#1463/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (FEC ) 89/ 3/ 7 7:28 (109)
★Mergeing!Mergeing!!★《4》L109
★内容
湯槽に浸かり、目を閉じているのは頗る気持ちの良いことである。今日、藤田の感情
に流された姿を見ることが出来たのは大変珍しいことだったな。今にして考えれば、い
ささか異常だったような気もするが………。しかし今日はおかげで7時までには帰る事
が出来たし、こうしてゆっくりと風呂に入れるし………
“おい、いいか”間借り人がノックしてきた。
“何?”
“今日のあんたは酷かったぞ。やりすぎだった、完全に。”
“そんなことはない。いつも、からかわれているのはこっちなんだからね。”
“今日のは度が過ぎていたよ。きっと藤田さんは困っているに違いなかったんだ。それ
をめちゃくちゃに掻き回しちまったんだ。”
“じゃあ、いつもいつもやられっぱらしの私でいいわけ!”
“そうじゃない、やりあうにしても、なんというかなぁ、今までのような呼吸が必要な
んだよ。ここまでならいい、といったような両者の暗黙の了解が。大体、あんた自身、
思わぬ深みにはまったと思っただろ”
“べっ……別に”彼女はどもった。
“ちょっといい男に声かけられたぐらいで舞い上がるなよ。”
“何よ!誰がいつ舞い上がったっていうのよ。大体、あんた何様のつもり!そりゃあね
ぇ、私の彼氏とか親友とかだったらそういう口はきけるでしょうでしょうけれどね、あ
んた他人でしょ。全く……”
“あのなぁ…………………………………………………………ウッ!”
橋本の意識に激痛が走った。それは何回も彼の中を駆け巡り、感覚をまひさせていっ
た。中村の声が次第に鐘をついたかのようにごわんごわんと不明瞭になってゆく。それ
とともに、なんだか不明のザァーという川の音にも似たものが彼を取り巻いてゆく。蕩
けるように意識が薄れてゆく………。激痛さえもがあまり感じられなくなり………そし
て意識はホワイトアウトした。
“ちょっとあんたァ………どうしたの?”応答は無い。“ねぇ………話しかけておい
て…………何とか言ったら………ねぇ!”
普通の人の頭だったらあるこの雰囲気は、彼女にとって不気味な静寂だった。いつも
だったら感じられる彼の存在感があまりにも薄過ぎる。先程の“ウッ!”という言葉が
何度も彼女の意識を過った。そういえば、前に“激痛が走る”とか“記憶喪失になる”
とかいうことが聞いたことがある。これがそれなのか?だとしたら、私はどうしたらい
いの?
“ねぇ………大丈夫なの?”
中村は思わずピシャリと頭を叩いた。しかし、何の返答も無かった。
藤田はアパートに帰る道をゆっくりと歩いていた。夕方に一雨降ったらしく、アスフ
ァルトの路面が濡れていて、それが街燈であざやかに染まっていた。そこに彼女の白い
パンプスの軽やかな足音が響く。ちょっとした趣きがある。
しかし、彼女の心中はそんな穏やかなものではなかった。あの杉丘が中村に目をつけ
始めたのだ。あいつに群がる女はたくさんいるので、奴は遊び程度のつもりだろう。し
かしながら、それで泣く目をあわされた人間がたくさんいるのだ。しかも、男なんぞと
縁もゆかりもない(とはいいすぎかもしれないが)孝子なのよ、今度の標的は。
私はどうなのかしら………。泣く目をあわされた口?それとも強く生き残った口なの
かしら………。
足音がふと止まった。次の瞬間、藤田によって蹴られた小石がカランコロンと小気味
良い音を奏でた。
彼はバーのとまり木に腰を降ろしていた。ディスコで踊り疲れた体を癒すのにはちょ
うど良い。幸い、客が引けた間だったので、彼を邪魔する者はいなかった。
いや、彼を邪魔する者なんぞ、初めからこの世からいなかったのだ。彼は何でも思い
通りになるという世にも稀な境遇の持主の一人だった。出来るなら、こんな生活はやめ
たいくらいだ。彼はそう思ったが、勿論現在の状況を捨てたいというわけではない。ち
ょっとしたゲームとして、苦しい目にあってみたい程度でしかなかった。
