#886/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 91/ 3/19 5:20 (129)
影の棲む館(1) 青木無常
★内容
来る。
直感が葉子に告げた。
まちがいない。全身に広がりつつある悪寒。部屋の内部の温度が急激に下
がりつつある。首筋を走りぬける冷気。触れもしない頭髪がざわざわと逆立
ちはじめる。
吐く息が白く凍る。外気が突然流れこんででもきたかのようだ。いや、も
しかすると、今この部屋の中の温度は寒風に吹きさらされた屋外よりもなお
低下しているのかもしれない。
葉子をはさむ形で両隣にすわった両親も、おぼろげに異変を察知したよう
だ。二対の視線が不安げに虚空をさまよう。
そしてもう一人――
「いよいよ始まるようですな」
三人の正面、籐椅子にゆったりと腰をおろした男が、葉子の直感を保証す
るように宣告した。
男の名前は柳瀬といった。父・秀明の友人筋から紹介された人物だ。前回
までのような営業霊能者たちとは異なり、ごく内輪での超常現象事件を無償
で解決してきた人物である。その筋ではあまり名を知られてはいないらしい
が、かなりの霊能を秘めている、という話だ。
事実、葉子自身、この柳瀬という男と正対すると、なにか吹きつけてくる
ようなものを感じる。それは精神的重圧感というような域をこえて、物理的
な圧力さえ感じさせるほどのものであった。少なくとも、以前この屋敷を訪
れた二人のインチキ呪い師たちとは風格がまったくちがう。かれら二人は、
無事にこの館を出ることさえできなかった。が、今度は、もしかすると――
そんな期待を葉子に抱かせるものを、柳瀬は持っていたのである。ただしそ
れも――なかばあきらめの入りまじった、はかない期待ではあったが。
仕立てのいいグレーのスーツにつつまれた体躯は、大柄だが決して肥満し
てはいない。秘められてなおにじみ出る、といった感じの威厳は本業の実業
家にもふさわしいものだ。そして、一見哲学者めいた風貌に不意に浮かぶ子
供のように無邪気な微笑は、彼のもとで働く数十人の部下を鉄の結束で結び
つけずにはおかないに違いない。
この人の笑顔を見られるのなら、命さえ惜し気もなく捨てる人がたくさん
いるのだろう。葉子はひそかに、そんな感慨を抱いていた。
が、今は実業家の威厳も無邪気な笑顔も、この男には無縁のものとなって
いた。
今柳瀬は、神秘的な表情をしていた。突きささるように鋭い霊気が、その
全身から放射されている。
そして、もうひとつの気配もまた、とどまるところを知らず恐るべき勢い
で増大しつづけていた。
階下の居間にある古い柱時計が、刻を告げる鐘を鳴らした。
静まりかえった洋館に、その音だけが殷々と残響を韻かせる。
窓の外に広がる暗黒は、ただ際限なく重く沈み、沈黙だけが世界を支配す
る。
そして邸内には、緊張に今にも音を立てて張り裂けていきそうな静寂。
その静寂が、ふいに――
パキッ!
異音とともに、破られた。
ラップ現象。
超常体験の開始を告げる合図である。
ほぼ同時に、なにかガラスが触れあうような音が響きわたってきた。
得体の知れない寒気が、雪のように音もなくまいおりる。
柳瀬の半眼に閉じられた双眸が、突き刺すような視線を頭上にすえた。
豪奢な照明が、ゆっくりと円を描いて揺れ動いている。
次の瞬間、その視線の方向が素早く転じられた。
暗黒を映す窓へ。
地震でもはじまるかのように、窓はカタカタと揺れはじめていた。それも
また、次第に大きくなっていく。
それが、目に見えない巨大な手に力まかせに揺さぶられるように激しい音
を立てはじめたとき――
一瞬にして、すべてが静止した。
急激に訪れた静寂が、四人の耳にすさまじい量感をともなって流れこむ。
が、それもまた、一瞬。
バン!
