#1410/1850 CFM「空中分解」
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【“最愛”は我身に……】《4》L99 ひすい岳舟
★内容
彼らはこれ以上探索している時間が無かった。時間通りにここをたたねば、これから
のスケジュールが狂ってしまう可能性がある。旅が終われば男達にもそれなりの時間の
流れに戻らなくてはならない。その為にはここで遅れることは出来なかった。しかし、
女のことがきがかりだ。第一、何処かに用に出ていると思われる男が戻ってきていない
のではかわいそうだ。そういうことで、彼らは記録帳に昨日からのあらましと、何かあ
った場合の自らの住所を書き記した。あとは、この先にある山荘の主人に通りすがった
ときにいっておけばよい。ノートの文から察すると男と女は彼らとは反対に登ってきた
らしいから、もしかしたらくる途中、山荘に立ち寄っているかもしれない。何れにせよ、彼らの望むとも望まないとにも関わらず、それくらいが唯一の、そして最良の行為だっ
た。もっとも、道を下りながら、この道を反対に登ってきた番の事を思い出さずにはお
れないだろうが。
ザックを外に運び出し、戸を閉めた。何故か、後ろ髪を引かれる思いだった。
「そうだ、水がないんじゃないか?」スポーツ刈りはいい言い訳が思いついた悪戯小
僧のように言った。「水が足りないんじゃないか?」
「昨日、結構使ったし………汲んでおこうか。」7:3頭も出発を遅らせる口実に乗っ
た。
水を汲んで戻ってくるまでの間には20分かかるだろう。僅かな時間ではあったが、
彼らにとっては大幅な譲歩だった。この間に探し出せるなり、戻ってくるなりしてくれ
れば、彼らもなんのためらいもなしに出発が出来るというものだった。もし、何も好転
が無かったら………それはこの際考えぬ事にした。
ザックの上層部に入れておいた2lポリタンを手にして彼らは空身で糸のような道を
下っていった。夜明けが近いとはいえ、まだ闇の支配下の方が多分にあった。空気は透
明になりつつあったが、まだはっきりとしてはいなかった。その上、この前見たときの
印象よりもこの道は勾配が急で、岩が白い牙を剥き出して彼らの歩行を邪魔していた。
やがて急な下りも徐々に緩和されてゆく。しかし、岩の方は烈しい形のものが次々と
現れてくるばかりだ。女の姿は、と言えば全く見えない。そのうち、水の流れらしき音
が聞こえ始めた。まわりの草は背が高く、水が豊富なことを示していた。事実、岩と岩
の間にある土はとても緩い。
水の音とはっきり分かる頃になると、巨岩の上を歩いているような状態になった。し
かし道という感覚は僅かに残っていた。上に登り、歩き、トンと飛びおり、ゆるい土の
上を歩き………この連続だった。高校時代にやらされたクラブのシゴキを両者とも思い
出さずにはおれなかった。あれも意味のない、繰り返しの運動だった。
ようやく、巨岩の上からトタンが叢の中に見えるところまで来た。トタンの下から黒
いホースが突き出ており、それは岩で形成された弾のところに水を吹き出していた。水
道でない証拠に、不規則に水の量が変わり、そのたびに病人が咳き込むように、ごぼご
ぼという音をたてていた。先を歩いていた7:3の男はそれを伝えようと後ろを振り変
えりながら、岩をおりようとした。
彼の先につこうとした右足がぬかるんだ地面を捕らえ損なった。ツーと足が動く。し
かしその動きを止めるべき左足はまだ宙にあった。びっくりした彼の動物的本能が手を
ばたつかせることによってなんとかバランスを保とうとした。岩からの位置エネルギー
がそれを困難にさせていた。道は土の部分から岩の背にすぐに変わっており、その先に
は断差があるような雰囲気である。このままでは彼はバランスを崩さぬとも、岩から飛
びおりてしまう。
このとき、彼はとっさに判断した。おりてきた左足をわざと不安定につき、次の右足
でえいやとばかりに左に向かって横っ飛びをしたのである。道の横の背の高い叢の中に
彼は転げた。暫くは止まらず、その中を鞠のように転げ落ちながら、道と並行しており