頭がすっきりなるにつれて、昼間のことが思い出された。
ふ、中村孝子ちゃん、か。
彼はうっすらと笑いを浮かべた。勝利を目前にした人間がする妖艶さがそこにはあっ
た。
6畳の部屋の壁には全て本棚が立ち、部屋とは全く雰囲気のあわない事務用デスクが
部屋の隅にあった。その上にはちょっと古型の16Bitパーソナルコンピュータ1台
にプリンタ、モニタ、モデムに電話があった。近々FAXを買うつもりだそうだが、一
体何処に置くつもりなのであろう。この机とは別に部屋中央にでぇ〜んと平机があり、
ここも雑然としている。畳の上には直に様々な書類やファイルが塔を形作っている。あ
とに残されたのは僅かに、布団を敷くスペースだけ。もっとも、必要とあれば最後に残
されたこの空間も開拓しきってしまうに違いない。羅清仲右衛門はそんな人間だった。
やっぱり思った通りの人だったなぁ。内に秘めたる何かがある人間はいい。初めて見
たときから、普通の人間には無い、何か素晴らしいものをもっている人種だと思っては
いたが、今日会ってみてそれを実感することができた。あの清らかな、涼しげな灰色の
瞳の奥には何があるのだろう。
ただひとつ問題なのは、僕のことをどう思っているかだ。好かれたいというわけでは
ない。そんな虫のいいことがあってたまるか。嫌われなければいいのだ。少なくとも、
情報の交換が出来る程度でいいのだ。
しかし、今日の後半、何故彼女は怯えていたのだろう。何か、知られたくはない事が
あったのだろうか。そして、それがあの会見で露出したのではないか。でも、僕が気付
く限り、極平均的な女の話題だったような。それに、藤田の表情だって変わっていない。と、いうことは私も友人である藤田も気がつかない秘密に彼女が警戒していたという事
にはならないか。
いや、そういう神経的な面だけとは限らない。腹がにわかにいたくなったとか、頭が
痛くなったとか、そういう面だってあるかも知れぬ。
まあ、とにかく、彼女の嫌がることはやらないことにしよう。
風呂から出て、しばらくレポートの纏めに撤していた。彼女の部屋は2階なので静か
だ。しかし、そういった静かではないものが依然彼女の頭の中を制覇していた。まだ、
橋本は復帰していなかったのだ。
会話中に彼が消えるということはこれが初めてだった。前に中村に相談していたこと
から、彼はたびたびそういう事態に陥るらしいということが分かる。しかし、同じ頭の
中で、彼のみがそういう目に会うことが有り得るのであろうか。そして、こういう場合
大家の彼女はいったいどういう態度を取ったらいいのだろうか。医者に行ってもそもそ
もカルテもつくってくれないだろうし、かといってほっておくわけにもいかない。中国
までいって気孔をやってもらうわけにもいかない。それには言語と金銭と時間という壁
が立ち塞がっている。一体、どうしたら………。
“ねぇ………いる?……聞こえる?”
“…………………………………………………………………………………………………”
“橋本くん、どうしたの?”
“…………………………………………………………………………………………………”
“ちょっと!返事ぐらい!………してちょうだい………よ……”
“…………………………………………………………………………………………………”
“……………………ねえ………聞こえているンだったら………”
“…………………………………………………………………………………………………”
彼の意識の存在は微かにあるのだったが、返事はない。イメージとして消えかかった
小さい炎をみているようだった。彼女がコールしても、返事が出来ない。いや、感知す
ることさえも不能なのような…………。こういう場合、普通の人間だったら………
彼女の涙腺が潤んだ。それは目に溜まりきれなくなると頬を蔦って落下した。万年筆
で書いてあるレポートがそれでグチャグチャになってゆく。黒いインクがサァーと雲の
ように、白いノートに流れ、染めていった。
“ねぇ!”
しかし、無言だった。
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