AWC はぐれる街(3)  YASU


        
#680/3137 空中分解2
★タイトル (UTJ     )  90/10/14  14:52  (175)
はぐれる街(3)  YASU
★内容
 つぎにKの声を聞いたとき、それは別人のようであった。鼻がつまって口で息をしな
がら、のろのろしゃべっているような声だった。言葉のあいだに漏れる息が妙になまな
ましかった。自分もだいぶん落ち着いてきて、主治医から家族との面会を許可されるま
でになった。ついては病院へ会いに来てくれないだろうか、と落ち着きすぎた調子で言
う。あなたにこんなことをお願いしてすまないのだけど、と付け加える言葉のどこかに
、必死の形相を感じて、彼女は尻込みしたい気持ちになる。するとKはますますお願い
します、一度だけでいいんです、来てほしいんです、と言いつのる。このままではまた
電話の向こうで一悶着起こりそうで、宣子はなんとかKをなだめて落ち着かせたかった
。病院の名前を聞き、自分の都合もあるのですぐに行けそうにもないが、そのうち行け
るかもしれない、と曖昧に言ったが、すでにKのほうは明日にでも彼女が面会に来るも
のとひとり合点したふうで、病院の日課を話して、面会できる時間は午後の四時までだ
からなどと言う。結局電話はまた職員の手で切られたらしかった。ただその日はKのほ
うも意外とあっさり受話器を離したようだった。
 ああは言ったものの、そのままうっちゃらかしておこうかとも思った。が、またKの
電話と電話の向こうで起こる騒ぎに悩まされるのがいやで、行くだけ行ってもう二度と
来れないことをKにはっきり分からせたほうが、自分の気持ちもすっきりする気がして
、その週の土曜の午後にKの病院を捜して訪ねてみることにした。
 病院に着くまで道をさんざんま間違えちゃったわ、と宣子は顔を上げて立津を見た。
目許が笑っている。ふたりが共有できる話題にたどりついた安堵感があった。
「私の方向音痴がまた出ちゃったの」
 立津はもう一度彼女に、方向音痴について語らせたい気がした。
「体が捩れちゃうような方向音痴ね」
 少し誘惑してみた。だが、宣子はぷいと顔をそむけて返事をしなかった。右手が無意
識にコップを握ったが、握ったままで動かなくなった。細い手首が不自然なほど内側へ
曲がって、まるでコップを立津から守ろうとするかのように手の平に抱えこんでいた。
甲の血管が白い肌を地にして、透かし模様のようにみえている。
 彼女の顔は眠たげだった。睡気をこらえて、表に出すまいとするとますます目蓋が重
くなってきて、視線が凝固しそうになるそんなようすだった。自分のほうから、見も知
らぬKの話を持ち出しておきながら、といった非難めいた気持ちは、立津の中には起こ
ってこなかった。
「外へ出ましょうか」
 立津が言うと、彼女は驚いたように彼の顔を見たが、すぐ、ええ、と言ってあらたま
った顔付になった。
別れるとき、立津は自分のアパートの電話番号を宣子に教えた。彼女もそれを自然のこ
とのように受け入れた。この前と同じように地下鉄のJへ来るのかと思ったら、もと来
た道のほうへと歩き出す。先日、自分もJで乗り換えると言ったが、ほんとうはもう一
つ先の駅だったのかと思った。あのとき並んで立った電車の中で、凭れかかってきた女
の体の、無造作に投げ出されたような重量感が、今になって脇腹にずしりと感じられた
。しだれ柳の並木が続く歩道を、彼女はせかせかした足取りで歩いていき、思わぬとこ
ろでひょいと角をまがって消えてしまった。なにかを狙って振った腕が空を切ってこち
ら側へ戻ってきたような、間の悪さというか、所在無さというか、半端な気持ちが彼に
残った。 それから数日間、彼は宣子からの電話を心のどこかで待っていた。自分の中
