#744/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 91/ 1/10 16:40 (103)
ベルが鳴る(1) 青木無常
★内容
ひどく疲れていた。
車両全体に、倦怠が重く淀んでいる。だれもが、のしかかる疲労を酒くさ
い息にのせて吐き出しているようだ。実際にそのとおりなのだろう。にじみ、
瞬き、いまにも消えてしまいそうな街の灯りの中を、最終電車はよろ這うよ
うに流されていく。
間の抜けた音を立てて開くドアをすりぬけ、タクシー乗り場へと殺到する
一団。あとを追う気にもなれず、疲れた足取りでおれは重いステップを踏む。
バスの運行は終了している時刻だ。タクシー乗り場へは足を向ける気にもな
らない。長蛇の列を構成する一員になるなど、考えるだけでうんざりだ。ち
ょっと前までは駅前のそんなあさましい光景に嘲笑をおくりながら、酔った
両手をハンドルに乗せ軽快に深夜の街を駆け抜けていた。いまのこの凋落ぶ
りが、ひどく非現実的なことのように思えてならない。
街は、眠りこけているように暗く沈みこんでいた。華々しく明滅をくりか
えすネオンの灯りが、自分とは無縁の別世界のように遠く見える。
明日からのことが、ふと頭の隅をよぎる。感情がそれを拒否した。泥酔の
力を得て、奥に押し込める。なにも当てはない。考えたくもない。
いまの、自分のおかれた状況も。
路地の奥から、けたたましい笑い声が響く。おしつけがましい声だ。世界
に向けて自分の幸福をまくしたてていやがる。気をつけるがいい。世界は、
敗残者には目もくれない。
ひとけの失せた駅前で途方にくれた。マンションまで歩いて十五分。とて
つもなく遠い道のりだ。学生の頃は、六畳一間のアパートへ一時間かけて足
を運ぶのも苦にはならなかった。いまでは、自分の部屋が現実の彼方に退い
てしまったような気さえする。遠からず、それも現実となるだろう。何ヵ月
も家賃を滞納している。かといって、いまさら共同トイレの安アパートに引
っ越す気にもなれない。
重い足を、強いて踏み出す。ほかに行き場所はない。都市は金のない三十
男に安らげる場所を与えてくれるほど慈悲深くはない。路上で眠り込み、朝
を迎えることなく凍死するのも馬鹿ばかしい。
大通りに向けて、おれはひきずるように足を運んだ。
その時、ベルが鳴った。
路地の脇の商店前に設置された、緑色の公衆電話だ。おれはびくりと背を
震わせる。
いやらしい音だ。けたたましく、おしつけがましい。受話器を取り上げな
いかぎり、いつまでも人を責め続けるだろう。取れ、取るんだ、受話器を上
げろ、それがおまえの義務なんだ。
周囲を見回してみた。人影はない。あたりの商店も、軒並みシャッターを
固く閉ざしている。取り上げる者もないまま、ベルは頑なに鳴り続ける。
無論、その電話に出る義理などおれには一片だにありはしなかった。無視
して通り過ぎてしまえばいい。だれだって自分の生活を持っているはずだ。
他人の都合にふりまわされたくはあるまい。
だがおれは、明日に絶望していた。
竕緒たたきつけられていたのだ。
なにか後ろめたいような気持ちで、おれはその受話器を取り上げた。
取り上げた瞬間、後悔した。自分のことを、いったいどう説明すればいい
のか。あるいは、なにか面倒なことを頼まれはしないか。たとえば眠りこけ
ている商店主を叩き起こしてくれとか、どこか近くにいるはずのNTTの作
業員をさがしにいけとかいった、ひどく煩雑で、それでいて満足のいかない
余計ごとを押しつけられはしないか、と。
回線のつながるわずかな間に、頭蓋内部を逡巡が荒れ狂う。しかし、考え
のまとまらないうちに電話はつながっていた。
かすかな雑音が、耳をつく。沈黙と当惑をひそめた雑音。
ひどく長い間、相手が声を出すのを待っていたような気がする。だが、そ
れも一瞬のことに過ぎなかったのかもしれない。
「もしもし」
沈黙に耐え切れず、おれはかすれた声を送話器に送りこんだ。
相手は、黙りこんだままだった。当惑しているのかもしれない。当然だろ
う。おれはこの電話機の呼び出しに応ずるべき人間ではないのだ。
「もしもし」
と口にしながら、自分のその姿がひどく滑稽に思えてきた。これで返事が
なかったら、受話器を降ろして退散するつもりだった。
意に反して、答えが返ってきた。
女の声だった。
「早く来て……」
そう言った。
つかみどころのない声だ。深夜の街にはふさわしくないような、ひどく稚
い響きがある。それでいて、抱えてきた年月の重さに疲れ果てたような、苦
しげにさえ思えるような重い声でもある。
「は?」
間の抜けた返事を返した。ほかにどう対応しようがあったのだろう。ただ
でさえ、酔いと絶望の向こうに思考力を閉じこめられていたというのに。
「早く来て……。その路地の向こうにいる……」
女は、おれの当惑にはおかまいなしに、くりかえした。そして問い返す間
もなく、一方的に電話を切った。
やけにやかましく響く発信音を受話器の向こうに聞きながら、おれは呆然
と電話の言葉を反芻していた。
早く来て。それだけだ。おれが何者かを問い正そうとさえしなかった。気
がつかなかったのかもしれない。受話器を取ったのが目当ての人物ではなか
ったことに。
だが、それにしても妙だ。
が渦巻いた。いったい、あのメッセージはだれに当てて発せら
れたものだったのか。こんな時間帯にどこへ、なんのために人を呼び出すの
か。そもそも、あの女はいったい何者なのか。
どうでもいいことだった。いずれにせよ、おれにはまったく無関係だ。
おれは踵を返した。
路地の方向へ。
好奇心がそうさせていた。疑問はすでに具体的な形を取りはじめている。
どんな顔をしているの女なのか。年齢は? 職業は? こんな夜の街でなに
をしているのか。呼び出すつもりだった相手はだれなのか? その男と、ど
こで、何をするつもりだったのか。そもそも、あの電話は特定のだれかに当
てたものだったのか。それとも……。
不思議なことに、おれの足取りから重さが消えていた。好奇心はひとの身
を軽くするのかもしれない。女の正体がわかるまでの、ほんのひとときの昂
揚にしか過ぎないのだろうが。
街の小さな一角に築かれただけの路地は、それでいて顔さえ見知らぬ女を
さがすには充分な広さだった。商店は今日に限って軒並みシャッターを固く
閉ざしており、行き交う人の姿も見当たらない。すえた反吐の臭いばかりが、
どこからかおれの鼻を不快に刺激する。おれはついに、二股に別れた分岐点
で途方にくれて立ちどまった。路地の向こうにいる……どうしようもなく貧
弱な情報だ。もしかしたら、単にからかわれただけなのかもしれない。おれ
は舌うちをして周囲を見まわし――
障りな呼び出し音に驚かされた。