AWC はぐれる街(4)  YASU


        
#681/3137 空中分解2
★タイトル (UTJ     )  90/10/14  15: 4  (154)
はぐれる街(4)  YASU
★内容
 六時半に友達と会う約束があるから、と彼女は自分でも咄嗟の嘘にうしろめたさを隠
し切れずに、ことさら意気込んで立ち上がった。
 もう会えないだろうか、と立津は訊きたかったが、そうすれば、そうね、もう会わな
いほうがいいのかもね、という返事が返ってきそうで、それではあまりに互いに後味の
悪い別れになりそうなので、切り出しかねた。宣子のあとをついて歩きながら、彼女の
髪が思ったよりも長くて、両肩の上で揺れているのを見ていた。
 国電の駅に向かうのかと思っていると、バスに乗るからそれじゃあここで、と駅への
道が大きな道路と交差するところで言う。
「また電話します」
 そう言う女の顔には、彼以上に二人がこのままで別れてしまうことへの不安が浮かん
でいた。思わず彼も、ああ、待っているよ、と言って、その言いかたがヘマをやらかし
た男が女の機嫌を取り結ぼうとするときのもののようになって、われながらおかしかっ
た。その日は彼女のうしろ姿を振り返って見なかったが、彼女もそうだっただろうとい
う気がした。

 一ケ月あまり宣子からは連絡がなかった。だが、立津のほうにはこの前のような待ち
もうけるといった気持ちはなかった。宣子の中
になにか変化が起こったとき、電話を掛けてくるだろうという予感があった。
 それは深更といってよい時間だった。電話の音が嫌いだと友人の一人に言ったら、最
近のボタン式の電話には音もやわらかで、音量の調節のできるものがあるから、それに
替えたらいいと教えられて、重い腰をやっと上げて新しい型にしたばかりのことで、ド
アの向こうの玄関で電話が鳴りだしたとき、最初は近所の呼び鈴の音くらいに思ってい
た。長い
コールのあと気付いて出ると、すみません、私です、と宣子の声だった。電話するつも
りなかったのだけど、今日もKのところへ行ってきて、いよいよ今日は、もう病院へは
これない、ということを言おうと思っていたのに、それを鋭く察知したKが、ここまで
来たからにはもう簡単には手を引かせやしないぞ、とばかりにつぎつぎ自分のもつれ捩
れた考えを投げかけて、搦め捕ろうとするもので、それから逃れるのがやっとで、気が
付いたら自分
のほうは何も実のあることを切り出せないままで終わっていた。帰ってきてKのことを
思い出していたら、だんだん身のうちに居ても立ってもいられないような不安とか不快
感といった言葉では言い表せない激しい力が湧き上がってきて、とうとう我慢できずに
電話を掛けてしまった。そう言う声も心なしか弱々しくて、泣いているのでないかとさ
え思われた。
「そうしたら、またKの母に言われた言葉が
浮かんできて、あんなにまで言われてなぜ自分が、とますます情けなくなるんです。K
の母は、私がKの狂うのを面白がって、Kに執拗につきまとっていると思っているよう
だけど、もちろん私にはそんな目論見などあるはずがないじゃないですか」
 Kの母がそれほど露骨に彼女の行動に言い及んだとは考えられない。ちょっとそれは
ちがうんじゃないの、と言いたかったが、言えば彼女は、そんなことありません、どう
して
私のことが信用できないの、と感情的に食い下がってきて、収拾がつかないことになり
そうだった。
 ひとしきりKと彼の母への無念の思いを語ってから、宣子は急に黙り込んで、それか
ら声を抑えて泣きだした。しかたがないので立津は黙って聞いていた。
「あなたもこんな羽目になって、身動きのとれない私を見て面白がっているのでしょう
。私には分かります。あなたは私が八方ふさがりになってどうするのだろうと、まるで
虫篭の中の昆虫を観察する目付きで見ているのよ。そして、死んでしまったのじゃない
かと、ときどき指先でつついてみるのよ、でも、一寸の虫にも五分の魂というとおり、
私だっていつまでもいいようにはされないわよ」
 矛先が急にこちらに向いてきて、これは困ったと思っているうち、言いたいことを言
って、宣子の電話は切れた。