静まりかえっていた窓が、音を立てて外側に開いた。
ドン! ドン! ドン! ドン!
どこからか、力まかせに床を踏み鳴らすような音がとどろいてきた。ノッ
キング・ノイズは屋敷中を震わせながら怒り狂うようにして広がっていく。
すっと、今まで籐椅子に腰かけていた柳瀬が立ち上がった。
きつく寄せられた眉の下、にらみつけるような視線を虚空にすえる。
霊能者と、親子三人の向かいあった真ん中の空間に、白い蒸気のようなも
のが凝縮しつつあった。
――出……セ……
――オレヲ……ココ…カラ……出セ!
邪念に充ちた声が、葉子の頭蓋の内部に反響した。
葉子にのみ、聞こえる声だ。両親には聞こえない。おそらく柳瀬もまた、
この声を聞いてはいないだろう。
渦まきながら凝縮していく白い影が、ゆっくりとひとつの形をとろうとし
ていた。
人だ。
上半身だけの、人の形だ。
ドライアイスのように激烈な冷気を噴き出しつつ、白い人影は激しく渦ま
く。
柳瀬が、両手を人影に向けてぐいと突き出した。
引き結ばれた口から、裂帛の気合いが吐き出された。
風に吹き散らされるように、白い霧が四散した。
が――押し寄せる冷気はとどまるどころか、一層激しくなりまさる。
「霊気が屋敷全体に拡散している」つぶやく言葉が、端から白く凍りつく。
「どこだ……?」
しかし、怪異の主には、柳瀬の霊視による探索をおとなしく看過するつも
りはなさそうだった。
籐椅子が、ふわりと宙に浮かびあがった。
「柳瀬さん!」
葉子の声にふりむいた柳瀬は、籐椅子が意思をもつもののように自分目掛
けて飛んでくるのを目撃した。
間一髪、凶器と化した籐椅子は、柳瀬の頭上ぎりぎりをすりぬけて壁に激
突した。粉々に砕けた破片が飛び散っていく。
柳瀬は、虚空に双眸をすえると、剣印を結んだ。
力強い呪文が口をついて出ると同時に、結んだ印の形を素早く変化させて
いく。
「臨・兵・闘・者・皆・陳・裂・在・前――いぇえいっ!」
気合いを爆発させると同時に、柳瀬は剣印を宙に打ちこんだ。
ガラスの砕ける音とともに、屋敷中の照明が光を失った。
一瞬の沈黙。
だが、怪異は敗北を認めてはいなかった。
否――勝利を確信した!
四散したシャンデリアの破片が、ふわりと重力の拘束から解き放たれた。
「むう、いかん」柳瀬がしぼり出した声は、完全に焦燥に色彩られていた。
虚をつかれたのである。「ここは危険だ。みなさんは外へ避難して! 早く!」
柳瀬の叫びが終わらぬうちに、母の千種が葉子の手をとって躊躇なく飛び
出した。遅れて父が後を追う。
秀明がドアに体当たりをして飛び出した時、葉子は見た。
乱舞するシャンデリアの破片の中央に、闇よりもなお暗い底なし穴のよう
なものが、柳瀬の眼前に立ちはだかるようにして生まれてくるのを。
灯明ひとつなくした部屋の中で、砕かれた椅子とガラスの破片が次々に柳
瀬に襲いかかっているころ、一家はやっとのことで難を逃れて館の外に立ち
つくしていた。
――出セ。
――出セ。
――オレヲココカラ出セ。
呪咀と怨念に充ちた声が、勝ち誇ったように葉子の脳裏に響きつづけてい
た。
サイレンの音が深夜の街を、遠く、不吉に、駆けぬけていく。
担架の上で柳瀬は、苦しげにあえいでいた。顔面から無数の血筋がしたた
り落ちていく。おそらくガラスの破片は全身に隈なくもぐりこんでいるに違
いない。
だが、この男を蝕む死の侵食は、もっと別の種類のものであることを葉子
は知っていた。