#360/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ ) 87/ 9/28 11: 4 ( 64)
詩篇 空中の書27 直江屋緑字斎
★内容
<誘惑(3) 64行>
誘惑
(3)
闇を拒もうとするのか、あるいはそれ自体が闇そのものであると
でもいうのか、何の装飾もない冷たいコンクリートの壁に漆黒の
鉄扉が貼りついていた。
建物がはたして大きなものであるのか、それともごくつまらない
小さな家屋であるのか、それさえわからぬくらい、建物の輪郭は
夜の色に溶けている。扉にはありうべきはずのノッカーも把手も
見当らず、さりながら自働式のものでもないようであった。振り
向いてみると、いまのいままで、夜の都会の喧噪(けんそう)が
もたらす妖しい光や蒼々とした月の光を浴び、ビロードの照り返
しのように並んでいた屋根屋根も、また露地の曲り角も、夜闇に
すっかり溶け込んで、そこには何もなかったのである。不吉な想
いの正鵠さがここに証明されたのだろうか。
ところで、そのような得体の知れない不安のうちに囚われて、何
故目前の扉だけが確かなもののような印象を受けたのかというな
らば、それは闇の中で宙吊り状態でありながら、両の足で踏みし
めている大地だけはしっかりと体を支え、そしてなによりも鉄扉
そのものの色合いがいかにも深々とした暗黒の色であったからだ。
しようことなくそのきわめて暗い方向に向けて、電話の場所はこ
こでしょうか、と頼りなげな声にして囁(ささや)いてみた。す
ると、前に倒れたものか、それとも後ろに引かれたものか、何処
かに吸い込まれでもしたのか、あれほど夜そのものであった扉が
消えてしまったのである。
替りに現われたのは、なくなった扉の形に闇に浮かんだ仄白い
(ほのじろ)い空洞だった。惹き寄せられるようにその仄白い
(ほのじろ)い入口に入ろうとすると、すぐ右側に黒ずくめの蝙
蝠(こうもり)めいた男が立っているのに気がついた。その男の
背が高かったせいもあるが、ちょうど右足から入りかけていたた
め気配に気づいて右側を振り仰いだときは、ひどくあわててしま
った。そのうえ男の顔がただの黒い影にしか見えぬに至ってはな
おさらだった。何もいわれたわけではないが、そのとき、後ろの
闇に戻れと意思表示されてでもいるような圧迫感すら覚えた。男
の表情はいささかも判然としなかったのだが、見えない眸(ひと
み)からはそのような威圧する力が発せられていたようだ。
電話で女の方に招かれたのですが、それははたしてお宅のことで
しょうか、見当違いだったならば酔払いの譫言(たわごと)か狂
人の寝言としか思われぬような唐突な訊ね方をして後悔していた。
電信柱に対する確信の一件からすると、自分でも辻褄(つじつ
ま)の合わぬ後悔のしようであるとも考えた。蝙蝠(こうもり)
男は、ではお待ちを、と、世の中にこれほどの低音があろうかと
思われるほどのほとんど聞き取れぬ声音を残すと、奥の、さらに
仄白(ほのじろ)い光の暈(かさ)の中に消えていった。
ほどもなく、蝙蝠(こうもり)男は一向にその姿を現わすことな
く光の影になって舞い戻り、くるりと廻転して、背の高い痩せた
後姿についてくるようにとの慇懃(いんぎん)な仕種を見せた。
廊下は全体がそれ自身で発光しているような印象を与えたが、蝙
蝠(こうもり)男に邪魔されている向こうからの光がどの面にも
均等に当たり、一様の反射の仕方をしているのだろう、多角形の
宝石にみられる反射光のありようである。
永遠の/果てしない野に/夢みる/睡蓮よ/現在に/めざめ
るな/宝石の限りない/眠りのように(西脇順三郎「宝石の
眠り」)
歩くにつれて蝙蝠(こうもり)男の影の輪郭から洩れる光の強度
が増していった。背の高い男の暗黒が光源に向かうにしたがい罅
割(ひびわ)れはじめ、次第に透き通るように思われた。あまり
に脆(もろ)い光と影との境界がゆらゆらくずおれると、たった
いままで先導していたはずの男の背中が消え失せていて、替りに
眩(まばゆ)い光自体が輪郭を結びだし、ガラスの裸体をもつ女
が、いつのまにかこちらを見つめている。乳房が光とともに揺れ
ているのがわかった。