 それから宣子の電話は突拍子もない時間に、予期しないタイミングで、頻繁に掛かっ
てくるようになった。
 受話器を上げると息を詰めてこちらの出方をうかがっているようすである。こちらが
名乗ってもいつまでも黙っている。しまいには根比べのように電話の横の床に坐り込ん
で、受話器を肩とあごの間にはさみこんで煙草をふかして待っている。ふと向こうもそ
んな恰好でいるのじゃないかという気がする。
 かと思えば、電話に出るなり溜まっている恨みつらみを吐き出すようにしゃべりだす
。もうKのところへは行かないことに決めた。誰がなんと言っても行ってやらない。だ
からあなたもこれからは私に妙な興味を持たないでほしい。こちら側にはなにも言わせ
ないぞ、という意気込みがある。もちろん立津のほうもなにも言うつもりはないから、
ふんふん聞いている。ふんふんと相槌をうつわけでもない。それでも自分が聞かれてい
るのは分かっているのか、なによ、聞いているの、とか迫ってくることはない。
 二晩続いて夜中に電話が掛かった。いつまで待っても話さないから、それじゃあもう
切るよ、としびれをきらせて言うと、だめ、話すことがあるんだから、と命令口調で言
う。それで待っていると、また沈黙が続く。半時間も受話器を耳に当てていると、低い
羽音のような音がしだして、それが電話の音なのか、耳鳴りなのか分からなくなる。
 急に電話の中になだめるような声がはいってくる。
「宣子さん、いいかげんになさい、相手の方もご迷惑よ。ね、今日はこれくらいにして
おきなさい」
 宣子が手で受話器をふさいだのか、声がなくなってしまった。それでも、言い争うよ
うな女二人の声がとぎれとぎれに伝わってくる。立津は電話を切った。
 すると、十分もしないでコールが鳴りだす。出るとまた沈黙が始まる。こうして、と
うとう一睡もできないまま時間が過ぎて、玄関のガラスに薄明かりがさしてきた。
 受話器を当てたままうとうとしていたら、いつのまにかツーツーと電話の切れた音が
して目が覚めた。もうずっと以前から切れていたようでもあり、今切れたようにも思え
た。電話を置くと外へ出てみた。
 家の外は靄がたちこめていた。数メートル先を自転車が走り去っていく。人影がふっ
とみえてはすぐに靄の中に紛れこんでしまう。睡眠不足の頭が妙に冴えて、普段は布団
の中で夢心地に過ごしているこの時間の見馴れぬ風景を、さも面白いものでも見るよう
に眺めていた。いつもは顔みしりの隣家の犬がなにを血迷ったか、前足を低くしてうな
っている。名前を呼ぶとちょっとひるんで、二、三歩飛び下がったが、自分の怖気に打
ち勝とうとするかのように、すぐに激しくほえる吠えだした。俺だ、俺だ、と言いなが
ら近づいていくと、ますます狂ったように吠えて飛び掛かろうとするが、つないである
紐に引き戻されては、また歯をむきだして向かってくる。畜生の本性をあらわにした猛
りぶりが哀れでもあるが、頭をすりよせ媚びてくる昼間のなつきかたを知っているだけ
に、興の醒める気分にもなる。
 なおも吠えつく犬を尻目に、隣家の向こうの三叉路まで出ると、ライトをつけた自動
車がぬっと現れて、あわてて横へよけるこちらに鼻先を押し付けるようにして、角を曲
がって去っていった。
 めったに近所を散歩したこともなかった。面白いもので知っているのは通い馴れた道
だけだった。反対方向は何年も、ことによったら引っ越して以来通ったことさえないの
かもしれなかった。同じような家並が続いているのだろうという思い込みがあるが、案
外急に通りの風景が一変して、この辺りとはちがった昔ながらの家の静かなたたずまい
が広がっていることだってあるのだ。
 どこまで歩いてもきりがないので、引き返そうとも思うのだが、今来た道を引き返す
のはなんとなく芸がないようで、そのまま右へ折れてみた。しばらく歩くと急に道が狭
くなって、もしかしたら私道の袋小路かしらと思うと、そこはろくに整地のできていな
い貸駐車場だった。区分けもしていないのか、乗用車や軽貨物自動車が無造作に置いて
ある。その向こうは車と同じ高さの雑草が茂っている。さらに向こうはまた家が密集し
ているのだろうが、靄に隠れて先がみえない。やはり引き返さないとしかたないらしい
と諦めて戻り始めた。すると、もう一本の道が同じようにこの空き地に通じている。こ
んな街の真ん中で道に迷うこともあるまいと、その道を歩きだした。

