AWC ベルが鳴る(2)       青木無常


        
#745/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ     )  91/ 1/10  16:46  (120)
ベルが鳴る(2)       青木無常
★内容
 ふりかえってみると、やはりさきほどと同じように公衆電話だった。
 壁を穿って取りつけられたカード式の電話が二つ、切れかかった蛍光灯の
下にならんでいる。そのうちのひとつが、明滅する光の下で癇に障る音を高
らかに反響させていた。
 おれは、なんとはなしに焦慮に駆られて、あわただしく四囲をうかがった。
が、狭苦しい小路には、顔を覗かせるものさえいないようだ。電話の呼び出
し音など、あまりにもありふれすぎていてだれの注意も引かないのだろう。
 おれは電話に歩み寄り、受話器を取った。
 雑音の奥に、かすかな息づかいを聞いたような気がする。
 「早く来て……」
 言葉が耳をつく。声も口調も、まったく同じだった。あきらめきったよう
な気怠い響き。どこか切羽つまったような、それでいて期待を狂おしく圧し
殺したような、ひどく投げやりな口調。
 「……君はだれだ?」
 当然の疑問を、俺は口にした。なぜか、答えは返ってこないような気がし
た。
 案の定、女は同じ台詞をくりかえしただけだった。
 「早く来て……その角を右……」
 「おい、いったい君は――」
 言葉は途中で断ち切られた。受話器を架台に降ろす音が暴虐に鳴りわたり、
しらじらしい間を一拍置いて発信音が単調に響きはじめる。
 まるでなぐられでもしたように、おれは握りしめた受話器を呆然と見つめ
ていた。
 混乱が脳内を渦まく。女が、なにを意図しているのかが分からなかった。
いまのやりとりで、おれがどこのだれともしれぬ通りすがりの人間だという
ことは理解できたはずだ。にもかかわらず、女はくりかえした。早く来て、
と。
 狂女を連想した。頭のおかしい人間がふらつくには、適当な時間帯かもし
れない。月光の照らし出す狂気のもとで、人は理性などというものに束縛さ
れることなく、かぐろい心奥の闇を解き放つのだ。
 とまどいにしばし佇み、おれは意を決した。
 女の指示する方向に足を向ける。
 女の狂気が、伝染していたのかもしれない。あるいは、真夜中の幻聴を耳
にした時すでに、おかしくなっていたのだろうか。
 暗いショーウィンドーの奥に佇む無機質なマネキンに女の姿を重ねつつ、
おれは小路の奥に分け入った。千鳥足で練り歩いたかってしったる街なみの
はずだったが、奇妙に記憶とずれている。あそこには、二十四時間営業のフ
ァーストフード店が、消えやらぬ灯で煌々と深夜の街を照らし出してはいな
かったか。あの通りには、明け方まで酔客の哄笑の絶えない赤ちょうちんが、
明々と灯されてはいなかったのか。
 再び交差路で立ち止まると、おれは公衆電話をさがした。
 飲み屋が軒をつらねる狭苦しい路地にはふさわしからぬ、真新しい電話ボ
ックスが目についた。
くりと歩み寄り、扉を開ける。待っていたかのように、電話が
けたたましく震えた。
 今度はなんの躊躇もなく、受話器を取り上げた。
 「早く来て……」
 女は、再びくりかえした。
 おれはごくりと唾を飲みこんだ。
 背筋に、怖気がふるったのだ。
 異界、という言葉が頭に浮かんだ。女の声は、どこかこの世とはかけ離れ
た遠いところから響いているのではないか。この声に導かれてたどりつく先
には、二度とこの世に帰ることのできない呪われた異世界があるのではない
か。
 おれは鼻先で笑い、ばかげた考えを打ち消そうとした。だが、送話器に向
けて発した声は、意に反してかすかに震えを帯びていた。
 「君はだれだ……? なぜおれを呼び出すんだ……」
