AWC 毀れゆくものの形 二−2     直江屋緑字斎


        
#800/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ     )  88/ 2/21   9:37  (149)
毀れゆくものの形 二−2     直江屋緑字斎
★内容

  前方のどこの窓からか虻(あぶ)が紛れ込み、羽音を立てて飛ん
で来た。バスの中に吹き込む風のため後方に追いやられた虻は、旋
回すると早彦に纏(まと)いつき始めた。嫌だなと思って手で振り
払うと、虻は本格的に早彦を襲いだした。痛っと思ったときには、
もう額に虻の埒(らち)を頂戴していた。早彦は額を押えながら心
細くなってきた。隣町へ入っても、そいつはバスから降りる気配を
見せなかった。ポケットの中を探ってみたが、行先によっては帰り
のバス代に欠けるかも知れない。途中で諦めることになるのかなと
も思った。
 そいつを後ろの席から観察していると、何か落ち着きがなく、
苛々しているように思われた。座席の手摺を煤けた黒い手で握りし
め、いっかな手を離そうとしない。早彦のところからも、手首に浮
き出た静脈が、手摺を握り直すたび、痙攣(けいれん)でも起こす
ように弾けるのが分かった。そういえば、ときどき見せる横顔は蒼
褪(あおざ)め、その表情も硬ばっていた。
 そいつがようやく腰を上げたのは、隣町の中心地区を過ぎて、町
の奥にある炭住地帯にさしかかってからだった。早彦は、立ち上が
りかけたそいつの作業着の胸のあたりに気をとられた。その膨んだ
生地の動きに不審を抱いたのだ。ジャンパーの粗い布の動きに背く
かのような不自然な皺(しわ)が現われ、そこだけ切れ切れになっ
た冷たい硬質の線分がとどまり、布地の奥に重たい異物が潜んでい
るような気がした。
 そいつはバスを降りると、時計を見ながらしばらく立ち停まって
いた。早彦はそいつの脇を通り抜け、近くの建物の蔭に廻り込み、
信用金庫の名を記した看板の後ろからそいつを窺っていた。そいつ
は道路を渡り、寂しく静まり返った昼下がりの路地を木造の集会所
めざしてゆっくり歩いていた。継ぎ目から湯気を吹き出している太
いスチームパイプが、何本も空中に張り渡されている。集会所は炭
住街につきものの娯楽施設で、映画の上映や芝居小舎としても利用
されていた。安保闘争のときには、その拠点ともなった。モルタル
塗りの建物までの道のりは、早彦の立っている場所からすべて見通
すことができた。
 作業着の男は、集会所の傍の掲示板のあたりで立ち停まった。合
理化反対と大書されたビラが風にはためいていた。背中を丸めた男
がゆっくりと振り返った。その目が早彦を見つめた。早彦はそう感
じて、看板の蔭で身をふるわせた。けれども、そいつは早彦を睨
(にら)みつけているのではなかった。そいつは、早彦の隠れてい
る建物を、この町にただ一つある信用金庫を見ているのだった。数
秒の後、それに気づいた早彦は、窓から建物の中を覗いてみた。数
人の職員と客がいるだけで閑散としていたが、人の動きが停滞して
いるというわけではなかった。早彦の目が、その中の一人の男に惹
きつけられた。
 早彦があわてて振り向くと、掲示板の前に立っていた男が背を向
けて歩き始めていた。炭住街の中心から外れた粗末な家並のある通
りに入り、その裏手に流れる川の方へと下りていった。それにして
も、距離にして五百メートルほどのことに過ぎない。川には石炭を
選別した後の廃水が流れていて、水は黒く澱んでいた。川岸には泥
炭の堆積ができ、濡れて黒光りする表面が太陽に晒されていた。涸
(かわ)いて粉炭になったものを貯蔵する掘立小舎もあった。
 早彦は川辺には下りずに、隈笹の繁みに入ってそいつの様子を眺
めた。そいつは掘立小舎に入り込むと、しばらくしてから出て来た。
それから泥のついた手を黒い川の水で洗うと、胸ポケットから手拭
いを出して、それで拭った。そいつが手拭いを出すときに、あの硬
い膨みが消えているのを、早彦は見逃さなかった。
 男が表通りの方へ姿を消してしまうと、早彦は入口に垂れ下がっ
ている蓆(むしろ)を引き上げて小舎の中へ入った。案の定、小屋
の隅には何かを埋めた形跡があった。湿り気を帯びた粉炭の小山の
一角を指で掘り起こしてみると、ぼろ布にくるまったものが現われ
た。取り上げると、ずしりとした量感が伝わってきた。早彦は、自
分の妄想が目の前に形をとって現われたのを知った。薄暗がりの中
に、鈍い光沢を湛えた拳銃があった。旧式だけど、綺麗な形だ、こ
の繊細な銃身、引金の微妙な曲線、美しいな、早彦はそう思う。死
と一直線に結びつく崇高な器械「「。これが安全装置、そう呟(つ
ぶや)いて、低い金属音をたてさせた。早彦の緊張した心臓の鼓動
を慰撫するような優しい音「「。早彦は掌で何度も銃身を擦ってい
た。冷たい感触が伝わり、脳髄を痺(しび)れさすような快感を覚
えた。
 その拳銃は早彦をすっかり魅了していた。そして、それにとどま
らず、殺意さえ誘(おび)き出し始めた。蓆(むしろ)が風に揺れ
てめくれ、そこから入り込む光が拳銃を舐(な)めるたびに、早彦
は自分が殺人事件の犯人になっている姿を想像した。信用金庫が閉
まる前にあの男は必ずここに戻ってくる、そのとき銃口をこうやっ
て突きつけたら「「、そう考えると愉快になってきた。弾丸は入っ
ているのだろうかと思い、弾倉を開けてみると、確かに六発全部が
装填されていた。リボルバーを元に戻すと、カシャッと小気味のい
い音が響いた。けれどもそのとたん、ぎくりとして、早彦は小舎の
中を見廻していた。狭い小舎の中に、あの男が潜んでいるような気
がしたからだ。腋下(えきか)を冷たい汗が伝った。小さな粉炭の
山が一つあるだけで、誰もいるはずがなかった。早彦は、すぐにも
あの男が戻ってくるような恐怖に囚われていた。
 早彦のしたことは、涸(かわ)いた粉炭をほんの一掬い、銃口へ
注ぎ込むことだった。そのとき、天井を向いた照星がきらりと光っ
た。早彦の眸(ひとみ)にその光が吸い込まれた。早彦はぼろ布を
取り上げ、銃身を先の方から丁寧に磨いた。どんよりした光沢に包
まれた拳銃を布でくるむと、元通り小舎の片隅に埋め直した。