た。止まったときには、巨岩の下にきていた。さっき予想した通り、岩のむこうには何
も無かった。結局彼は岩を左側にまきながらおりたことになる。
スポーツ刈りの男は慎重に本来の道を下ってきた。7:3の男は手首を押さえながら
叢からはい出てきた。かすり傷を負っているが、たいしたことは無さそうだった。服に
は湿った土が至るところ擦りついていたが、大怪我を負っていないだけめっけものとい
うものだった。
大丈夫かよお。ちょっと、不注意だった、おぉイテェ。ヌカっているし、岩場だから
気を付けないと………。
二人は息をひそめた。辺り一面には水場には似つかわしくない空気が流れていた。彼
らのいるところから3mばかりいったところに先程見えた水場があったが、そちらの方
角から、嫌な臭気が漂ってくるのだ。非難小屋のトイレのような質の臭いではなかった。何か、腐ったような………。しかし、水場にそんな腐るようなものを放置しておくこと
は通常の精神をもったものだったら、そんなことはしないだろう。ことに、この山にや
ってくる地味好みのヤマヤに、そんな奴がいるとは思えない。しかし、事実として存在
するのだ、この空気は。彼らは顔を見合わせた。
初めに7:3の方が気がついた。彼のコケた岩を見てみると、上部のところに乾いた
土が岩肌に残っていた。それは人間がそこを落下して付けた跡のようだ。湿った土は夏
の日差しの中で焼かれたのだろう。それは下に向かって掻き消えていた。彼がとっさの
起点をきかさなかったならば、勢いよく同じような後をつけて頭からダイビングしてし
まったに違いない。
光景が目に移るようだった。ここを落下してしまった人間も、彼と同じく繰り返され
る登り降りに感覚が鈍っていたのに違いない。湿った土を踏み損じてバランスを崩し、
落下した。
彼はパッと足下を見た。彼の予想通りのものがそこにはあった。
「おい、見ろ!」
石がゴロリゴロリと点在しているそこは、何かで塗られたかのようだった。そしてそ
れがなにであるか、彼らには直感的に分かっていた。その毒々しい茶に変色しつつある
赤色のものは、彼らの五体を駆け巡るそれと同一のものであった。
落下したと思われる地点は真っ赤に染まっていた。勢いよく出たのであろう、道の横
の叢まで染まっている。窪地には水溜まりのようになっていた。勿論それも赤色に染ま
っていた。しかし、その血を噴き出した肝心のものが無かった。これだけ大量出血を瞬
間的に放出したのであるから、体には殆ど致命的な傷を負っているに違いない。また言
えることは、非難小屋の方へ上がってきていないということだ。上がってきているなら
ば、彼らは既に血の痕跡を発見しているだろうし、怪我人が血を垂らさないでここを上
がることは不可能だった。第一、それほどの傷を負っている者が上がれる訳がない。そ
して、この道は何処へ行くという目的ではなく、水場までの専用路だ。だから、これ以
上移動することは出来ない。できたとしたら………トタンの屋根がある水場のむこう側
だけだった。そしてそっちの方角から強烈な腐臭が漂ってくる、という事実がある……
彼らの頭にサッさ、ふっくらとした昨日の彼女の横顔が過った。そして彼女の弱々し
い言葉『彼がいますので』が、耳の中でこだました。殆ど恐慌をきたしそうなくらいの
ショックがヤマヤに駆け巡り、彼らは求めていた結果に辿り着いたことを知った。勝手
な考えかもしれなかったが、出来るなら過去に戻って水汲みなどせずにさっさと出発し
たかった。しかしそういった念も束の間だった。まだ、完全に全てが解明されたという
訳ではない。しかも、まだ息があるかもしれないじゃないか。救助は不可能でも、最期
をみとってやれるかもしれない。
彼らはゆっくりと足を進めた。廻り込むようにして水場を覗き込む。水の流れが彼ら
の登山靴の表面の皮のみ湿らせた。そしてさっきまでトタンの屋根によってさえぎられ
てきたショッキングな光景が彼らの網膜に突きささってきたのである。
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