の半端な気持ちが彼女にもあるはずだという気がした。
 電話はきっちり一週間後にあった。
 やはり今日もKに会いに病院へ行ってきたと言う。
「今日のKはだだっこのようでした。物の言いかたも甘えん坊の子供みたいで、話して
いることがはっきり分からないんです。主治医の先生が薬を変えてくれたんだけど眠く
てしかたがないんだ、と言っていたから、薬のせいかもしれないけど、それにしても薬
のためにあんなに子供っぽくなるものかしらねえ」
 さあ、そういうこともあるかしれないね、と曖昧に答えると、あなたっていつもそん
な言い方しかしないのね、と急に馴れ馴れしい言葉遣いに出て、それからふいと黙り込
んでしまった。しかたないのでこちらも黙っていると、くっくっと含み笑いのような声
がとぎれとぎれにしてまた静まりかえった。息遣いのようなものが聞こえてくるので、
笑っていたのではなくて泣いていたのかと思ったら、よく聞くとそれはこちら側の呼吸
が受話器の中で帰ってきているのだった。
「明日会えないかしら」
 半ば命令口調だが、断られることへの怖気が声に現れていた。
「いいよ、どこで会う」
 S公園で、という宣子の声にはやはり怖気とためらいがあった。
 S公園?と聞き返すと、いえ、S公園はやめておくわ、と言いそうな予感がした。そ
う聞いてほしいと思っているのか、という疑問にとらわれて逡巡する間があった。宣子
はその瞬時をあわてて埋めるように、じゃあ、これで、と電話を切ってしまった。後に
なって彼女がまた会う時間を言わなかったことに気付いた。広いS公園で落ち合う場所
も決めなかった。しかたがないのでこの前と同じ時刻に出掛けてみることにした。
 S公園で宣子がKと会ったという場所に向かって歩いた。ニセアカシヤや銀杏に囲ま
れた一角をつっきると、彼女の話していたプラタナスの並木道が見えてきた。たしかに
彼女が言ったように不自然なつながりだった。玉砂利がところどころ厚くなっていて、
足が突然重みを持つ。道の両側の芝生はしだいに広がっていき、真正面に円形の噴水が
見えてきた。
 彼女は噴水のはたに腰を下ろして待っていた。
 彼女の足許を数羽の鳩がせわしげに右往左往していた。
 Kと会って話をしたのはあのベンチだった、と宣子は立津が歩いてきた道の端に、な
ぜかその一帯でそこだけにしか置いてない二つのベンチを教えた。なるほど、そこなら
周囲に目を配って、近いてくる人間を観察できる位置だと立津は思った。この噴水のそ
ばでは水の音が邪魔になって、近づく気配が分からないだろう。それに丸い池を背にし
て坐れば背後が広すぎて、追跡されていると信じている人間には、その広さが宿してい
る未知性に耐えられないであろうことは、こうして坐ってみればよく分かった。
 Kはあのときほんとうに脅えたようすでした、とまたKのことに話が及ぶ。Kには両
親さえも自分を脅やかす人間に映っていたのだから。私に結婚してほしいといったのも
、男と女の間というよりは、一途にすがりたいという気持ちの表現だったのかもしれな
い。だから結婚してほしい、とあんなに哀願したのだ。
「アイガン?」と立津は訊いた。
 この前のときはそのような話の行方ではなかったじゃないか、という気持ちがおのず
と言葉に出てしまったらしくて、宣子は言葉尻をとらえられて詰問された者のような、
とまどいと腹立たしさをまじえた目をちらと彼に向けた。 あのときほんとうにKは助
けてほしいという一念だったのだ、それ以外の下心など持つ余裕は彼にはなかったとい
うことがこのごろやっと分かってきた、と彼女は少し弁解がましい口調で付け加えた。
 それは児戯っぽくなった今のKのことじゃないのか、という気が多分にするが、立津
は黙っていた。
 一度だけKの母に会ったことがあるの、と宣子はしばらくの沈黙のあとで言った。
