#498/3137 空中分解2
★タイトル (TCC ) 90/ 7/ 5 1:32 (130)
「ドナー」 2 香織
★内容
2
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
五月九日(火) 晴れのち曇り
尚子がレディス・ライフの記事を見たと言って訪ねてきた。友紀の移植手術に
ついて話をした。そのとき、思いがけない申し出を受ける。信じられない思いだ。
やはり母親だったということだろうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
会社の帰りに友紀の所へ寄るのが、牧田にとっては毎日欠かすことのできない
日課だった。
友紀は去年の十一月頃から身体のだるさを訴えだした。毎日のように頭痛がす
ると言い、顔の浮腫が目だつようになったので近くの病院に入院させたところ、
慢性腎炎と診断された。それもかなり症状が進んでいるということで、すぐにN
医大病院に転院した。
二カ月ほどは食餌療法と内科的治療を続けていたが、それも限界にきてしまい、
とうとう今年の二月初めから透析生活に入った。透析に入ってからも状態は安定
せず、まだ当分退院の見通しも立たない状態だった。
医師から早い時期に移植をした方が良いと聞いたとき、牧田はすぐに自分の腎
臓を友紀に移植してくれと申し出た。すると医師は、ではすぐに検査をしましょ
うと言う。
牧田は、親子の間でも適合しないことがあるということを理屈ではわかってい
たが、自分と友紀の間の血の絆を盲信していた。だから、牧田の血液型がAB型
で友紀はA型なので、移植はおろか輸血さえもできないのだと知らされたときの
ショックは相当なものだった。
牧田の他にはドナー(臓器提供者)になってもらえそうな身内はいない。友紀
に生体腎移植を受けさせてやることは諦めるよりしかたなかった。となれば、死
体腎移植の順番を待つしかないのだが、それもいつになるのかまったくわからな
かった。
今日も友紀との会話は、早く移植の順番が回って来るといいね、というような
話題に終始していた。
牧田はいつものように消灯の時間まで友紀の側で過ごした。病院を出てから、
途中で外食をし、誰もいない真っ暗な家に帰宅する。そんな生活も、もう五カ月
以上になるので何も感じなくなったが、最初のうちは寂しさが胸を締め付けたも
のだった。
鍵をあけて玄関に入ったとき、電話のベルが鳴りだした。牧田は慌てて靴をぬ
ぎ、居間の受話器を取り上げた。
「はい、牧田です」
「あの……お久ぶり。私の声、わかる?」
牧田はその声にすぐに気がついた。離婚して以来、一度も会ったこともないし、
話したこともなかったが、確かに尚子にまちがいなかった。
「ああ、わかるよ。ずいぶん久しぶりだね」
「七時頃、行ったんだけどまだ帰ってなかったから、近くのスナックで飲んでた
の。今からそっちに行っていいかしら。大事なお話があるんだけど……」
「今から……」
牧田は腕時計を確かめた。十時を三分ほど過ぎていた。七年ぶりに、離婚した
夫を訪ねるにしては時間が遅すぎやしないか。牧田はそんな常識的なことを考え
ていたが、常識はずれなところが尚子らしいと苦笑した。
「いいけど、どんな用事なのかな。友紀に会いたいというのなら来ても無駄だよ。
いま入院してるんだ」
「ええ、知ってるわ。レディス・ライフっていう雑誌の先週号に友紀が載ってい
たのを読んだの。そのことで相談があるのよ」
「そう……じゃあ、待ってるから」
牧田は電話を切ってから、ソファーの横のマガジンラックからレディス・ライ
フを引っ張り出した。パラパラとめくると自然にあるページで開く。しょっちゅ
うそのページばかりを開いているので、くせがついているのだ。
『明日を待つ子供たち――あすなろ学級――』というタイトルの記事だ。十数
人の子供たちの授業風景と、後ろの方で参観している数人の親たちが写った写真、
その子供たちが透析を受けているところの写真などが、記事の合間に挿入されて
いる。授業風景の親たちの中に、牧田の姿も写っていた。
ちょうど牧田が着替えを済ませたところへ、訪問者を知らせるチャイムが鳴っ
た。
玄関に立った尚子の装いは、明るい萌葱色のワンピースで、スタイルの良い長
身に似合っていた。少し濃いめの化粧もそれなりに映えていて、熟した女の魅力
