていたばかりの制服姿の
少女がいた。
「すみません、浄土武彦さん――ですか?」
肩を忙しく上下させながら、少女が訊いた。
若者――浄土武彦がうなずいてみせると、少女の顔はぱっと明るく輝いた。
「よかった、間にあって、私、秋月葉子という者です」