 それはKの面会に何回か行ってからのことだったらしい。面会のたびにKから母に会
ってほしい、と頼み続けられていた。しかし、これ以上ずるずるKのことに足を踏み入
れていくのがいやで、返事を渋っていたが、断り切れなくなって会う約束をしてしまっ
た。会う時間や場所はKが決めた。その次の面会のとき、母には電話で話しておいたか
ら、と教えられて、いよいよからめとられたような気持ちになって出掛けていくと、想
像していたよりも背が高くやせて骨張った体付きの女が待っていた。Kが二人を会わせ
たのは都心にある某銀行の本店の前であった。
 こんな所で会うようにとKが言うもので、ごめんなさいね、とKの母は初対面の挨拶
がすむと言った。周りは官庁と大手の会社の建物が立ち並んでいて、ゆっくり話のでき
そうな場所はなかった。やっとホテルの中の喫茶店を宣子がみつけて入った。ホテル特
有のきびきびした動作なのに、なぜか悠長な印象を与えるボーイの立居振舞を横目に見
ながら、宣子は窓際の席を選んだ。向かい合って坐ってからあらためて見ると、Kの母
は存外に若かった。子供のいない夫婦だけの生活をしてきたか、若くして夫をなくして
一人身を通してきた女のようなところがあった。世事にたけたあざとい女を想像してい
たのが、いつのまにかKの言葉に取り込まれていたせいかとも思えた。彼からは、母の
やさしげな言葉に騙されてはいけない、あれは外面だけたから、と言われてきた。自分
が退院したいと言うときっと主治医の承諾がないといけないと言うだろうが、ほんとう
は母が岩村先生に言って退院させないようにしているのだ、とも言う。それならなおさ
ら初対面の自分がKの退院のことを持ち出しても埓のあかないことではないか、と思い
続けてきたので、なんと切り出したものか、ことと次第ではKの頼みは聞いていないこ
とにしてしまおうか、と迷っていた。
 宣子の話を待たずに、Kの母は静かな口調でもう一度、こんな場所へ宣子を来させた
ことを詫びた。あなたにはいろいろ迷惑をかけているようで、ですから私のほうもお会
いしてお礼を申し上げたいとかねてから思っていたもので、今日のことではKを無理に
とめなかったんですの、と言いながら、彼女はお辞儀をしているとも、たまたまそうい
う姿勢になったともつかないくらい、ゆっくり体を前へこごめて、またゆっくりもとの
姿勢に戻った。そして、ほっと軽い溜め息をついてから、続いて話出すのかと思ったら
、そのまま黙り込んでしまった。宣子のほうに話の接穂を見つけださなければならない
ような、強いられた気持ちが残った。注文したコーヒーが来たので救われた気がして、
砂糖をKの母にすすめた。いえ、どうぞ、あなたがお先に、とシュガーポットを右手で
宣子のほうに押しやって、蓋を開いてから彼女はもう一度、形ばかりにガラスのテーブ
ルの上をこちらへ動かした。普段砂糖は使わないのだが、しかたなくスプーンにすくっ
て、中味の半分をコーヒーカップに落とした。自分の動作をKの母がためすように見て
いるのではないかという気がした。やはりKの頼みは話せそうにないと思った。
 じつは今日はお礼だけでなく、ほかにお話ししたいことがありますの、と抑揚のない
声でKの母は言う。思わず顔を見ると真正面で目が合ってしまった。口許が笑っている
ようでもあり、取り繕っているようにもみえる。丁寧な物言いだが、言っていることは
はっきりしていた。今後Kと付き合うことはやめてほしい、Kのほうはあのとおりの調
子だから何を言っても通じない、あなたのほうで手をひいていただきたい。こんなこと
を言うのは失礼であることは重々承知しているが、あの子の病気の回復のためにそうし
ていただきたい。
 自分との付き合いが病気の原因だとまでは言わないが、そういうふうにKの母が考え
