#1477/1850 CFM「空中分解」
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「眠り猫の住む部屋」 美樹本震也
★内容
「眠り猫の住む部屋」
作 美樹本震也
C>NEKO
彼がコマンドを打ち込んだ。
CRTの画面には、目の大きい可愛い白い猫の絵が現れた。
「可愛いいーっ」
私は思わず歓声を上げた。
猫が、画面の中を走ってゆく。そのユーモラスな動きに思わず吹き出した。
やがて猫は画面の中の四角いカーソルに辿り着くと、小さな前足を出してじゃれつ
いた。まるで、毬にじゃれついているようだ。
「どうしたの? これ」
「PDS(パブリック・ドメイン・ソフトウェア)さ。会社のパソコンを使って、パ
ソコン通信で手に入れたんだ」
明彦はにやっと笑ってウインクした。
私は、少し前まで普通のOLだった。
自分では、結構長い間会社にいたつもりである。仕事も真面目にこなしたつもりだ
けど、世の馬鹿な男どもは、女と見ると「お茶くみ」としか考えていない。
朝昼と三時には、私のいた課では課長以下、課員にお茶を入れて差し上げるのだ。
まったく、私だって立派なSE、システムエンジニアだったのだ。そんなつまらな
い仕事をする為に会社に入ったのではない。
それに、その会社の女子社員というのが、四年制の大学を出ているくせに、パープ
リンで暇さえあれば、ぺちゃぺちゃお喋り。仕事など気まぐれでこなし、男の話にう
つつを抜かす始末。
キャリアウーマンが増えているというのに、昔ながらのOL稼業に勤しむ女性がい
るとは嘆かわしい。
という次第で、私は会社を辞めた。
少し未練だったのは、付き合っていた同僚の男子社員、明彦のことだった。
でも、そんな心配は嘘のよう。
奇妙なものである。
別れのシナリオが決まると、男というものは女以上に未練たらしくなるらしい。
退職する日、明彦と結ばれた。
で、私は明彦と付き合い続けることにしたのだ。
しかしである。私の男に対する認識はもう一つ甘かった。
いい歳まで初だった私は、男と女の泥臭い部分を知らなかった。
肌をぶつけ合う激しい愛情の表現は、少々私にはうっとおしかった。
会社を辞めた私は、明彦の部屋に乗り込んだ。いわゆる、同棲である。
なぜ、結婚じゃないのかと言うと、実のところ私にもよく分からない。
私にとって、結婚という決まりきった人生モデルに、魅力がなかった訳ではない。
でも、すぐに実行に移す気にもなれなかったのだ。
さて、いざ生活を初めてみると、先立つものが必要である。
明彦もSEだが、私より後に入社した。つまり私の方が年上で先輩になる。
そんな彼の収入が、若い二人の気儘な生活を支えてくれる筈がない。
私はかってのSEの時の腕を少しでも活かそうと、僅かばかりの蓄えと退職金でワ
ープロをリースで家に置いた。ワープロ打ち込みの仕事を始めたわけである。
初めの内は仕事量も少なかったのだが、私の仕事ぶりが結構評判良く、次第に注文
が増えてきた。
収入も上がったのだが、私の労働時間も増えた。
同棲とは言え、家にいるのは私である。明彦は、当たり前のように、私に女房の仕
事を期待していた。
「私はあなたの奥さんじゃないのよ」と言いたかったのだが、相手も花形のSEと
いう職業。帰宅は深夜になることが多い。やむを得ず、私が家事を引き受けた。
しかし、ワープロの仕事が増えるにつれ、家事が疎かになり、明彦との言い争いへ
と発展していった。
収入と二人の親密度は、反比例しているようだった。
明彦はますます仕事、仕事とコンピュータエンジニアの症候群に掛かってしまった
ようである。ひょっとすると、帰宅拒否症かもしれないと私は思った。
彼とは一日に五分も話ができればいい方だった。
それも仕方のないことかもしれない。
朝、ワープロに向かっている私は、出掛ける彼に背を向け「いってらっしゃい」。
深夜、帰宅した彼にも背を向けたままキーを叩き、「お帰りなさい」。
昔のテレビでよく見た、内職仕事でミシンを踏む母親がいる家庭の再現だった。
そんなある日、明彦がひょっこりと早く帰宅した。
「ちょっと機械、貸してくれ」という彼に、「壊さないでよ」と食事の支度をしなが
ら私は返事をした。
暫くごそごそしていた明彦は、私を呼んだ。
「どうだい。面白いだろ?」
自慢そうに画面の中の猫を見る明彦の笑顔は、久し振りに明るかった。
どうやってワープロにそんなソフトを組み込んだのかは、分からなかった。私のワ
ープロの中で、白い猫は点滅するカーソルにじゃれついていた。
カーソルキーを叩いてカーソルを動かすと、猫は一生懸命にカーソルを追っ掛けて
画面の中を駆けていく。横に移動する時よりも、縦の行を越えて走っていく猫の動き
の方が楽しかった。転がっている毬を追っ掛けているようだ。
カーソルを何度も動かしていると、「暫く放っておけよ」と明彦。
彼に言われるまま、暫くワープロのキーに手を触れなかった。
すると、カーソルにじゃれついていた猫は、うずくまると眠ってしまった。寝息を
たてているように、小さく丸まった身体が上下に微かに動く。
その姿に、私は子供のようにはしゃいで、明彦の胸を両手で叩いた。
彼は、そんな私を思い切り抱き締めた。
久し振りにいい朝だった。何ヶ月ぶりかで、玄関から明彦を送り出した私は、ワー
プロの電源スイッチを入れ、そのままキッチンの流しに行くと洗い物をした。
暫くしてワープロの前に戻って来て驚いた。
夕べ、カーソルを追っ掛けていた猫が、CRT画面一杯の大きさで表示されていた
のだ。猫はスースーと寝息をたてて眠っていた。柔らかそうなお腹が膨らんでは萎む。
そんな動きをゆっくりと繰り返していた。
いくつかキーを押したり、電源を切って入れ直したりしたのだが、CRT画面には
猫が表示されるだけで、文書作成も更新もできなかった。
ワープロは完全に猫に乗っ取られたようだ。
今日、仕上げなければならない原稿があったのだが、不思議と腹も立たなかった。
すーすーと眠る猫の姿を見ていると、再び笑いが込み上げてきた。
以来、猫は私達の部屋に住み着いてしまったのである。