AWC BookS!(15)■魔術師、覚醒■   悠木 歩


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#567/1159 ●連載
★タイトル (RAD     )  07/08/28  21:54  (398)
BookS!(15)■魔術師、覚醒■   悠木 歩
★内容                                         07/08/29 21:22 修正 第2版
■魔術師、覚醒■



 自分がどの方向を向いているのか分からない。
 そればかりか上下の感覚さえ定かではなかった。
 磯部慶太は深い闇の中に居た。
 自分の足元、翳した手の指先さえ見えない。圧し掛かる固まりのような闇。

「小桃くん、どこに居るんだ!」
 助手の名を呼ぶ。
 恐怖心もあった。
 頼れる者の助けを欲してもいた。
 しかし声を上げた理由は、そればかりではない。
 闇の中、自分の居場所を確かめようとする目的があったのだ。声の響きによ
って、そこが狭い部屋であるのか、無限の広がりを持つ荒野なのかを知ろうと
した。
 しかし結果は得られない。
 叫んだ声は、己の頭の中を反響するだけであった。
 実のところ、磯部には分かっていたのである。
 自分はいま、夢の中に在るのだと。
「ああ、なんと言ったかな………そうだ、思い出した。確か、明晰夢だ」
 明晰夢、夢を夢として認識して見る夢。
 認識して見る夢ほど厄介なものはない。理解しながらも思考、出来事は論理
性に欠け、それがもどかしく感じられる。例え自分にとって不快な夢であって
も、脱する術がない。自然に目が覚めるのを待つしかなかった。
(否、夢にあって夢にあらず)
「えっ………誰だ?」
 突然聞こえて来た声。磯部はその主の姿を求め、四囲を見回す。しかし何れ
の方向も闇に支配されているだけ。
(やれ、嬉や。よやっと、我が声を聞き届ける者と巡り会えたわ)
 声は正面から聞こえて来るようだったが、右からのようにも思えた。いや、
左側からのようでもあり、上からとも感じられる。あるいは、下からだったか
も知れない。
「誰だ? 何処に居る?」
(ふむ、顔が見えねば、話し辛いか。暫し待て)
 ぱちん、と指を鳴らすような音がしたかと思うと、前方より仄かな光が射す。
光はその中央に、照らし忘れた闇を残したかの如く、黒い影を浮かび上がらせ
た。
「話し掛けて来たのは、あなた?」
「左様」
 嗄れた声に、磯部の肩口にも届かない体躯から、黒い影は老人と思われる。
但し黒いフードを頭からすっぽりと被っているため、顔を確認することが出来
ない。唯一、まるで鷹の嘴を思わせる、高く湾曲した鼻だけが見て取れた。
「儂の名は、グァと言う。魔術師グァだ」
「まじゅつし………?」
 我ながら奇妙な夢を見ていると思う。魔術師などと子どもじみたものが登場
して来たのは、真嶋から本に封じられた魔人・超人の話を聞かされたためであ
ろうか。
「夢にあらず、と言うたはず。探求者、磯部慶太よ」
「あっ、えっ、どうして?」
 つつ、とまるで氷上を滑るようにして、老人が近づいて来た。手を伸ばせば
触れられるほどに接近してもなお、フードの下の顔は見えない。まるで初めか
ら鼻以外、存在していないかのようである。
 初めて会う相手が何故、自分の名前を知っていたのか驚いたが、冷静に考え
れば不思議でも何でもない。これは夢なのだから。しかし夢の登場人物に、そ
れが夢であることを否定されるのは、どうにも珍妙な感覚であった。
「俄かには信じられぬか? まあよい、すぐに夢の外にて会えるであろう。し
かしそれには、お主の協力が要る」
「協力と言うと?」
 これは夢であって夢でない。老人の言葉をそのまま信じた訳ではない。ただ
夢と認識した明晰夢であっても、自然に目が覚めるのを待つ以外、ここから脱
する術はない。ならばもどかしい思いをして待つより、夢に付き合うことにし
