#500/3137 空中分解2
★タイトル (TCC ) 90/ 7/ 5 1:44 (102)
「ドナー」 4 香織
★内容
4
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五月十二日(金) 曇りときどき晴れ
組織適合性検査のため、尚子が病院へ来た。尚子と友紀、七年ぶりの対面をし
たが、やっぱり友紀はかたくなな態度だった。手術までには打ち解けて欲しい。
その方が手術だってうまく行くような気がするのだが……。
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牧田は仕事を休んで朝から病院へ向かった。尚子が組織適合性検査を受けるた
めに来院することになっていたからだ。
尚子が腎臓を提供したいと言って訪れた日のことは、昨日のうちに友紀に説明
してあった。それを聞いたとき、友紀は疑わしそうな目で牧田を見て言った。
「本当はお父さんが頼みに行ったんじゃないの。それでお母さん、仕方なく承知
したんでしょう」
「そうじゃないよ。どうしてそんなふうに思うんだい」
「だって、お母さんは私のことなんて、もうとっくに忘れちゃってるんだって、
おばあちゃんがいつも言ってたよ」
「そんなことないさ」
「じゃあ、どうして今まで一度も会いにきてくれなかったの」
牧田はそう聞かれたとき、返事に詰まってしまった。確かに、尚子は七年の間
に一度も友紀に会いたいと言ってこなかった。それどころか、近況を問い合わせ
てくることさえしなかったのだ。
「おばあちゃんがお母さんのことを嫌ってただろう。だから、友紀に会いたくて
もなかなか来れなかったんだよ。友紀のことを忘れたわけじゃないさ」
牧田は亡くなった母に悪者になってもらって、尚子の弁護をした。といっても、
尚子が家を出たことの原因の何分の一かは、姑との確執にあったのだし、牧田の
目から見ても、嫁に対する母の接しようは尋常でなかったのだから、まったくの
濡れ衣とも言い難かったが……。
「第一、お父さんの方から頼みに行きたくても、お母さんの居所を知らなかった
んだから、行きようがなかっただろう」
牧田は友紀のさらさらと流れるボブ・カットの髪を、そっと撫でながら言った。
友紀はまだ半信半疑というような顔で、じっとうつむいていた。
「おはよう」
牧田がことさら快活に、そう声を掛けながら病室に入っていくと、友紀は朝食
の後の薬をのんでいるところだった。
「昨日はよく眠れなかったって顔してるなあ。目が赤いぞ」
牧田はそう言いながら、友紀の顔を覗き込んだ。今日の対面を思って眠れなか
ったのか、その目は充血していた。
「お母さん、何時に来るの」
「九時頃っていう約束だからな……」
牧田は腕を伸ばして時計を確かめた。針は八時五十五分を指していた。
「もう、そろそろ来るんじゃないか」
その言葉が終わらないうちに、ドアがノックされた。友紀はそれを聞くと、慌
ててベットに横になり、布団を頭の上まですっぽりかぶってしまった。母親に会
うことにおびえているのだろう。
「はい、どうぞ」
牧田が返事をすると、ドアがゆっくりと開いて尚子が病室へ入ってきた。その
腕には大きな花束を抱えていた。
「友紀、お母さんが来てくれたよ。友紀」
牧田は布団をめくろうとして引っ張ったが、友紀はしっかりとつかんで離さな
い。尚子は花束をベット脇の枕頭台に乗せると、友紀の枕元に歩み寄った。
「友紀ちゃん、お母さんに顔を見せてくれないの」
友紀はなおも無言だった。
「しかたない。友紀と話をするのは後にして、先に検査の方を済ませてこよう。
それまでに友紀も落ち着いているだろうから」
牧田はため息混じりに言った。友紀のこの反応は予想していた通りだった。そ
んなに簡単に、尚子と打ち解けてくれるとは思ってはいなかった。
診察室前の廊下には、もうたくさんの人が順番を待っていた。牧田と尚子は受
付を済ませると、隅の方の長椅子に腰を下ろした。
「やっぱり、私のこと恨んでいるのね。無理もないけど……」
尚子は寂しそうな微笑みを浮かべて言った。
「自分は母親に捨てられたと思っているからね」
「そういうふうにお姑さんが教えたんでしょう。おまえの母親は情夫を作って、
娘まで捨てて行った薄情な女だって……」
確かに、母は呪文のようにいつも口にしていた。「あの女は子供を捨てた氷の
ような女だ」「友紀の事なんてこれっぽっちも愛してやしないのさ」「自分が腹
を痛めて産んだ子供より、情夫の方をとったんだからね」−−こんな呪文を三歳
のときからずっと聞かされて育ったのだ。友紀の心が次第に歪められていったの
も無理はなかった。
「友紀を愛してやって欲しい。友紀はおまえを恨んでいるかもしれないが、同時
に血の出るような思いで母親の愛情を求めているんだ。去年の秋頃、あの子は問
題行動を起こした」
「問題行動?」
「鍵を掛けた部屋に閉じ込もって、カッターナイフで自分の身体中を切りつけた
んだ」
「自殺……しようとしたの?」
「いや、死のうという明確な意志はなかったのかもしれない。致命傷になるよう
な傷はなかったからね。でも、発見が遅ければ出血多量で危なかった。それ以後、
同じような自傷行動を二度繰り返した」
「どうしてそんなことを……」
「医師の話では、自己破壊要求、自己処罰要求といった、つまり神経症の一種な
んだそうだ。あの子は自分を責めたんだ。自分は母親にも愛されなかった、自分
は存在する価値のない人間だとね」
「みんな私のしたことが原因なのね」
「いや、それだけじゃない。私にしても仕事に夢中で、あの子のそんな追いつめ
られた気持ちをわかってやれなかった。友紀のことはすべて母まかせにしてきた
からね。その母が君への呪いの言葉を、友紀に聞かせ続けてきた。それで友紀が
どんなに傷つくか、頓着なしにだ。亡くなった者を悪く言いたくはないが、母の
思いやりのなさも原因の一つだと思うよ」
「それで、今の友紀の精神状態はどうなの」
「去年の暮れに母が亡くなってね。そのせいかどうかわからないけど、それ以来、
どうやら落ち着いているようだ」
「私が現れたことで、動揺したりしないかしら」
「そりゃあ、友紀にとっては君に会えたことは大きな動揺には違いないだろう。
でも、君が愛情をもって接してくれれば、悪い結果にはならないと思うよ」
「そうだといいけど……」
尚子がつぶやいたその言葉は、牧田自身の気持ちをも代弁していた。