ているらしいようすに、腹立たしくなってきて、私のほうこそKの病気に付き合わされ
て迷惑しているんです、と言いたいのだが、いつのまにかKの病気の中まで入り込んで
しまっていることも事実であり、こうしてKの母に会っていること自体、Kとの仲があ
さからぬものであることを認めているようでもあり、結局黙って彼女の言い分を聞いて
いる以外になすすべがなかった。
 あの子は小さいときからおとなしい子供で、親に反抗するようなそぶりはみじんもな
かったんです。それがこのごろは面会に行くたびに私をほんとうの母ではない、どこか
ですりかわったんだ、他人の親と話をしてもしかたがないから帰ってくれ、と言うんで
す。そのくせ三日と行かないと電話をかけてきて、自分をこんなところへほうり込んで
おいて、親ばかりいい目をして、それで親の本分が立つのか、と怒るでしょう。今はあ
の子がせめて正気を取り戻してくれたら、とそればかりを祈っています。そんなわけで
あなたにもこんな勝手なお願いをしているのです。そう言ってKの母はバッグから真っ
白なハンカチを取り出すと、目尻を押さえるようにして涙を拭った。 自分がKと彼の
母の間ですっかりからめとられているのに気付かないで、うかうかと二人の間を取り持
つようなつもりになっていたことが、馬鹿馬鹿しくもあり腹立たしくもあった。何を言
っても言い訳めいてきこえる気がした。しかし、なにか返答しないといけない、という
焦りがあった。Kの母は俯きかげんに宣子のコーヒーカップを見詰めている。自分の身
を投げ出してこちらに迫ってくるような、母としてよりは女の媚態がそこにはあった。
「あのとき、急に気持ちがこんがらがってしまったんです。こんがらがるというよりも
、感情が抜けたというのが正しいみたい。醒めた気持ちとか、しらけるというんじゃな
いんです。それだとまだ気持ちを信じている自分があるでしょう。感情の抜けた自分を
自分で見てはいるんだけど、そちらの自分が無感動になっているから、自分にとりつく
しまがない感じなのね」
 そう言うと、宣子はそのときの自分を懸命に思い起こそうとするような眼差しになり
、動きがとまった。体の線が固くなっていくのが、立津にも感じ取れた。
 二人の背後で水面をたたく噴水の音が急に大きくなり、彼は自分が風景から取り残さ
れたような、ちょうど山の尾根で両側の谷あいを見下ろしながら、ぽつねんと立ちつく
しているような気持ちに襲われた。遠くへ目を移すと、公園を取り巻く木木の向こうに
白っぽく光る高層ビルが建ち並んでいた。かすかに青みを帯びた濁った大気がその間に
たちこめて、公園の森とその遠景は、不自然な合成写真を見るような隔絶感を作り出し
ている。
 丸まって軽く開かれている宣子の唇を彼は眺めた。腰掛けた池の縁の、あかっぽい石
の上に置かれた手の平が、無意識にざらざらとした石の表面を撫でている。捜しあぐね
て疲れ切ったような表情が、目許から眉の間に次第に浮かんでくる。
 思わず立津は彼女の手の上に自分の手を重ねた。その手の動きをそっと押さえてやる
ことで、彼女の行きつ戻りつしている、過去の自分への果てしない回帰と失敗の堂々巡
りから、彼女を解きはなってやれたらという思いがあった。だが、彼の手が触れるや、
彼女は払いのけるように手を引いた。そして、驚きよりも不快感をあらわにして彼を睨
んだ。
「Kもそうやって私の手に触れてきたわ」
 そうだったのか、こんどはKの姿に重ね合わせていたのか、と、なんとなく間の抜け
た顔をして立津は彼女の目を見詰めていた。怒りでさえも次第に揺らいでくるらしくて
、彼女はつと目をそらした。




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