たのであった。
「儂こそが、お主に託された本に封じられし者である」
「あっ………ええっ!」
 それは磯部にとって、意外な話であった。魔人・超人と聞き、想像していた
のはもっと神々しい存在。ギリシャやローマ神話に於ける、神々、英雄の像を
考えていた。
「フフフッ、想像を裏切り、申し訳ない」
 例え夢であったとしても、口に出していない思いを読み取られるのは愉快で
はなかった。表情を見せずに笑うことも含め、不気味にしか感じられない。
「中にはお主の想像したような輩もおる。しかしながら、魔術に於いては儂の
右に出る者はない………そう、あのときも油断さえせねば」
 ぎりりと響いたのは、老人の歯軋りであろうか。
「むう、今更悔いても詮なきこと。それよりいまは、我が身に掛けられた封印
を解かねばならぬ」
「出来るのですか?」
 磯部はいつの間にか、身を乗り出すようにしている自分に気づいた。所詮は
夢と侮りながらも、進まない本の解読への手掛かりが得られるかも知れないと
言う期待感。夢によってベンゼンの分子構造を解明した、フリードリヒ・ケク
レの例もある。
「造作もない、読めばいい。ただそれだけで、我が身は封印より、解き放たれ
る」
 答えを聞いた磯部は、失望し、肩を落として嘆息する。
「それが出来ないで苦労しているんだ………」
「落胆するには及ばぬ。本が読めぬは、お主が無能たる証にはあらず。そのよ
うな封印が施されているのだ。本を読める者は、常に世に一人しか居らぬ。そ
れ以外の者は、如何に才覚に溢れていようと、絶対に読めぬ」
「では、ぼくのしていることは、全くの無駄だと?」
「そう言うことになる」
 磯部は強い脱力感を覚え、両膝を地に突く。
 努力とは、それが報われると信じるからこそ出来るものである。それが完全
に徒労と知らされては、無関係と言われてもやはり、己の無能さを痛感させら
れた。
「本を読める者、儂のリーダーは残念ながらお主ではない。いや、あるいはお
主とって、それは幸運やも知れぬ」
 気のせいであろうか。
 磯部には一瞬、老人が笑ったように見えた。だが鼻以外、顔の分からない相
手の表情が見えるはずはない。
 半ば虚ろな思考で、磯部は老人の言を奇妙に感じた。磯部は何とか本の文字
を解読しようと、努力していたのである。老人は、それが叶わないことを幸運
と言う。皮肉なのであろうか。
「しかし我を封じし本、そのリーダーの所在は分かっている。力を貸せ、探求
者よ」
「………」
 即答が出来ない。
 もはや自分はこの件に関し、役立たずと知ったのだ。これ以上関わることに
意味があるのか、考えてしまう。
「お主はリーダーではない。しかしながら、初めて儂の声を聞き届けた者だ。
儂もお主に協力しよう。共に世界の真の姿を見ようではないか。力を貸せ、探
求者よ」
 もうこれが夢であるのを忘れていた。
 自ら解読が出来ずとも、まだ本へ興味はある。
 グァと名乗る老人、そして他の本に封じられた者たちの正体。魔人・超人と
は、どんな力の持ち主であるのか。そして彼らを本へ封じたのは、何者なのか。
まだまだ尽きない興味があることに気づく。
「分かった。それで、ぼくは何をすればいい?」
「おお、力を貸してくれるか。ああ、嬉や、フフフッ、ハハハッ」
 今度は表情を見る必要もない。
 老人は高らかに声を上げて笑ったのだった。

「夢ぇ? おいおい、そんなモン、信じていいのかよ」
 狭い車中に在って、その声は鼓膜を破くかのような大きさで耳に痛く、不快
であった。
 どんなに贔屓目を持って見ても、男はまともな職業の人間には思えない。最
大限の努力をして好意的に見れば、幅広い肩、暑い胸板、丸太のような腕から
プロレスラー等の格闘家と言ったところである。しかしやはり、ヤクザと見る
のが一番妥当なところであろう。
 助手席に座る男の名は木崎龍一と、真嶋から紹介されていた。社会的に認知
された企業が、このような者とどんな関わりを持つのだろうか。いやあるいは
