#192/1165 ●連載 *** コメント #191 ***
★タイトル (tra ) 03/12/27 23:56 (109)
寝床(三) Trash-in
★内容 05/07/01 18:57 修正 第2版
竹本竹光は、木俣製作所の新しいビルに着いてからも、数週間前から続く胃の痛みに
苦しんでいた。原因ははっきりしている。今日、午後二時には木俣幸惟と同じ舞台に上
がり、伴奏の三味線を弾かなければならないからだ。それはつまり、極めて近い距離で
木俣の義太夫を聴くことを意味していた。
師匠ならば弟子の晴れ舞台を喜ぶのが筋である。そんなことは竹光も重々承知だ。通
常の弟子なら、竹光も心の底から喜んだろう。しかし、この弟子は通常の弟子ではな
い。木俣は、よくいるようなわがままなワンマン社長という訳ではない。その逆だ。円
満で実直な人柄は人を惹きつけてやまない。情に厚く、信義を重んじる。人格者という
言葉がこれ程ふさわしい人物は見当たらない。正真正銘の名士だ。
だが、なんの因果か木俣が語る義太夫は破滅的なまでに下手くそだ。おまけに義太夫
を語ることが生きがいなのだ。竹光の母は、木俣さんは祟られている、きっと前世で義
太夫語りを絞め殺したに違いないと言っていた。あるかもしれない、と竹光は思った。
稽古をつけるのは苦痛以外の何物でもない。至近距離で相手の義太夫を聴かされるか
らだ。この苦痛をなんと表現すればいいのか、適当な言葉が浮かばなかった。まず、語
り始めるやいなや、尾てい骨から脳天を貫くように不快な電流が走る。痔に悪いと言わ
れるのはこの不快な電流が尾てい骨に響くからだと推測していた。たまにこの不快な電
流がこめかみに滞留することがあるので要注意だ。30秒に一度はこめかみを揉んで緊迫
した神経を開放しなければ脳波に異常をきたす。そしてなんといってもあの声。あんな
悪声聞いたことがない。単なる悪声なら我慢もできよう。しかし木俣が義太夫を語ると
きの声は、良いだの悪いだのという価値観を軽く超越している。声というよりも、黒板
に爪を立てて引っかいたような、神経を責め苛む音に近い。しかも木俣が義太夫を語る
ときの声は、人間が最もストレスに感じる周波数をピンポイントで攻めてくる。神経質
な人でなくても胃酸の分泌が異常なまでに活発になる。そして最も恐ろしいのは、やが
て襲ってくる猛烈な眠気だ。眠ってしまえば一時苦痛から開放される。しかし、それこ
そが木俣の語る義太夫の周到にして精密な最大の罠だ。ここで眠ってしまうと、どうや
ら潜在意識に木俣の義太夫がインプットされてしまうらしいのだ。そうなると、夜毎、
悪夢にうなされることになる。安逸なひとときである筈の睡眠が、木俣の義太夫によっ
て徹頭徹尾破壊されるのだ。竹光が当初見た夢はほぼ同じ内容だった。けん台を前にし
た木俣が微笑んでいる。とろけるような笑顔だ。着ている服には「竹本幸之助」と白抜
きの文字が見える。そして「先生、稽古してきました。聴いてください」という。竹光
は断ろうと思うのだが、なぜか口が勝手に「どうぞ」と動く。ひどいときには「喜ん
で」と付け加えてしまう。やがて木俣が大声で語りだす。恐ろしいのは、苦痛だけは夢
とは思えない、まるで現実そのものなのだ。耐え切れなくなった竹光が「木俣さん申し
訳ない」と逃げ出すと、木俣が「待てっ、逃がさんぞ」といってけん台をつかんだまま
追いかけてきて、走りながら義太夫を語るのだ。「やめてくれ、僕には家族がいるんだ
っ」と叫びながら逃げるのだが、まるで水中で歩いているように足が重くて思うように
前に進まない。後ろからは木俣が義太夫を語りながら迫ってくる。追いつかれたら俺は
死ぬ、と思いながら必死で前に進むと、なぜかトイレの扉が見える。助かったと思い、
トイレに入って扉を閉める。そしてどういうわけか用を足そうとして便器の方を振り向
くと、便器の上にある窓がサッと開いて木俣が顔をだし、ニッと笑うと、大声で義太夫
を語りだすのだ。トイレの扉を開けようとしても鍵がかかってて開かない。扉に体当た
りをしていると、濁流のような木俣の義太夫が渦を巻いて竹光にぶちあたる。ああ、俺
はこのまま死ぬんだ、木俣に語り殺されるんだ、と思っていると、目が覚める。体中汗
だらけだ。動悸の激しさも尋常ではない。初めてこの夢を見たときは、なぜ5分前に起こ
さなかったのだと言って、泣きながら妻を怒鳴った。
数々の痛い経験を経て、竹光は独自の稽古方法を編み出した。方法はいたってシンプ
ルだ。それは「手本をお見せします」と言って、自分が語り、できるだけ木俣の義太夫
を聴かないように最大限の努力を払うことだ。そうしなければ体力的にも精神的にも、