を備えてはいたが、今の尚子からは、かつての躍動感のある自由奔放な美しさを
感じることはできなかった。七年という月日が、女から少しづつ若さをむしり取
ったということだろうか。
尚子は、居間のソファに腰を降ろすとすぐに、バッグから細身の煙草を取り出
し火をつけた。
「七年ぶりね。でもあなた変わらないわ。外見も性格も……」
「どういうこと?」
「私は男と蒸発した元妻よ。本当なら七年分の怒りをぶつけてきてもいいはずよ。
それなのに、まるで無関心なのね。あなた昔からそうだった。仕事に夢中で、家
庭ではまるっきり感情のない抜け殻だった。まあ、いまとなってはそんなことど
うでもいいことだけど……」
そう、あの頃は仕事がすべてだった。そして今は友紀のことで頭が一杯だ。い
まさら、別れた妻を責めてどうなるというのだ。
「話というのは……?」
牧田は用件に入るように促した。
「雑誌で読んだのよ。友紀が腎臓病で苦しんでいるって。移植をしたいけどなか
なか順番が回ってこないって」
「ああ、その通りだ。私の腎臓を友紀にと思ったんだが、血液型の違いでそれも
できない。こんな悔しいことはないね。血のつながった私の腎臓が使えなくて、
赤の他人の、それも死んだ人の腎臓を待ち続けるなんて……」
牧田は自嘲気味にそうつぶやいた。
「私の腎臓は使えないのかしら。私はA型だし、なんといっても母親なんだから」
尚子の思いがけない申し出に、牧田は一瞬面食らった。
「そりゃあ、それが一番良いには違いないが……。でもそれは本気で言ってるの
か。手術することになれば腹をそうとう切らなければいけないんだぞ」
「やあね、そんなことわかってるわよ」
尚子はそう言いながら、テーブルの上のレディス・ライフを取り上げた。
「私ね、この雑誌で牧田友紀という名前を見つけたときに、同じ名前だって思っ
たけど、まさか本人だなんてわからなかったの。だって友紀と別れたのは、あの
子が三歳になったばかりのころだったんだもの。でもあなたが写ってるのを見て、
これが私の友紀だってわかったの。情けなかったわ。自分の娘が病気で苦しんで
いるというのに、母親の私が何も知らなかったなんて……」
「なにしろ知らせようにも、君は恋人を作って家出して以来、ずっと音信不通だ
ったからね」
牧田は多少の皮肉を込めてそう言った。尚子は家出してから一度だけ便りをよ
こしたが、『よろしくお願いします』とたった一言書いた手紙に、署名捺印した
離婚届が同封されたものだったのだ。
「昔話はやめましょう。進歩がないわ」
尚子は平然とした顔でそう言い放った。
「確かに、もう過ぎたことを言っても仕方がないな」
牧田は皮肉を言ってしまったことをちょっと後悔した。もしドナーになってく
れるというのが本気なら、いま尚子の機嫌を損ねるのは避けた方がいいのだ。
「それで、本当に本気で考えてくれてるんだな。ドナーになることを……」
「もちろんよ。こんなこと冗談で言いに来るほど暇じゃないし、悪趣味でもない
わ」
「じゃあ、早い方がいい。さっそく組織適合性検査を受けてもらえるかい。採血
するだけだから、時間はかからない。なるべく早く病院へ行って欲しい。友紀も
君に会えば喜ぶだろう」
牧田はその点には自信がなかった。友紀が尚子をはたして素直に受け入れるだ
ろうか。友紀は精神的にとても脆い子供で、以前にも問題行動を起こしたことが
あった。そのときの診断では、乳幼児期に母親の愛情を充分与えられなかったこ
とが原因になっている神経症だといわれた。母を求める心と、自分を捨てた母に
反発する心とが攻め合い、その葛藤が心のバランスを乱していると……。
「検査は採血だけでいいの? 詳しい検査はしないのかしら」
「もちろん、手術が決まれば全身の状態を詳しく検査するそうだ。腎臓の機能は
言うまでもないが、心臓、肺、胃、肝臓など全身状態が健康でなければいけない
らしい。どこか悪い所は?」
「ないわ。健康なだけが取柄ですもの」
「そうか、じゃあ決まったようなものだ。しかし、本当にこの雑誌には感謝した
いよ。この記事が君の眠っていた母性愛に火をつけてくれたらしいからね」
牧田は口にしてしまってから、また皮肉に聞こえたかもしれないとひやりとし
た。横目で尚子を窺ったが、気を悪くした様子もないのでほっと胸をなでおろし
た。