大企業と言うのは、そうしたものなのかも知れない。近年急激に伸びた業績の
裏には、公に出来ない何かがあるのだろう。
 車を運転するのは真嶋。磯部は後部座席右側に座る。その横には当然の如く、
小桃の姿が在った。
「あら、木崎さんはケクレをご存知ありませんの?」
 磯部には声を掛けるのさえ躊躇われる、強面の木崎へ、小桃はまるで臆する
様子がない。
「ケクレ? ナンだい、そりゃ。流行の菓子かナンかかい?」
「フリードリヒ・ケクレ。ドイツの科学者ですよ」
 クスクスと笑いながら言う小桃に、磯部は気が気ではなかった。木崎のよう
な男が怒り出してしまえば、対処する自信がない。
「ほう、科学者ねぇ」
「ええ、ほら、尻尾を咥える蛇の夢を見て、ベンゼンの環状構造式を思い付い
た人です」
「………知らねぇなあ」
「ふふっ、ですよね。ヤクザ屋さんに、あまりベンゼンは関係ないですものね」
 小桃の怖いもの知らずには、限度がないのであろうか。初めて会う、誰の目
にもヤクザと分かる男に対し、冗談とも本気とも判断付き兼ねるようなことを、
平気で言ってしまう。
「ふはっ、はははっ、違いねぇ」
 しかし磯部の不安に反し、木崎も小桃との会話に、楽しそうに笑う。これは
木崎が意外と気さくな性格であると言うより、小桃の人柄に因るものであろう。
思えば、小桃が誰かと揉めている場面など、見た記憶がない。
「それで先生、このまま真っ直ぐで宜しいのですね」
 賑やかな中に在っても、真嶋の何処か事務的な声の調子は変わらない。磯部
の夢の話に疑念を示すことはないが、信じている様子でもない。ただ己の役目
に徹するのみであった。
 時刻は午後七時をわずかに回ったところであった。夏場の遅い日の入りを迎
えたばかりである。磯部が居眠りから目覚めて、まだ一時間は経っていなかっ
た。
 居眠りをしながら見た明晰夢。それが単なる夢でなかったと、磯部は確信し
ていた。
 膝に乗せた、濃緑色の本。その表紙に掌を宛がうと、わずかに静電気のよう
な刺激が感じられる。それが夢の中の老人に告げられた、本を読める者の居場
所へと磯部を導くための合図であった。
「ああ、次を左へ………高速を降りろ、ってことですね」
 磯部が本からの信号を伝えると、真嶋は何も答えず、無言でハンドルを切っ
た。

 日中、灼熱地獄を演出していた太陽がその姿を地平線の下へと隠して、幾ら
も時間は経っていない。まだ宵の口と言っていい、時間帯であった。
 しかし周囲に人影はなく、外灯はあるにはあったが、その一部は蛍光灯が切
れたままの状態で放置されている。そのため、この場に足を踏み入れた者は時
間帯を深夜と錯覚してしまう。
 所謂「シャッター通り」と呼ばれる場所であった。
 かつては賑わった商店街だったが、駅を挟んだ反対側に建てられたショッピ
ングセンターに、客足を根こそぎ奪われてしまった。加えて周辺の住宅はマン
ション建設のための立ち退きを受け入れ、その大半が空き家と化している。
 まだ早い時刻にあって、人目に付く可能性は極めて低い。ここは男の目的に、
恰好の場所と言えた。
 黒縁のフレームに、幅の広いレンズが入った眼鏡。グレーのスーツ姿で、手
には黒い鞄を持っていた。男は会社帰りのその足で、ここに来ていた。
 落ち着かない様子で四囲に目を配る。誰かに見られては都合が悪い。人気が
ないと言う条件で選んだ場所だが、念には念を入れる。自分の他に人の姿がな
いのを確認した上で、男は路地へと入った。
 そこは以前より目を付けていた場所の一つであった。
 表の商店街が賑わっていた頃の名残であろう。印刷も色褪せた段ボールが置
かれている。そして更に人目がないのをいいことに、テレビや壊れた自転車、
その他にも様々なゴミが積まれていた。中には生ゴミも含まれているようであ
った。不快な腐敗臭が漂っている。
「まったく、モラルもクソもない」
 独りごちながら、男はゴミの前へ屈み込む。