 まさかと思ったのがほんとうになって、さんざん道を間違って、あちこちでひとに訊
いたあげく、自分の住んでいる町の位置を、たぶん一度もそこへ行ったことのない人に
教えてもらうのがいかに難しいか、しまいには呪わしく思いながら、やっと家に帰り着
いたのは、十時近くになっていた。遅刻したことを早く会社に連絡しなければ、と思っ
たとき、日曜日であることに気が付いた。それでまた布団にもぐりこんで寝てしまった
。
 その日の夜、今晩はもう電話が掛かることはあるまいと高をくくっていると、十一時
過ぎにコールが鳴った。こんな時間の電話は宣子であることは知れていた。はい、とこ
ちらの名前を言うも返答がない。また今日もねばるのかなと思っていると、ゆうべはご
めんなさい、と神妙な声で言う。
「母に随分叱られました。もうあなたに電話をするのはやめなさいと言われました。だ
から、あなたに謝るためにと言ってもう一度だけ許してもらったんです。ほんとうにも
うこれで終わりにします」
「Kとのことは」
「おとといKには、もう病院へは来れないとはっきり言いました」
 Kとのことがすんなり決着したとは思えなかった。一悶着も二悶着もあったことだろ
う。興奮したKが彼女に猛り掛かってきたくらいのことはあったかもしれない。だから
、ゆうべはあんなに頑張ったのかしら、と立津は思った。
「そう、それは君にとってよかったのだろうね、たぶん」
 宣子は返事をしなかった。こちらのことばを拒絶する沈黙だった。受け取りを拒まれ
てみると、なるほどおざなりな言いかただったという気がする。この気まずさはこちら
が引き取らないとしかたないものだった。だが、気まずさを打ち消そうとしてなにか言
えば、気まずさはますます深くなって収拾がつかなくなるだろう。
 とうとうまた受話器を抱え込んで、互いの気配を窺いながらの根比べになってしまっ
た。諌めるらしい母の声が二、三度したが、もう諦めているふうで、昨晩のような腕ず
くの騒ぎは起こらなかった。最後に太い男の声がして、それは叱っているのやら罵って
いるのやら分からなかったが、堪え性がない持ち前をあらわにした声だった。
「聞こえたでしょう。あれ、父の声よ。普段は私たちとろくに話をしないのに、酒を飲
むと怒鳴るのよ」
 宣子は内緒話をするように声をひそめて言った。このまま少し緩んで解き放たれるか
なという期待をもったが、彼女の話はそれ以上進まず、また沈黙に戻ってしまった。
 結局その夜も一晩中受話器を耳に当てて過ごした。

 それ以来宣子の電話が途絶えた。今度は立津のほうになんの予感も勇かなかった。一
度だけJの喫茶店に行ってみた。まさか宣子に会えるとは思わなかったが、どこか待ち
もうける気持ちがあったのも確かだった。そこでまたクラシックをアレンジしたジャズ
を聞いた。それはバッハだった。バッハのジャズ・アレンジは珍しくもないが、それも
しごく陳腐だった。グレン・グールドのバッハがよほど新鮮だと思いながら、立津は外
を往来する人込みの中に宣子を自分が捜しているのに気付いた。
 三ケ月たっても彼女からは連絡がなかった。 それが有楽町の雑踏でふと彼女を見掛
けた。すれ違いざま確かに彼女だと思った。まだそれほどの寒さでもないのに、彼女は
ベージュの薄手のコートを着ていた。急いで後を追ったが、すでに暮れかけた繁華街は
光が色を溶かし込んで、ベージュのコートもたちまち所在が分からなくなってしまった
。
 道に迷いながら都会の人込みを歩いている宣子の姿が、帰りの道々ずっと立津の心を
離れなかった。《了》






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