#1409/1850 CFM「空中分解」
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【“最愛”は我身に……】《3》L114ひすい岳舟
★内容
『早寝、早飯、早糞』という立派な格言がある。山で要求されることで、これが出来
るようになれば一人前といえる。ビギナーがまず目差すステップである。出発前の慌た
だしい時間の中で腹の中のいらないものを出さなければならない。しないと歩いて30
分ぐらいして腹がこなれてきて便意を催してきてしまうからだ。腹痛を我慢しえる人間
は少ない。だから食事はうまく、しかも消化し易いものが要求され、何度も言うようだ
が、必然的に料理のエキスパートにならざるを得ないのである。
彼女の失跡という異常事態ですっかり生理的なものは作用しないかと思われたが、彼
らは流石にヤマヤである、きちんと納得出来るぐらいに済ますことが出来た。パッキン
グが一通り終わってから、時計を見ると4時ちょっと前。時間的に少し余裕があるから
探してみようということになった。
小屋の周囲を見まわったが姿を発見することは出来なかった。それから彼らは、7:
3が昨日来た道を、スポーツ刈りがここから先の道を少し行ってみてくまなく探したが
形跡すら窺うことは出来なかった。もう一度、小屋の周囲を見廻り、トイレに行った。
蝿達がぶんぶと飛んでいるだけだった。非難小屋内に希望を持ったが、戻ってきてはい
なかった。ただ開かれたザック2つに寝袋、そして彼らのパッキングをし終えたザック
が立っているだけだった。彼らは力なく腰を降ろすと、小屋の記録帳を手繰り寄せた。
非難小屋によってまちまちだったが大抵はノートが置いてあり、立ち寄った旅人達が
思い々々の言葉を書いてゆく。こういうのが都会にあるとひわいな単語や絵などが書か
れるわけだが、勿論そんなものは無かった。ここは都会ではないのである。都会という
人間のあらゆる面で限界状態のところでの喧騒は、ここに入り込む余地は無かった。ま
た入り込んだとしても豊かな抱擁力がそれをやさしく無に変えてゆく。分解者が有機物
を無機物に変化させていくように。
2人はここに手がかりを求めた。それは至極自然な事だった。きっと彼らは書いてい
ただろうし、彼女をなんらかの事情で置いていった連れがもしかしたら後にくる人間に
言葉を残しているかもしれない。とにかく、可能性がこの状況の中では一番高いものだ
った。
色あせ、端の方が弱まってぼろぼろになっている帳面を捲る。歓喜の文字、静かな文
字、苦痛の文字、奮起の文字がびっしりと埋まっている。これらの人々は今どうしてい
るだろうか。多分、大方は眠りについている頃だろう。いやもしかしたら同じように何
処かの峰に立っているかもしれない。また、都会の雑踏であえいでいるかもしれなかっ
た。
ノートは殆ど終わりの方まで使っていた。最後の記入のあるページでノートは7:3
の男の頭のようにピッチリ分かれ開いた。辺りは薄明るくなりつつあったので、戸を開
け広げて外光を差し込ませ、ライトを使わずに読むことにした。彼らは並んで板の間に
座り直し、前者の声を拾い始めた。
日日は3日前になっていた。つまり彼らがこの非難小屋にやってくる前々日である。
その日ここで何があったのだろうか。
晴れ。温度は不明だが、さして暑いというわけではない。薄い雲が太陽を覆って
いるかもしれない。
僕たちは●●から入り、○○岳を登頂しました。天候に恵まれ、難儀することは
ほとんどありませんでした。ただ、僕の連れである彼女が途中、雪渓の脇の急な
登りでバテてしまい、少しばかり計画は遅れましたが。
この登山路は3年前と同じく静かです。3年前はまだ就職していなかったので、
たくさん山に登ることが出来たんですが、今では1年に1回来れたらいいほどで
して………。今年は、色々と思い出深いこの山にしました。そうそう、変わって
いるものがありました。ノートです。新しくなっていますね(ボロボロですが)
と、いうことは入ってなさそうでも、ここの山のファンがいるということですね。
(これをみている貴方や私みたいに)非難小屋は長年の風雪で括れていて、建て
かえた方がよいと思います。だけれども山岳雑誌には、数年後には閉鎖されると
か。残念です。もっとも、閉鎖されても、この敷地はあるわけですからテント場
として利用できますから、こようと思えばこれますね。
ここは近くに水場があって、風景が奇麗で、とてもいいです。高さが周りの峰々