「ふん、片山の野郎。何が部長だ、大して仕事も出来ねぇくせに。手前なんか、
コネだけじゃねぇか。それを偉そうに」
 酒を飲んでいた訳ではない。しかし酔ったように呟き、ポケットから使い捨
てライターを取り出す。
 男の目的は放火であった。
 内向的な性格の男にとって、社会人として過ごす日々は苦痛以外の何物でも
ない。人と話すこと、関わることを嫌い、他にこれと言った趣味も持たない。
鬱積される一方であるストレスを晴らす手段として、男が選んだのが放火と言
う犯罪行為だった。
 火はいい。
 男は思う。
 醜いもの、薄汚いもの。
 生ゴミも段ボールも、全て黒い灰に変えてくれる。
 闇の中を赤々と照らす炎を見ていると、えも言われない快感に包まれた。そ
れは性的快感、射精感にも似ている。事実、放火の後興奮の余り、下着を汚す
こともしばしばあった。
 ライターに火を点け、段ボールへ近づける。しかし長期間雨ざらしにされて
いたため、段ボールは湿り気を帯び、燻るばかりで中々燃え上がらない。
「ちっ、しょうもない」
 男は舌打ちし、標的を変更する。段ボールの横、家庭ごみらしきものの入っ
たスーパーの袋へ、ライターを持った手を伸ばす。
「おいおい、止してくれよな。騒ぎが起きたら、面倒だろうが」
 突然の声に驚き、男はライターを放してしまう。指を添えていなければ、火
力を保っていられない使い捨てのライターである。目的を果たすことなく、火
は消えた。
「あっ、いや、これは………」
 口篭りながら振り返る。
 警察官か町会の夜回りか、あるいはただの通りすがりか。何れにせよ、まず
いところを見られてしまった。本当なら、このまま逃げ出すべきである。振り
返って自分の顔を改めて見せてしまうなど、愚かしい行為であった。
 しかし男は、頭の回るほうではなかった。咄嗟のことに、的確な判断が出来
ない。
「あっ、あの、あっ………」
 言い訳の言葉すら思いつかず、男は顔を引きつらせ絶句する。元から人に見
られた場合を想定していない、ずさんな犯行であった。更に振り返った先に居
たのは、日常の社会生活の中で、男が決して関わることのないと思われるタイ
プの人間だったのだ。
 厳つい顔に、厳つい体躯を持つ男。どう見ても、まともな仕事に就いている
とは思えない。それは見てくれによる推測に過ぎないが、おそらく暴力行為そ
のものを商売とする者。ヤクザと呼ばれる人種ではないだろうか。
 実際、男の推測に間違いはなかった。
 木崎の姿を確認する前は、不意を突いて殴り掛かり、目撃者が怯んだ隙に逃
げようとも考えていた。だが愚鈍な男であっても、不意を突いた程度で自分が
どうにか出来る相手でないと直感する。
「うわああああっ」
 突如上げた大声は、恐怖によるもの。
 目の前の男に捕まるくらいなら、警察に捕まったほうが、いくらもましであ
る。男は無我夢中で左、「シャッター通り」となった商店街へ抜ける方向に駆
け出した。
「!」
 ところが男の向かった先にも、別の人物が在った。しかも男が二人も、であ
る。
 しかし咄嗟に、男は先ほどの人物よりは、こちらの男たちのほうが組みし易
いと考えた。一人は大声を出す男に怯んだのか、尻込みして後ろに下がってい
る。もう一人は怯えた様子こそないものの、見るからに弱そうな相手だった。
この勢いのままに体当たりを食らわせば、容易に道は開ける。
「クソがぁ、死ねぇっ!」
 右肩でのタックル。
 衝撃と共に、相手の身体は吹き飛ぶ、はずだった。
 しかしあるはずの衝撃は感じられない。代わりに、男の目に映る光景がくる
りと一回転するのだった。

 磯部は人の身体がこれほどまで見事に、一回転するのを初めて見た。
 これが追い詰められた人間と言うものなのだろうか。向かって来る男の顔は
凄まじく、気圧された磯部は思わず後退りしてしまう。
 しかし横に居た真嶋には、男に臆した気配はない。落ち着き払った様子で、
男の進路を塞ぐべく、一歩前へ進み出た。
「クソがぁ、死ねぇっ!」
