#502/3137 空中分解2
★タイトル (TCC ) 90/ 7/ 5 1:53 ( 75)
「ドナー」 6 香織
★内容
6
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五月十九日(金) 曇り
尚子から呼び出しを受けて、新宿で会った。手術についての相談というのを聞
く。あの女がどんな女だったか、改めて知らされた。悩んだ末に尚子の要求を呑
むことを決断する。
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尚子と友紀の組織適合性検査は、予想通りの好結果だった。手術予定日も七月
十日と決まった。ドナーである尚子の全身状態の詳しい検査は、手術の一週間前、
つまり七月三日から始めることになる。
牧田は、いよいよ手術が決まってほっとした反面、今度は手術の成功や術後の
経過が心配になりだし、その日に向けて落ち着かない毎日を送っていた。
午後、尚子から会社へ電話が入った。手術のことで相談したいことがあるので、
今夜会って欲しいと言う。
午後七時、尚子の指定した新宿にある中華料理店に着いた。入口で名前を言う
と、個室へと案内された。部屋にはもう尚子が待っていて、一人で食前酒を飲ん
でいた。
「個室とはまた、何か人に聞かれたくない相談事なのかい」
牧田は冗談めかして言ったが、尚子はしごく真面目な顔で、
「そう。もしかしたら法律に触れること。そうでないにしても、人道上から言え
ば、誉められたことじゃないわね」
と答えて、その唇に薄い笑いを浮かべた。
「いったい、何の話かな」
牧田は尚子の薄笑いに、理由の分からない不安を感じていた。
そのとき、最初の料理が運ばれて来て、円形テーブルに乗せられた。
「お話は後で。先においしいお料理を楽しみましょう」
尚子はそう言うと、さっそく箸をとった。料理は次々と運ばれて来た。牧田は
その話というのが気にはなったが、尚子が切り出さない以上、どうしようもない。
仕方なく食べ始めたが、味を楽しむゆとりはなくなっていた。
食事もあらかた済んだころ、やっと尚子は相談というのを切り出した。
「単刀直入に言うわ。お金を用意して欲しいの。金額は一千万円。すぐにとは言
わないわ。あなただって工面する時間が必要でしょうから。そう一週間あれば何
とかなるでしょう」
「一千万だって? 君は何を言っているんだ」
「つまり、私の腎臓を売りたいっていうことよ」
「自分の娘に腎臓を売るって言うのかい。じゃあ名乗り出てくれたのは、母親と
しての愛情なんかじゃなく……」
「愛情ですって? よしてよ、私がそんな女じゃないことは、七年前にいやとい
うほど思い知らされてるはずでしょう」
牧田はショックを受けていた。腎臓を売る、それも病気で苦しんでいる自分の
娘に、そんなことを平気で考えるこの女が恐ろしかった。金は、今までの蓄えを
すべて吐き出す覚悟をすればなんとかなる。だが、人道的に臓器売買などという
ことが許されるものだろうか。
「ということは、金を払わなければドナーにはならないと言う意味なんだな」
「もちろん、そうよ」
「君は本気でそんなことを……」
「本気よ。もしどうしても払えないというのなら、友紀にはかわいそうだけど、
死人の腎臓を気長に待ってもらうしかないわね」
牧田は急に立ち上がり、怒りに震える拳をテーブルに叩きつけた。大きな音が
して、尚子がちょっとおびえたように身をすくめた。
「脅かしたってだめよ。ねえ、どうするの。返事は待ってあげてもいいわ。でも
三日だけよ。それ以上は待てないわ」
尚子はそう言い捨てると、席をたった。ドアのところで振り向くと、
「気持ちが決まったら、電話をちょうだい」
と言って、またあの薄笑いを浮かべた。
そのまま一人きりの自宅に戻る気にもなれず、牧田は夜の街を歩いていた。初
めてのバーにふらりと入った。年輩のバーテンと和服姿のママだけでやっている
といった、カウンターだけの小さな店だった。牧田の気持ちを察したように、バ
ーテンもママもうるさく話しかけるようなことはなかった。
牧田は水割りグラスを傾けながら、じっと考えていた。尚子の要求を蹴った場
合、手術ができなくなった理由を、友紀になんと説明したらよいかが大きな問題
だった。
最初は尚子を受け入れなかった友紀も、何度か会ううちに打ち解けて話をする
ようになり、牧田と二人のときも母親の話ばかりしたがるようになってきた。
そんな友紀に、尚子の気が変わったから手術は中止になったなどとは、とても
言えない。もちろん、尚子が腎臓を売ると言ったことは、絶対に知られてはなら
ない。
それにやっと受けられると大喜びしている手術が中止になったと知ったら、友
紀はどんなに落胆することだろう。そんな姿は父親として見るに忍びなかった。
不本意だが、金で買うしかない。牧田は二時間かかって、やっとそう決心した
のだった。