AWC 混沌 (伍) バベッティー


        
#1502/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (PKJ     )  89/ 3/29  14: 6  ( 67)
 混沌    (伍)                 バベッティー
★内容
   翌朝、井沢は何事もなく目が覚めた。時計に目をやると、昨晩から、
 丁度八時間眠っていただけだった。妙に心が安らいでいた。予想はして
 いたものの、やはり情けない気持ちだった。苦笑しながら、
   「本物の、阿呆だ」とつぶやいて、何とも恥かしく、わあっと怒鳴り
 たいくらいだった。
   彼が布団の上でぶつぶつ言っていると、突然部屋のドアが開いた。
   「井沢。居るか」小野だった。この冬にしてはかなり気温が高いにも
 かかわらず、彼は、ダッフルコートにマフラーという重々しい服装で、
 両手をこすり合わせる様なしぐさをして、震えていた。「心配だから、
 来てみたんだ」
   「なに、大丈夫だ。これといって変わった事はないよ」まさか死に損
 ねたとは言えない。「寒そうだな。上がったらどうだ」
   「うん、少し熱が出やがった」そう言って、入って来た。
   井沢は立ち上がって、引き出しからマッチを取り出し、
   「具合が悪いなら、来なけれあよかったのに。今、ストーブをつけて
 やる」
   「いや、丁度こっちの方に用事があったから、ついでに寄ってみたの
 だ。心配いらない」彼は青い顔にかかる前髪を、しきりに気にしながら、
 その場に腰をおろそうとした。「おや」目は、机の上の一点を見つめて
 いる。「何か書いたのか」
   井沢がストーブの点火を終わって、小野をふり向いて見ると、彼は、
 井沢の馬鹿げた遺書を、明らかに驚きの表情で、黙読していた。
   「失敗したな」小野は遺書から目を上げて、そうして薬の空きビンを
 も机の上に見つけ、にやにや笑っていた。
   「言うな。僕も、人並みに、恥しいのだ」井沢も、きれいに笑ってい
 る。
   小野は井沢の笑顔を裏切る様に、突然深刻な表情をして、はっきりと
 した声で言った。
   「卑屈すぎる。結局、君はこうかつなだけじゃないか。自分が臆病な
 のを、苦悩のカバーで覆って、そうして陰で、微笑んでいる。僕だって、
 死にたいんだ。けれども、それはあまりにも見せかけめいているから、
 しないだけなんだ」
   「見せかけじゃない」井沢はきっとなって小野の顔を見返した。「見
 せかけでは、決してない。人間は、一種類ではないんだ。生きるべき人
 間と、そうでない人間。生きるべき人間は、文化や社会に、大きな貢献
 をするものと、生きているだけで楽しいと感じられる人間なんだ。生き
 ていて楽しいのは、その人が健康だからだ。健康だという事は、人間と
 いう動物の本来の姿、すなわち人類存在の証だ。生きなくていい人間は、
 役に立たない余計者だけだ!」
   「馬鹿だね。そんな幼稚な唯物論で、ごまかされちゃかなわねえ。君
 の言う事は、全てが実際には使えないハリボテだ」小野の体は、不自然
 に細かく震えていた。
   「ハリボテじゃない。少なくとも、僕の中では本物だ。僕は本気で言
 っているのだ」
   「君は、ヒューマニズムという事を、誤って認識している。いや、そ
 ういうふりをしている」
   「ははは、人生は悪しき冗談なり、だ」
   「それは、君のアフォリズムか?」
   「ゲーテさ」井沢は吐く様にそう言って、次第に元気がなくなってゆ
 く小野の顔を観察した。小野の目は充血して桃色に染まり、かさかさに
 乾いた唇は、苦しそうに歪んでいた。
   「体は、大丈夫なのか」井沢は心配そうに尋ねた。
   「熱が、また高くなったらしい。僕はもうこれで帰る。君が死ぬのは
 自由だが」少しの間声がとだえた。「僕に同情してもらいたくなかった
 ら、よせ」彼はふらふらと立ち上がると、おぼつかない足どりで、ドア
 の方へ歩いた。井沢も腰を上げて小野のそばへ寄り、
   「まさか、往来で倒れたりしないだろうな」
   「心配しないでくれ。タクシーでも拾うさ」言いながらも大きくよろ
 めいて、それでも何とか、外へ出て行った。
   井沢は少しの間ドアを開けて不安げに見送っていたが、やがて部屋に
 引きこもり、長い間、一人で何やら考えていた。
   何時間か過ぎて、井沢はゆっくり立ち上がった。そうして、身に着け
 たままのズボンからベルトを抜き取り、大きな輪を作って、その反対側
 の端を、天井の吊り金具に結わえつけた。彼は、昏迷した様に苦笑いし
 た。何気なく見た窓の外は、ちらちら、雪が降っていた。机によじ登り、
 ベルトの輪に首を通した。
   そうして、黙って、跳んだ。




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