 木崎とは別の種類の威圧感。甲高い気合と共に、男は肩から真嶋へ突進して
来た。
 男の体格は木崎などと比べ、特段いいものではない。しかし一方の真嶋も、
恵まれた体格の持ち主とは言い難い。突進の勢いがある分だけ、わずかに男の
ほうが有利かと思われた。
 だが男の肩が、真嶋の胸を捉えたように見えた寸前である。動いたことさえ
よく分からない、微小な体捌きで真嶋はこれをかわした。同時に足を払ってい
たのだろうか。男の身体は突然宙に浮き、見事な円を描く。柔道か合気道、あ
るいは他の拳法の技であるのか、磯部には分からない。しかし真嶋には何か、
武道の心得があるのは間違いなさそうだ。
「木崎」
 息一つ、乱れてはいない。ただ若干位置のずれた細い眼鏡を、中指で押して
直す。それから、真嶋は荒事の担当者を呼んだ。
「おう、ちょっと待ってくれや」
 見れば木崎は、立小便の最中であった。
「………何をしている?」
 あまり感情を表すことがない真嶋であったが、これには少々顔を歪める。
「見た通り、ションベンだよ。火事が起きて、騒ぎにでも成りゃあ、面倒だろ
うが」
 木崎は男が最初に火を点けようとした、段ボールへ小便を掛けていたのだ。
確かにわずかではあったが、段ボールは燻り、煙を上げていた。それが木崎の
小便によって、見る見る内に消えて行く。
「悪りぃ、待たせたな」
 小便を終え、二度三度と陰茎を振った後、ようやく木崎は磯部たちの下へ来
た。
 その間、一分弱程度の時間を要した。しかしそれにも関わらず、男は真嶋に
投げられた体勢のまま地に伏していた。思いの外ダメージを受けたのか、腰を
抜かしたのか、それとも観念したのか。
「先生、本を」
「あっ、はい」
 促され、磯部は真嶋へ本を手渡した。真嶋はそれを、地べたに伏す男の前に
落とす。
「読め」
「えっ、ああっ、何だ?」
 真嶋の短い命令に、男は疑問の言葉を返す。
 当然であろう。この男こそが、本に導かれて見つけ出した人物。この世界で、
ただ一人濃緑色の表紙の本を読める人間であるらしい。夢の中の老人によれば、
鈴木清太郎と言う名前だそうだ。しかし男がそれを知るはずはない。突然現れ
た見知らぬ男たちに、妙な本を渡され、読めと言われても、すぐに従えるもの
ではないだろう。
「その本を読めと言っている。どこか一部でいい、早くしろ」
「何を言ってるんだ、お前らは?」
 再度の命令にも、男は従わない。
 すると真嶋は何やら、木崎に目で合図を送った。木崎も視線だけで、それに
頷く。
 木崎の手が、羽織っていたジャケットの内側に潜る。抜き出された手に握ら
れていたのは、一丁の拳銃であった。
「………!」
 男は、そして磯部も、息を呑む。
 玩具であろう。脅しのため、モデルガンを用意していたのであろう。磯部は
そう思った。
 だが―――
 パスッ、と鈍い音がした。
「ぐっ、ぐぎゃっああああっっっ!」
 続いて奇声が上がる。
 男の叫び声であった。その右足、ズボンには穴が空き、周囲が赤く染まって
いた。それを磯部が弾丸を受けたことによる出血と気づくまで、瞬き三回分の
時間を要した。
 本物であった。
 拳銃も、木崎も。
 真嶋が小桃を車中に残して来たのにも頷ける。どうしても一緒に行きたいと
主張する小桃を、頑なに拒否した理由はこれであった。
 小桃でなくとも、磯部にとっても、それは刺激の強すぎる光景であった。
 これは紛れもなく、犯罪である。しかもかなり凶悪な部類に属する。
 当然これまでに拳銃で人が撃たれる場面と、テレビや映画以外で遭遇するの
は、磯部にとって初めての経験である。極めて「真っ当」な暮らしを送って来
た磯部である。目の前で起こったことに恐怖し、震え、それを嫌悪した。しか
しその一方で、何か高揚している自分も居た。
「これで最後だ。本を読め。さもなくば………」
「ああ………あうっ、あっ………さ、さもなくば………?」
 痛みか、恐怖のためか、おそらく両方だろう。男の唇は、紫色に染まってい
た。