 女は一瞬、黙りこんだ。
 電話線の彼方で、じっと息をひそめる気配が伝わる。
 女のその当惑の気配に、おれはなんとはなしに安堵していた。
 これでおれは解放されるのかもしれない。さきほどの恐怖は、やはりただ
の幻想に過ぎなかったのだ。女はまちがいに気づき、電話を切るだろう。ち
違いだったのだ。
 おれは、ほっと息をついた。悪夢から醒めたような気分だった。
 まちがっていたのは、おれの方だった。
 「あなたが呼んだのよ……」
 静かに、まるで淡々と告げられる呪咀の響きのように、女の声がおれに宣
告した。
 「あなたが呼んだのよ……わたしを。この世の果ての、暗闇から……」
 二の句を失い、おれは立ちつくした。心の奥にひそむ闇を、目の前に引き
ずり出されたような気がしていた。恐怖が心臓を狂おしくかきたて、両の足
が頼りなく震え出した。悪夢は終わっていない。これから始まるのだ。受話
器を固く耳におし当てて、恐怖におののきながらおれはただ女の次の言葉を
待ちつづけるだけだった。
 「早く来て……その路地を左……」
 遠く、消え入るような響きを残して、電話は切れた。
 催眠術にかけられでもしたように機械的に受話器を降ろすと、おれは夢遊
病者のような足取りで路地の奥を目指した。
 いまや、街の輪郭さえ定かではなくなっていた。街灯は溶けて流れ出し、
ぼやけた佇まいを毒々しく染める。ビルの灰色の壁の向こうから、死者のあ
詠唱が響きわたる。踏み出す歩調に合わせてあとずさるいくつ
もの、人ならぬ者の妖しく光る双眸。
 すべて幻覚だ。おれは夢を見ているんだ。
 かきたてた思いはひどく遠く、目の前の悪夢の光景こそが圧倒的な現実と
化しておれを打ちのめした。そうしておれは、見知らぬ街を魅入られたよう
にふらふらと歩き続けた。
 どれだけ、そうしていたのだろう。ふと気づくと、周囲に見覚えのある光
景が広がっていた。
 鉤型になった小路の中に立ち並ぶ商店には、たしかに見覚えがある。朝方
まで飲み明かしたことのある酒場も、たしかにそこにあった。通りひとつ隔
てた向こうからは、行き交う車の音とかすかなざわめきが、たしかに響きわ
たってくる。そうだ、あの向こうは、たしかに駅前大通りにつながっている
はずだ。
 安堵が、ゆっくりと胸にわきあがった。
 なんでもないことだったのだ。ただ単に、おれはどこかの小娘にからかわ
れていただけだったのだ。抜けたと思っていた酔いがそれに拍車をかけてい
たのだろう。そして、考えてみればちょっとした不安にしか過ぎないものを
絶望と取り違えて、自暴自棄に成り下がっていたために、奇妙な、悪夢のよ
うな幻想を垣間見ていたのだ。
 おれは長いため息をつき、気の抜けた足取りで雑踏を目指して歩を踏み出
した。
 そして、その時だった。
 背後から響きわたるベルの音に、心臓を鷲掴みにされたのは。
 おれは、呆然と立ちすくんだ。
は、勝ち誇ったように高らかに、おれの背中を叩きつづけた。
 ただのいたずらだ。ただのいたずらなんだ。
 呪文のようにつぶやいた。
 音は、容赦なくおれを急きたてた。
 目に見えぬ糸に引かれるようにしておれはふりかえり、闇の底に白々と佇
む公衆電話の受話器を手にした。
 他人のもののように意に従わぬ手は、ゆっくりと、抗うすべもなく受話器
を耳に押し当てた。
 雑音の奥に広がる沈黙が、おれの頭蓋の内部を果てしなく侵食していく。
 「……もしもし」
 かろうじて、おれの意志が声を発した。
 情けないほど震えていた。
 そして――
 「早く来て……」
 女の声が、言った。
 「その先を抜けるのよ……。早く来て……」




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