#361/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ ) 87/ 9/28 11:10 ( 64)
詩篇 空中の書28 直江屋緑字斎
★内容
<誘惑 64行>
誘惑
(4)
軽い会釈をよこした女の青い瞳がかすかに笑っているのに気づい
たころには、透明な裸体だと思われたのが嘘のように、絹のイヴ
ニングドレスに身を包んだ女が美しい腕を差し伸べていた。あな
たが電話の方でしょうか、あの優雅なアルトをなまめかしい女の
姿態に重ねながら訊ねたが、期待とは異なって、女は澄んだソプ
ラノで答えた。いいえ違います、けれどお招きしたのは私です、
電話をしたのは妹でしょう、妹がその仕事をいたしておりますか
ら。女はこともなげにそういうと、ホールへと誘(いざな)った。
仕事−−、その仕事とは何のことでしょうか。いささか間の悪い
問い方をしたものの、女は細い鼻を少し上向きにして、あら何を
いいだされるのでしょう、そんなわかりきったこと、そういって
さっさとホールに入っていったのである。
ホールの中は白みがかったような淡い光で満たされていた。喧騒
というほどではないが、多くの紳士淑女が上品な身装をして行き
交っている。なにやら外国の賭博場にでも来たような雰囲気であ
った。
そもそも中二階なのか、あるいは天井から吊り下げられているの
か、中空に舞台があって、そこで一人の女が踊っていた。踊りは
佳境を迎えているようだった。
細い糸のようなスポットライトの光が煙の罩(こ)もる空気の襞
(ひだ)を射通して、ステージの一点を鮮やかに照らしていた。
バロック風の、繊細な、それでいて畳みかけるような旋律が静か
に流れている。フットライトが徐々に光度を増していった。褐色
のセロファンが貼りつけてあるのだろうか、退嬰的な淡い光の束
が幾度となく舞台を舐め廻している。
気の遠くなるような幻惑の装置の中で、ダンサーの体は流れてい
た。流れているとしかいいようのない微細な曲線を歩いているの
である。エキセントリックな、弦楽器の病的な喘(あえ)ぎが聞
こえ始めると、ダンサーは片足の爪先の一点に体重を注ぎ小刻み
にふるえだした。獰猛(どうもう)な嵐に逆らって、蒼穹(たか
ぞら)を翔(か)け抜けるような肉の振動。緋色の、縫目のない
薄い衣裳のふるえが、なによりもその筋肉の闘いを伝えている。
ダンサーの体が栗鼠のように小さくなっていった。どこまで縮ん
でいくのだろうか。ついに舞台の上の一点の赤い滴となって、そ
して……。そして次の瞬間、白い貌だけがきわだって印象的に、
深い苦悩の皺(しわ)を泛(うか)べて巨大化した。ダンサーの
痩せた白い貌につややかな凝脂が漲(みなぎ)っている。
沁(し)み入るような音楽が、そのとき破綻をきたした。女の体
を包んでいた真紅のドレスが勢いよく四方に拡がり、炎のように
燃え上がった。静止していたかに見えた体が独楽のように、三角
形に広げられた赤い布の下端を支点にしてくるくる廻転を始めた
のである。凄じい速度でティンパニーが叩かれた。聴覚に対する
殴打。女は宙に躍った。四肢をいっぱいに広げる。白い肌が眼を
射る。宙にありながら激しくターンした。
女の、眉のない、異様にのっぺりとした表情の中に、舞台の、シ
ョーの、すべてが吸い取られ、強烈なライトの洪水の中で、布を
介して透き通る白い体が、みるみる光沢を生じていくのだった。
関節と関節がどのような方法で折り畳まれるのでしょう、いや、
まるで骨という骨が関節という接点に吸い込まれているようでし
たな。人間は脆いものです、魂も脆いが肉体はもっと脆い、その
脆さがあの見事なターンを可能にしたのです。私、ひとときも目
を離せなかったわ、あそこではすべてが一致していたのですもの、
どんな細部も看過すことはできなかった、精神と肉体が、そうで
すとも、思想と技術とが同じ高みにあったのですわ、それはまさ
しく、ただ一瞬の跳躍−−。
さまざまな囁(ささや)きの中に知り合いの声も混っていたよう
だったが、人々の顔はなぜか見定めがたかった。それでも、あち
こちのテーブルの上に投げ出されたままのカードの、スーツと絵
札の肖像は鮮明に見てとれたのである。