 そんな男の様子が可笑しくて仕方ない、と言うように木崎は半笑いを浮かべ
ていた。そんな木崎を恐ろしく思う磯部であったが、自分の顔にも笑みが浮か
んでいたことには気がつかない。
「次は、その頭をブチ抜いてやるよ」
 と、真嶋に代わって木崎が答える。
「ひっ! よ、読む………読むから、止めて」
 男は顔を引きつらせ、慌てて本を手に取った。ページを捲る手が、ガタガタ
と震えている。そして更に、本を開いたことで震えは増す。
 捲った本に男が見たものは、奇妙な古代文字。磯部が散々苦心した末、解読
に至ることの出来なかった文字である。この瞬間、初めて目にした男が戸惑う
のは無理もない。
「どうやら、ダメみたいだなあ」
 夢は所詮夢でしかなかったのだろうか。木崎の指が引き金に掛かる。
「ま、待って、待ってくれ」
 ページを捲る指が加速した。男の顔には、大粒の涙と鼻水。そして。
「ああ………読める、これ、読める!」
 あるページで指が止まり、その顔にわずかであったが赤みが射した。しかし
磯部には開かれたページも、他のページと同様、規則性を持たない不可思議な
形態の文字が見られるだけであった。
「嘘を言っても、すぐに分かる」
 相変わらず冷静な真嶋の、脅しとも取れる、脅しとしか取れない言葉に、男
は何度も頷く。
「だ、大丈夫だ」
 気持ちを落ち着けようと言うのか、男はごくりと唾を飲み込み、それから本
を読み上げる。
「そ、その者、力、な、なく………剣を交えし、ことはなし………た、ただ狡
猾なり」
 男が読み上げたのは、ただそれだけであった。極めて短く、特に貴重な情報
を含んでいるとも思えない。
「それで、これでどうにかなるのですか?」
 真嶋に問い掛けたのは磯部である。彼から聞いた通りであれば、本を読み上
げることで封じたられ者が呼び出されるはず。しかしこの短い文章に、それだ
けの力があるとは思い難い。
「私も未経験ですから。何とも」
「なあ、こ、これで、助けて貰えるんだろう?」
 唯一人、男だけが磯部たちとは別の興味を口にする。
 それは突然であった。
 はやり無駄であったかと、男を除く三人が思い始めた頃、異変が起こる。男
が手にした本から、黒い煙が立ち昇った。
 あるいは放火魔たる男が、磯部たちの気づかぬ間に本に火を点けたのか。し
かし黒い煙は、炎を伴わない。本を焦がす様子もなく立ち昇る
「ナンだよ、この妙ちくりんな煙は?」
 煙の行き先を目で追っていた木崎が声を上げた。それがまともな煙ではない
とは、誰の目にも明らかである。
 一旦上に昇った煙。通常であれば、風に吹かれ拡散するものである。しかし
そのとき、風は吹いていなかった。かといって、煙の動きは納得出来るもので
はなかった。
 地面から三、四メートルほど昇った後、そこから煙の筋は下降を始める。
男の正面、本から五メートルほど離れた場所に集まり、固まりとなる。
 固まりとなった煙は、やがて煙ではない別のものへと変化を遂げる。
 老人であった。
 磯部の夢に現れた、黒いフード付きのマントに身を包む、グァと名乗った老
人がそこに居た。
「フホホホッ、遂に本より抜け出せた………今日はなんと、目出度き日ぞ」
 老人は両手を広げ、天を仰ぎ見る。それでも鼻以外、顔は見えなかった。
 それから老人は己を解放した男ではなく、磯部へと向き直った。
「感謝する、探求者よ。さて、約束は守らねばならない。これより儂は、お主
と共に、この世の心理を求めよう。だがその前に、何とかせねばならぬ問題が
ある」
 老人は未だ地に伏したままの、男へと歩み寄る。それから顎に右手をやり、
何処にあるのか定かでない目で、男を見つめるのだった。

                          【To be continues.】

───Next story ■銀髪の侍■───





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