AWC 混沌 (参) バベッティー


        
#1500/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (PKJ     )  89/ 3/29  13:53  ( 71)
 混沌    (参)                 バベッティー
★内容
   翌朝は、久しぶりに雲のない、いい天気だった。カーテンを開け離し
 たままの窓から、黄色い太陽の光が、井沢の顔まで奇麗に照らしつけた。
 彼は畳の上で一度大きく伸びをしてから、ゆっくりと起き上がった。疲
 労はほとんどなくなって、井沢は、自分が世の中で最も健康な男なので
 はないかしら等と思った。
   《こんな日こそ、やってしまうべきではないだろうか》彼は考えた。
 考えて、机の引き出しから、残っている現金を半分ほど取り出し、ポケ
 ットに収めた。睡眠薬を買う気になったのである。死のうと、はじめて、
 真面目に思った。《これ以上 のらくら していても、全く無意味なわけ
 だし−−薬は、成功率こそ低いものの、苦痛は、少しもないそうじゃな
 いか》こんな時になって、まだ苦痛の事を気にしている自分に、はっと
 気づいて、井沢は苦笑した。
   彼は部屋を出て、下宿屋の近所に古くからある《あさみ》という喫茶
 店に入った。若いウエイターの、「何にいたしますか」の声をさえぎる
 様に、「モーニングセット」とぶっきらぼうな声で言った。井沢がこの
 店に朝から来るのは初めてだったので、何か、その《早起きの特権》と
 いうか、そういう様なものを、味わってみたくなったのである。
   「終わりです。さきほど、終了いたしました」ウエイターは、無情の
 事を言った。
   井沢がぽかんと口を開けて店のモダンな時計に目をやると、なるほど、
 数分後には正午であった。
   「じゃあ、コーヒー。コーヒーと、トースト。」苦々しい気分だった。
   「コーヒー、トーストですね。少しお待ち下さい」そう言って、カウ
 ンターへ戻って行った。
   《俺が死んで、何人泣くだろう》井沢はぼんやり考えた。《まず、両
 親は−−お袋は悲しむに違いない。俺の自殺を知らされて、放心状態に
 なる顔が目に浮かぶ様だ。発狂も、ありうる。けれどもおやじは−−お
 やじはどうだろう。怒って、無口になって、そうして陰で咽び泣く》そ
 こまで想像して、彼はさすがにいやな気がした。《小野はどうか。奴は
 決して涙は見せないだろう。かなり落ち着いた性格ではあるし。ことに
 よれば、とうとうやったな、くらいのもので、一度もトラジティには考
 えないかも知れない。いや、待て、俺は何を客観的に予想しているのだ。
 周囲の者に悲しんでもらう為に死ぬのか?  馬鹿な。俺は俺だ。自分の
 為に行う事であって、他人に干渉されてたまるか!》死のエゴイズムと
 いう言葉が、一瞬脳裏をかすめた。
   コーヒーと、次いでトーストが運ばれて来た。最後のコーヒーか。そ
 う思うと、砂糖を入れる右手が、小刻みに震えた。
   彼はまたたくうちにトーストを平げて、コーヒーを半分ほどすすり、
 勘定を済ませて、店を後にした。
   井沢は大通りを歩いて、前から目をつけておいた小さな薬局に、ため
 らわず入った。店の中は明るくて、商品台の上には、入浴剤や子供のお
 むつの類が、整然と並んでいた。人の姿は見えなかった。
   「すみません」落ち着いて呼びかけた。誰も出て来ない。今度は少し
 声を張り上げて、「だれかいませんか」
   数秒後、ようやく奥の扉が動いて、やや太りぎみの血色のいい老婆が、
 申し訳なさそうな様子で走り出て来た。
   「ごめんなさいねえ。お待たせしました」濡れた手を、上下にぱたぱ
 た振っていた。どうやら用を足していた最中だったらしい。
   「睡眠薬下さい」余念なく、自然な声で言った。
   「眠れませんか」
   「ええ」
   老婆はけげんそうな表情で井沢の顔をまじまじと見つめて、
   「うちには睡眠薬は置いてませんが、でも、精神安定剤なら」
   「それで−−眠れますか」
   「はい。一回に六錠も飲めば、眠れます」
   「じゃあ、それを」嘘をついている事で気の弱くなっている井沢には、
 それを買うしかなかった。
   果たして精神安定剤で死ねるものだろうかと考えてみたが、そういう
 実例は今まで一度も聞いた事はなく、井沢は自分の間の抜けた情けなさ
 に、大笑いしたい程だった。
   下宿の部屋に戻り、自分の馬鹿さ加減に呆れながらも、薬のビンを取
 り出し、蓋をあけて、白い錠剤を紙の上に全部ぶちまけた。数えてみる
 と、六十四粒あった。
   けれども、まだ陽は高い様である。井沢は迷ったあげく、夕方まで待
 つ事にして、それまでの時間潰しに、机から本を一冊取りあげた。変に
 清らかな気持ちで、聖書を取ったつもりが、表紙を見ると、悪の華だっ
 た。大きさが似ているから、間違えたのだ。井沢は顔をしかめて、本を
 机に戻そうとしたが、考え直して、そのままページを開いた。死に際に
 は、こちらの方が、かえって合っているかも知れない。彼は出鱈目にペ
 ージを開き、出たところを読み始めた。何度も読みなおしたり、音読し
 たりして、夕方まで、そうしていた。




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