に比べて無いだけで敬遠されるのはかわいそうです。(もっともその方が山にと
ってはいいのかもしれない)ミーハーさんやピークハンターさんには魅力の薄い
山、それがここです。
そうそう、ここに彼女をつれてきたのは、実は知りあってから6年目を迎えまし
て、ようやく親に交際を認められまして………。結婚まではまだまだ遠い道程で
すが、ひとつのピークを登頂した記念にというわけで………。3年前、僕がここ
を登頂しているとき、彼女は見合いをしていました。僕はそのころずるかった。
恐くて、山に逃れてきていました。重要な選択を彼女一人に任せて、僕は現実逃
避をしていました。それでいて、彼女に僕への選択を願っていた。とても虫のい
いことを考えていたわけです。彼女を止めようとはしなかった。それが出来るか
、とても不安だったのです。そして、そうすることが正しいのか、それも分かな
かった。彼女の家族に会うこともしなかった。自分を否定されることが非常に恐
かったのです。だから、見合いをすると彼女から話があったとき、山に行こうと
思ってしまったのです。
だけれども、ここに来て後悔しました。あの都会の中では僕は弱者でした。しか
し、ここでは自分を全てさらけださなくてはならない。自分のいたらぬところを
はっきり見据えなければ生きていけない。『賢者は、自分の愚かさを知っている
者にほかならない。』そうだったのです。
はっきり分かったのは、僕にとって彼女は非常に大きな、重い意味のある人だ、
ということでした。とても言葉になんか表わしきれないほどの。そういったもの
を守るためには、全力を出して守らなければならないということも同時に分かり
ました。それなのに、僕は現実から逃げてきてしまった………。もはや彼女が僕
の手の届かぬところに行ってしまったとしても、それは仕方がないことでした。
山にきて後悔したことは僕の登山歴の中でこれただひとつです。
彼女にまかせっきりで、自分は甘い汁を吸おうとしていた自分を許せなかった。
そして山を、そんな理由の題材にしてしまったことも許せなかった。僕はすぐ様
荷を纏め、一目散に山を下りました。今度は堂々と来ます、と心で唱えながら。
帰ってくると、彼女は待っていてくれました。彼女は重大な決断をしてくれたの
です。僕は………とても嬉しかった。
それから彼女の家族にあったのですが、僕の社会的な不安定さ・不確かさから認
めてくれませんでした。当然だろうと思います。だけれども、僕は3年の間頑張
りました。その前の3年間、逃げ腰で付き合っていた分、私は熱心に。山行も何
度かありましたが、必ず彼女をつれてゆきました。もっとも烈しい山には、彼女
がいたために連れてゆくことができませんでした。そして、『今度は堂々と来ま
す』と約束したこの山には来ませんでした。
そういうわけで、今回、ここに来たわけです。堂々と。
彼女にこの前ここにきたときの本心はまだ話していません。だから、今日、この
非難小屋で堂々とつげたいと思います。
明日は峰を蔦って△△峠に行く予定です。
ではおやすみなさい。
文は神経質そうな、しかし力強い字で綴られていた。彼らはそれを食い入るように読
んだ。あの青いザックの持主の一種のざんげ文を。彼は山で覚り、どういうハンデがあ
ったかは彼らの知るよしもないところだが、自己超越した。ヤマヤとして素晴らしい生
き方だった。いや、人間としても。男2人は打ち抜かれるような思いだった。浪人して
受験は自分の発揮する場ではない、などと言ってここに来たのであるが、果たしてそれ
が本当の生き方なのだろうか、自分にとって。しっかり見据え、そう考えた上ならばそ
れは素晴らしい道であるだろう。しかし、今とっている行動はただ単に、この記録帳の
かつての人間のように現実逃避ではないのか。再び失敗することを恐れ、逃げているだ
けではないのか。そんなことだったら、他に道を選んだとしても結果として同じことに
なるに違いない。
しかし、彼らはまだ完全に決めた、というわけではなかった。決めるには麓におりな
くてはなるまい。
スポーツ刈りが、丁寧にノートを閉じた。暫くは2人とも無言だった。
空気に透明さが戻り始め、あたりは色を発色し始めた。自然も無言ではあったが、次
第に活力を復活させつつあった。夜明け目差して猛然と、しかし静かに動き出している
のだ。
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