 信用金庫と隣の建物との間に、ようやく人が通れるくらいの隙間
があって、そこに入り込んで背伸びすると、早彦の背丈でも、鍵の
掛けられた窓から中の様子がよく見えた。ガラスの向こうの物音は
聞こえないが、早彦にはなおのこと、人形芝居を見るような、往来
とは遮断された異世界が箱に入って滞っているような気がした。正
面の壁の柱時計がもうじき午後三時を示そうとしており、客の姿は
なく、何人かの職員が帳簿類の整理をしているだけだった。
 開襟シャツを着た若い職員がカウンターの下の潜り戸を抜けて出
て来た。その男は、あのとき、陸上競技場の叢から出て来て、捨科
白を残して立ち去った男だった。早彦は、この男が狙われているの
だと考えていた。もう箱の中に手を入れることはできない、ここで、
こうして見続けているだけだ。早彦はこれから起こるはずのことに
心を躍らせた。
 その若い職員が鍵束を左右に揺すりながら正面玄関に向かおうと
したとき、ふいに扉が開き、客が一人飛び込んで来た。職員がその
客に何か言いかけて顔を上げたとき、思わず怯んでいる様子が伝わ
ってきた。それから、入口で二言三言、言葉が交わされたようだ。
早彦は、その客があの自転車泥棒であることに満足していた。
 若い職員が口を開いて何か叫んでいるように見えた。他の職員が
玄関の方を一斉に注目した。それと同時に、若い職員が突き飛ばさ
れよろめいた。作業着を来たそいつの右手に、ぬめりを帯びた拳銃
が握られていた。
 そいつは大金庫の扉の前に座っている老人に拳銃を向けて、しき
りに何か喋っていた。職員たちは目を瞠(みひら)いたまま総立ち
になり、両手を高々と掲げていた。彼らの硬ばった眸を見ていると、
涙腺が麻痺(まひ)でもしているように思われた。突き飛ばされた
若い職員はじりじり後退り、カウンターに貼りついていた。
 しみのついた風呂敷の四隅が結ばれるのに、それほどの時間はか
からなかった。茜色の陽光に晒されているにもかかわらず、風呂敷
包みを抱えた男の顔が妙に白くなり、平板な造作がよけいに平面的
になり、まるでゆらめく蜻蛉(かげろう)のように見えた。
 柱時計が時報の鐘を打っているのだろうか、信用金庫内にはりつ
めていた緊張がわずかに弛(ゆる)み、全員の注意が早彦には聞こ
えぬ音の方に移り、耳をそばだてているような気がした。ほんの一
瞬、緩慢な時が流れたように感じた。
 拳銃を握りしめたそいつの目が憎しみの光を宿らせて炯(ひか)
った。それに感応するかのように、銃口が鈍色の光を軌跡に残して、
カウンターに貼りついている若い男に向けられていた。
 凍りついた若い男の唇の端から泡が洩れているのが見えた。彼が
すっかり動顛しているのは、膝がうちふるえ、くずおれそうに痙攣
(けいれん)していることからも察せられた。そして、ついには両
掌を合わせて哀願の仕種さえしていた。
 引金の指がゆっくりと絞られていった。向こうから爆発音だけが
甲高く轟き、早彦の鼻先の厚い窓ガラスがキーンという音をたてて
激しく顫動(せんどう)していた。ゆっくりとふるえるガラスを通
して、空中に絵具を塗りつけたように鮮血が漂い、その血の烟(け
むり)にからみつかれながら、指や腕、顔面の付属物がまるで塵埃
のようにまぜこぜになって浮游(ふゆう)した状態で、一切が無限
の静止をしつづけているように見えた。その中に取り残された胴体
が、硬直した右足の踵(かかと)を軸に独楽のようにくるくる回転
し、それは夕陽の赤い色彩に染まって飛び立つ鳥類の姿を想像させ
た。冬の深夜に見た、手術台上で凍りついたあの白蝋のような死体
よりも、いっそう美しい光景が展開されている、早彦は目を凝らし
ていた。夕刻の光を浴びているためか、それともガラスの向こうに
迸(ほとばし)る血の飛沫のためか、早彦の顔が紅蓮の炎に包まれ
ていた。
 拳銃が暴発し、脆くも炸裂して、自転車泥棒の右手と顔の半分が
吹き飛んだのだ。倒れ込んだ男は爬虫類(はちゅうるい)のように
床の上でのたうっていた。けれどもそれも寸秒のことで、打ち寄せ
る波のように溢(あふ)れ出た暗い血の海の中ですぐに動きを止め
てしまった。





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