#191/1165 ●連載
★タイトル (tra ) 03/12/14 20:28 ( 70)
寝床(二) Trash-in
★内容 03/12/27 23:55 修正 第3版
吉田は、三階の隅にあるベンディングマシーンに硬貨を入れた。「宮地さん、一体こ
れは何なんですか。木俣製作所で何かあったんですか」
「木俣製作所自体に問題はない。問題は、完成披露だよ」宮地は、吉田から受取ったFAX
を読みながら答えた。「ここの部分読んでみな」宮地が指差した。「演目:(通し狂
言)仮名手本忠臣蔵 浄瑠璃:竹本幸之助(木俣幸惟) 三味線:竹本竹光」と書かれ
ていた。
「完成披露で義太夫をやるんですか。これが問題なんですか」吉田はベンディングマ
シーンから紙コップのコーヒーを取り出し、ソファに腰かけた。
「大問題だ」宮地が真顔で言った。眉間に皺が寄っている。「特に浄瑠璃の竹内幸之助
が問題だ。いや、言い直そう。これこそが諸悪の根源だ」
「誰ですかそれは。カッコして木俣幸ナントカってありますけど」
「きまたゆきのぶ。社長だよ。社長が義太夫を語るんだ。『竹本幸之助』は芸名だ。素
人芸人なんだよ。芸人になりきって喜んでる。周囲の迷惑には気づかずに」宮地がポケ
ットから財布を出して硬貨投入口に硬貨を入れた。
「つまり、下手なんですね。社長の語る義太夫が」
「そうだ」
「なんだバカバカしい。たったそれしきのことで、居留守使うなんて」
「甘いな吉田。ただの下手くそじゃないんだ。人類の常識を超えた下手くそさなんだ
よ」宮地が紙コップをベンディングマシーンから取り出した。
「でもたかが義太夫でしょ。歌舞伎の脇でウニャウニャ唸ってるやつ」
「バカバカ、そんなこと人前で言うなよ。『たかが義太夫』なんて誰かに聞かれたら、
お前が行かされるぞ。甘く見ちゃいけない。去年、高市がこの義太夫の会に行ったんだ
よ」
「彼、さっき顔面蒼白になってましたよ」
「たしかにあいつは、小心で課長の金魚のフンみたいな奴だが」宮地が吉田の横に座っ
た。「顔面蒼白になったのはそれなりの事情がある」
「なんです」
「あいつ、義太夫の会の後、気分が悪くなって病院に行ったんだよ」
「ええ」
「脳波が乱れていたらしい」
「脳波が」さすがに吉田も驚いた。
「そうだ。よほど応えたんだろう。ついでに胃カメラも飲んだ」
「どうでした」
「胃潰瘍になってた。たった二時間、木俣が語る義太夫を聴いただけで」
「うーむ。でも、信じがたいなあ」
「いや、俺はありうる話だと思う。あいつ、心電図にも異常があって、不整脈だと診断
された」
「そんなバカな」
「本当だよ。お前は転職してきてまだ一年経ってないから知らないだろうが」
「そういえば、いつだったか忘れましたが、たかいっちゃんが居眠りをしていて、突然
苦悶の表情を浮かべたかと思うと『義太夫が攻めてくる』って叫びましたよ」
「トラウマになってるんだ」
「トラウマまであるんですか」吉田の声が思わず大きくなる。
「オプションで後遺症までついてくる。ある意味では親切な義太夫なんだ。高市は去年
の忘年会のとき、ベロベロに酔っ払って、木俣の社長が義太夫を語る幻覚を見たらしい
んだ。突然、『木俣に語り殺される』と言って泣きだした」
「たかいっちゃんが逃げ出したのがわかりましたよ」
「木俣の義太夫といえば、ずば抜けた下手くそで有名だ。右脳に悪影響を及ぼすとか、
泡をふいてひっくり返ったやつがいるとか、聴覚が破壊されるとか、いろいろ言われて
る。一昨年行ったやつは、切れ痔になったと言っていた」
「切れ痔ですか。また色気のない弊害ですねえ」
「色気なんかを超越した下手くそなんだよ。切れ痔以外にも、いぼ痔、脱腸、腸捻転、
水虫、ウオノメ、ぜんそく、リウマチなんかにも悪い方に効く」
「公害みたいな義太夫ですね」
「いろいろな悪影響を人体に及ぼすから、木俣さんは『語るプルトニウム』と言われて
いる。それさえなければ立派な人らしいんだが」
「でもこれ誰が行くんでしょうね」
「木俣は大口の取引先だから欠席というわけにはいかない。毎年出席してるし」
「担当は井上課長ですよね。FAXの宛名もそうですし。やっぱり井上さんですかね」
「この会社は責任の所在がはっきりしないんだよ」宮地が手にしていたFAXの宛名を確認
しながら言った。「だれも責任をとろうとしないんだ。この会社の一番悪い点だ。去年
は井上が高市に押しつけた。二、三度木俣製作所に顔をだしたことがあるという理由
で」
「井上さんはそれを藤原部長の机に置いとけと言ってましたが」
「居留守を使って今年は藤原さんに押しつけるつもりか。無責任体質ここに極まれり、
だな。藤原さん、どう出るか」宮地は楽しそうに言った。「井上のあだ名知ってるか」
「いえ」
「ウナギだ。掴まえようとしてもヌルヌルしてスルリと身をかわす。片や藤原さんは、
責任を取らないかわりに、部下の手柄を横取りするといわれた男だ。組み合わせとして
は面白い」