#924/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ ) 88/ 3/22 14:42 ( 73)
毀れゆくものの形 六−1 直江屋緑字斎
★内容
六
明かりが消され、研究室のドアが施錠されるあえかな金属音が沈
静(しじま)の中を伝わるのを聞いて、黒猫のように小窓に身を寄
せていた小さな影が振り返った。月明とてない真夜中だったが、い
つのまにか夜空には満天の星が粉のように鏤(ちりば)められ、死
者達の最期の吐息のような妖しの光を洩らしていた。
早彦は足裏全体をブロック塀に密着させて、そろりそろりと移動
していた。二階の病室から、ときおり、胸の病を連想させる咳や、
手酷い悪夢にでも魘(うな)されているのか、苦しげな呻き声がこ
ぼれ落ちた。早彦は自分の部屋の窓から頼りなげに垂れ下がってい
るロープまで辿りつくと、獣のような素早さでそれを伝った。
早彦はまたも寝つかれなかった。彼は二重の秘密を抱いたことに
なる。悪魔じみた二人の実験科学者の隠匿された会話、そして人の
知りうべくもない深夜にその会話を窺(うかが)っていたという秘
密「「。この秘密は、世界中の誰もが知るはずのない、ただ深更の
重く澱んだ時の記憶だけが留めおく性質のものだった。けれども、
時が無限でありうるとすれば、いとも簡単に放擲(ほうてき)され
るほどの些細な記憶にすぎないのかもしれない。
まどろもうと努める早彦の頭の中に、どういうわけか、陽光がく
すんだ黄金色になって差し込んでいる中学の理科教室が浮かんだ。
「「夏休みに入る少しばかり前の放課後、掃除当番の点検を命じ
られて、早彦は一人で理科教室に居残っていた。
夕方の教室は森閑としていた。実験用の広い机の上は整頓され、
暗緑色の黒板もすっかり拭われ、化学記号が乱雑に書き散らされて
いた痕跡すら留めていない。教室の奥には続き部屋のようになって
いる薬品室があった。その引き戸には立入厳禁の木札がぶら下がり、
いつも鍵がかかっていて、生徒は入室を許されていなかった。けれ
ども、その日、早彦は教師から託されていた鍵束を手にしていた。
誰もいないことも手伝って、早彦は一本の鍵を選び出すと、そっと
鍵穴に差し込んでみた。
引き戸を開けて中に入ると、ガラス製や金属製の実験器材が無造
作に小部屋のあちこちに置かれていた。壁一面の棚には、変色した
り、文字のインクが滲(にじ)んだラベルの貼られた色とりどりの
薬品瓶が分類され、所狭しと並べられていた。窓は直射日光を遮る
厚手の黒いカーテンで閉ざされ、そのため、理科教室の方から洩れ
入る幾ばくかの光が差し込むだけで、部屋の中は薄暗かった。
早彦は薬品室の片隅に、そこだけ頑丈に木の枠で固定された、二
重になったガラスケースがあるのに気づいた。内側のやや平べった
いケースの底にはびっしりと砂が敷かれ、その真中に、半ば砂に埋
もれた一箇の瓶があった。早彦は外側のケースの扉から開けようと、
廻らされた鎖を結び留めている錠に合う鍵を捜してみたが、鍵束の
中に該当する鍵はみつからなかった。あきらめて二重になったガラ
ス越しに覗くと、透明な瓶に貼られたラベルの上半分が砂から顔を
出しており、そこにニトログリセリンと書かれているのが読み取れ
た。早彦は、透き通った液体の姿をしたその薬品が危険なものであ
ることを知っていたので、人けのない、校舎の外れにある理科教室
の、それも脆いガラスのケースにそれが保管されているという事実
に不思議な感動を覚えた。
早彦は長いことその前に佇(たたず)み、幾重にも張り廻らされ
たガラスの中の液体に見とれていた。あるいは、ガラスを破る瀬戸
際の、その危険な雰囲気に酔いしれていたのかもしれない。
目を開けると、カーテンの隙間から窺(うかが)われる外の空気
がうっすら白み始めているような気がした。どこに焦点を結ぶでも
なく、寝たままの姿勢でぼんやりしていると、天井の木目や細かい
疵(きず)、しみ、空中に漂う埃の微粒子、網膜を流れる血液が、
それぞれ触れ合ったり離れたり入り組んだりしながら不規則な模様
を作りだしていた。それらが瞠(みひら)かれた眸(ひとみ)を通
り、脳髄に達し、思念の中で明瞭なイメージを喚起するのに、それ
ほどの時間は要さなかった。
妖しげな星の光、二人の医者の歪んだ顔、頭蓋骨に肉付けされる
乾いた皮膚、二つに裂かれた胎児たちの海、大脳の手術風景、戦場
での殺戮(さつりく)の様子、粉々になった骨片、臓物に紛れ込ん
だ脳味噌、風のように全世界の空気を充たす死の微粒子、一筋に繋
(つな)がる血脈の予感……、いくら目をつぶっても、混乱したイ
メージの切れ端が走馬燈のように鮮やかに駈け廻っていた。
早彦は眠ろうと努めた。しかし、眠りは容易に訪れようとはしな
かった。腋の下から零れる汗がその苛立ちを深めもした。早彦はや
むなく、肉体と魂の分離の術を試みることに思いを決めた。