もたないのだ。しかし、今日はその手も通じない。なにせ本番なのだ。ああ、胃がキリ
キリと痛む。胃の痛みが背面にも広がったのか腰の辺りまで痛い。
なぜだろう。竹光はいつも木俣のことを考えると悲しくなる。あのような人格者がな
ぜあのような破滅的な義太夫を語りたがるのだろうか。下手の横好きとはいうが、あれ
は下手というほど上等なものではない。
実は、竹光は木俣を弟子にすべきかどうか迷ったのだった。あまりにも木俣の語る義
太夫が酷かったからだ。長時間の聴取は生命に危険を及ぼす惧れがあった。なにせ「語
るプルトニウム」だ。だが直接断るには気がひけた。そうさせるほどの魅力のある人物
だった。だから、通常の月謝の5倍の金額を提示して、先方から断るようにしむけた。し
かし、木俣はあっさりと受け入れた。それどころか出稽古をするようになり、竹光が木
俣の自宅を訪れるようになると、木俣はさらに月謝を倍にした。竹光は固辞したが押し
切られた。理由を尋ねると、「先生にこちらに出向いていただくのは恐縮です。それ
に、先生は本当に熱心に教えてくださる。稽古の最中にあんなに一生懸命、長々と時間
を割いて手本をみせてくれるのは先生だけです」と言った。竹光は申し訳なさと恥ずか
しさで穴があったら入りたい気分だった。だがやはり、稽古時間の大部分は手本を見せ
続けた。人の命は地球より重い。
竹光は母が死んだ時のことをよく思い出す。通夜に駆けつけた木俣は、亡骸を見て、
手を合わせた。
「穏やかな、まるで眠っているようなお顔ですね」というと、泣いてくれた。面倒くさ
げに義理で仕方なくやって来る親類達に接するたびに心がすさんでいただけに、木俣の
涙が胸にしみた。
「私が、稽古のたびに先生のご自宅にお伺いすると、いつもおいしいお茶をだして頂い
て、東京オリンピック前の古い話をいたしました」そう言うとまた泣いた。「私の早死
にした姉がちょうど、先生のお母様と同じ年頃で・・・もう一度姉を亡くした気分で
す」
「母は木俣さんのことを立派な紳士だと申しておりました」竹光は答えた。母親が「あ
んな下手くそ聴いたことがない」と吐き捨てるように言っていたことは伏せておいた。
「最近は私の自宅に出稽古に来ていただいているので、こちらに伺わなくなって、あま
りお会いすることはなかったのですが」
「私の母も、木俣さんの義太夫をまた聴きたいと申しておりました」実のところ「うち
でやると近所から苦情がくるといけないから出稽古にしなさい」と言っていたのだが、
これもまた伏せておいた。あのときの母の鬼気迫る表情がありありと脳裡に浮かび竹光
の胸に悲しみが迫った。
「ありがたい話です。私なんかの義太夫を・・・」そう言って木俣はまた涙ぐんだ。こ
の人は本物だ、竹光は思った。人の痛みのわかる人だ。「優しい」という言葉は、この
人のためにあるのだ。
木俣はハンカチを取り出して目もとの涙を拭った。「私なんかの義太夫を・・・そう
ですか。では手向けに一節語らせていただきましょう」
「そそそ、それはいけません」竹光は思わず正座したまま50センチほどジャンプして木
俣にすがりついた。「そのう、あのう・・・母は木俣さんの義太夫を、ことのほか好ん
でいました。今ここで木俣さんが義太夫を語れば、そのう、あのう、げげげ現世に未練
が残って成仏できなくなってしまいます。仏が迷ってしまいます。それはそれは木俣さ
んの義太夫を好んでいましたから」
「これは思慮が足りませんでした。お恥ずかしい限りです。そうですか、現世に未練が
残りますか」涙を湛えた木俣の目が微妙に微笑んでいた。口元に不自然な力が入ってい
る。うれしいらしい。喜びを噛み殺しているようだ。「そうですか、現世に未練が残り
ますか」木俣が繰り返した。「お母様は具体的に私の義太夫のどこらへんがお好きだっ
たんでしょう」
「いや、それは、そのう、木俣さんの声のことをよく話していました」
「ははあ、声ですか。どういうふうに仰ってましたか」
「ええ。なんというか、そのう」竹光は必死に考えた。母は実際には「大蛇が焼き殺さ
れるときは、きっとあんな声をだすんだろうねぇ」と、バーコードで値段が読み取れる
ほど眉間に皺を寄せながら言っていたからだ。「母は木俣さんの声を、ええと、『味の
ある声だ』と、こう申しておりました」竹光の頭の中を「死人に口なし」という使い古
された表現がぐるぐると回る。
「そうですか。『味のある声』ですか。なるほど」木俣が満足げに何度もうなずいた。
通夜の席であることを忘れて、さわやかな笑顔が広がる。
「ええ。本当に木俣さんの声は『仏も迷う味な声』と、こう申し上げても差し支えない
と思います」
「そうですか、そうですか。うんうん、『仏も迷う味な声』ですか」さも愉快そうに木
俣は言った。