#497/3137 空中分解2
★タイトル (TCC ) 90/ 7/ 5 1:23 (107)
「ドナー」 1 香織
★内容
ドナー
栗田香織
1
その朝、貴和子は電話のベルで叩き起こされた。
ベッドの中から腕だけを伸ばして受話器を取り耳に当てると、朝から元気の良
い犬飼の声がびんびんと響いてきた。
「高森さん、大変ですよ」
貴和子はあくびをしながら、枕元の目覚し時計に目をやった。
「なによ、こんな朝っぱらから。まだ七時じゃないの。今日は久しぶりに休みを
もらったんだから、もうちょっと寝かせてよ……」
貴和子はまだ寝ぼけたような声で答えた。電話をしてきた犬飼というのは、入
社したばかりの新米で、言うならば記者見習いだ。いまは貴和子の助手として取
材についてまわり、勉強をしている。
「のんびり寝てる場合じゃないですよ。今朝の新聞……その様子じゃまだ見てな
いでしょうね。とにかく新聞を見てください。ぼく『バオバブ』でスタンバッて
ますから、着替えてすぐに来てください」
犬飼は早口でまくしたてると、貴和子の返事を待たずに切ってしまった。
「何なのよ、まったく。いったい何事が起きたっていうの」
貴和子はぶつぶつとつぶやきながら、仕方なしに起き出して新聞をとりに行っ
た。ドアの内側に付いている新聞受けから新聞を取り出すと、玄関に立ったまま
それを広げた。
三面記事のトップに『バラバラ死体、被害者の身元判明』という見出しが大き
く出ていた。これのことかなと、貴和子は記事の方へ目を移した。
それは三日前に埼玉県で発見された、バラバラ死体についての続報だった。六
月三十日に右腕と左右両脚が見つかっていた。そして昨日新たに、左腕と頭部が
発見された。半径一キロほどの範囲の中に、五箇所に分けられ、ゴミ用の黒いポ
リ袋に入れただけで、無造作に投げ捨ててあったということだ。
記事を読み進んでいた貴和子の目が、ある部分に釘付けになった。
『……頭部が捨てられていた場所のすぐ脇で、被害者の物と思われるハンドバッ
グが発見され、その中にあった身分証明書から、被害者は都内中野区に住む、松
井尚子さん(33)と判明した』
貴和子は信じられないという気持ちで、被害者の顔写真を確かめた。だが、そ
れは何度見直しても、あの松井尚子の顔に間違いなかった。
−−牧田さんは、このこと知ってるのかしら……
貴和子がそう考えたとき、電話のベルが鳴った。直感的に貴和子は牧田からだ
と思った。急いで受話器を取り上げる。
「高森さん、新聞見ましたか?」
いきなり挨拶もなくそう聞いてきたのは、やはり牧田だった。
「ええ、いま見たところです。もう、びっくりしちゃって……」
「遺体の確認に来てくれって電話があって、昨日行って来たんです」
「それで、友紀ちゃんは大丈夫ですか? ショックを受けているんじゃ……」
「隠しておくわけにもいきませんから話したんですが、最初泣きわめいて暴れた
と思ったら、しばらくして急におとなしくなって、でもそれ以来一言も口をきか
ずにぼんやりしているだけなんです」
「それでいま、病院からですか?」
「ええ、友紀が心配だったので病室に泊まったんです。なにしろあの子は、追い
つめられると何をするかわからないので……」
「私もすぐにそちらへ行きます。友紀ちゃんのこと心配ですから……」
「ありがとう。あなたに会えば、友紀も元気が出るかもしれません」
「じゃあ、のちほど病院で……」
貴和子は電話を切ると、急いで身支度をした。マンションを走り出て、向いの
喫茶店『バオバブ』へと走る。自動ドアが開くのももどかしい。犬飼は入口に一
番近い席でコーヒーを飲んでいた。
貴和子は何も言わずにテーブルの上の伝票をわしづかみにして、レジに向かう。
顔見知りの女の子に「チケットでお願いね」と言ってから、犬飼の方を振り向い
た。
「ほら、犬飼君、何してるの。行くわよ」
「もう、さっきは寝ぼけてたくせして……」
犬飼は文句を言いながらも、慌てて立ち上がった。
「さて、どこへ行くんですか。ご命令をどうぞ」
店の前にとめてあった車に乗り込むと、犬飼が貴和子に指示を仰いだ。
「友紀ちゃんの病院よ。いま、牧田さんから電話があってね、病院に行ってるっ
ていうから」
「はい、了解」
犬飼はそう返事をしてから急発進をした。
大学を卒業して入社した出版社が、女性向けの週刊誌『レディス・ライフ』を
創刊したとき、貴和子もその編集部に回された。新しい雑誌なので、貴和子のよ
うな新人にも活躍する機会が多く、また女性としての視点が重宝がられた。今で
は貴和子はレディス・ライフの中心記者だった。
三カ月前、貴和子が編集会議で『腎臓移植の現状と未来』という企画を持ちだ
したときは、女性誌には向かないんじゃないかという意見が圧倒的だった。
「全腎連という腎臓病患者の組織が、腎臓バンクへの登録推進キャンペーンを毎
年恒例で五月に行っているんです。それに時期を合わせて載せたいんです」
貴和子はなんとかこの企画を通したいと、がんばった。
この企画のヒントをくれたのは、貴和子の大学時代の同級生だった。彼女の弟
がやはり腎臓病で、移植を待ち望んでいるのだそうだ。なにしろ今の日本では、
移植希望者の数に比べ、腎臓バンク登録者の数がほとんど絶望的に足りないとい
うのが現状だった。
腎臓病と一口に言ってもいろいろあるが、それらの腎臓病が慢性化して、徐々
に腎臓の機能が低下していくと、最終的に行き着くのは血液透析だった。
血液透析とは、正常に働かなくなった腎臓の代わりに人工腎臓を使って血液中
の水分や毒素を取り除くことだ。一回が四時間ほどかかり、普通はそれを週に三
回行う。急性の場合を除いて、一度透析に入ったら死ぬまで続けなくてはならな
い。
その透析生活から逃れる方法が二つあった。一つはCAPDという方法と、も
う一つは腎臓移植だ。だが、CAPDというのは、患者の腹膜を使って体内で透
析をするという方法なので、透析液交換の煩わしさや腹膜炎などの危険度を考え
ると、精神的苦痛という意味では人工腎臓を使った透析と大差はなかった。
つまり、完全に透析生活から解放される方法は、腎臓移植のみだと言えた。
「この企画のモチーフとして、N医大病院腎臓移植センター内にある『あすなろ
学級』を取り上げたいと思っています。あすなろ学級では腎臓病で長期入院を余
儀なくされている子供たちに、専任の教師がついて勉強を教えているんです。子
供の場合、長期間の透析は成長障害がおきるので、特に移植を待ち望んでいます。
そういう子供たちがいるということを、たくさんの人に知ってもらいたい。もし
かしたら、その記事を見て、腎臓バンクに登録しようと思いたつ人がいるかもし
れない。私、そういう記事が書きたいんです」
貴和子の熱心な訴えは、首を傾げていた編集者たちをうなずかせた。
こうして貴和子は四月半ば、あすなろ学級を訪れた。そこには八歳から十四歳
までの十三人の子供たちがいた。みんな透析患者特有の顔色の悪さはあるものの、
ごく普通の子供たちのように明るく活発だった。その中にあって、ただ一人、暗
い眼をしていたのが牧田友紀だった。