#191/1165 ●連載
★タイトル (tra ) 03/12/14 20:28 ( 70)
寝床(二) Trash-in
★内容 03/12/27 23:55 修正 第3版
吉田は、三階の隅にあるベンディングマシーンに硬貨を入れた。「宮地さん、一体こ
れは何なんですか。木俣製作所で何かあったんですか」
「木俣製作所自体に問題はない。問題は、完成披露だよ」宮地は、吉田から受取ったFAX
を読みながら答えた。「ここの部分読んでみな」宮地が指差した。「演目:(通し狂
言)仮名手本忠臣蔵 浄瑠璃:竹本幸之助(木俣幸惟) 三味線:竹本竹光」と書かれ
ていた。
「完成披露で義太夫をやるんですか。これが問題なんですか」吉田はベンディングマ
シーンから紙コップのコーヒーを取り出し、ソファに腰かけた。
「大問題だ」宮地が真顔で言った。眉間に皺が寄っている。「特に浄瑠璃の竹内幸之助
が問題だ。いや、言い直そう。これこそが諸悪の根源だ」
「誰ですかそれは。カッコして木俣幸ナントカってありますけど」
「きまたゆきのぶ。社長だよ。社長が義太夫を語るんだ。『竹本幸之助』は芸名だ。素
人芸人なんだよ。芸人になりきって喜んでる。周囲の迷惑には気づかずに」宮地がポケ
ットから財布を出して硬貨投入口に硬貨を入れた。
「つまり、下手なんですね。社長の語る義太夫が」
「そうだ」
「なんだバカバカしい。たったそれしきのことで、居留守使うなんて」
「甘いな吉田。ただの下手くそじゃないんだ。人類の常識を超えた下手くそさなんだ
よ」宮地が紙コップをベンディングマシーンから取り出した。
「でもたかが義太夫でしょ。歌舞伎の脇でウニャウニャ唸ってるやつ」
「バカバカ、そんなこと人前で言うなよ。『たかが義太夫』なんて誰かに聞かれたら、
お前が行かされるぞ。甘く見ちゃいけない。去年、高市がこの義太夫の会に行ったんだ
よ」
「彼、さっき顔面蒼白になってましたよ」
「たしかにあいつは、小心で課長の金魚のフンみたいな奴だが」宮地が吉田の横に座っ
た。「顔面蒼白になったのはそれなりの事情がある」
「なんです」
「あいつ、義太夫の会の後、気分が悪くなって病院に行ったんだよ」
「ええ」
「脳波が乱れていたらしい」
「脳波が」さすがに吉田も驚いた。
「そうだ。よほど応えたんだろう。ついでに胃カメラも飲んだ」
「どうでした」
「胃潰瘍になってた。たった二時間、木俣が語る義太夫を聴いただけで」
「うーむ。でも、信じがたいなあ」
「いや、俺はありうる話だと思う。あいつ、心電図にも異常があって、不整脈だと診断
された」
「そんなバカな」
「本当だよ。お前は転職してきてまだ一年経ってないから知らないだろうが」
「そういえば、いつだったか忘れましたが、たかいっちゃんが居眠りをしていて、突然
苦悶の表情を浮かべたかと思うと『義太夫が攻めてくる』って叫びましたよ」
「トラウマになってるんだ」
「トラウマまであるんですか」吉田の声が思わず大きくなる。
「オプションで後遺症までついてくる。ある意味では親切な義太夫なんだ。高市は去年
の忘年会のとき、ベロベロに酔っ払って、木俣の社長が義太夫を語る幻覚を見たらしい
んだ。突然、『木俣に語り殺される』と言って泣きだした」
「たかいっちゃんが逃げ出したのがわかりましたよ」
「木俣の義太夫といえば、ずば抜けた下手くそで有名だ。右脳に悪影響を及ぼすとか、
泡をふいてひっくり返ったやつがいるとか、聴覚が破壊されるとか、いろいろ言われて
る。一昨年行ったやつは、切れ痔になったと言っていた」
「切れ痔ですか。また色気のない弊害ですねえ」
「色気なんかを超越した下手くそなんだよ。切れ痔以外にも、いぼ痔、脱腸、腸捻転、
水虫、ウオノメ、ぜんそく、リウマチなんかにも悪い方に効く」
「公害みたいな義太夫ですね」
「いろいろな悪影響を人体に及ぼすから、木俣さんは『語るプルトニウム』と言われて
いる。それさえなければ立派な人らしいんだが」
「でもこれ誰が行くんでしょうね」
「木俣は大口の取引先だから欠席というわけにはいかない。毎年出席してるし」
「担当は井上課長ですよね。FAXの宛名もそうですし。やっぱり井上さんですかね」
「この会社は責任の所在がはっきりしないんだよ」宮地が手にしていたFAXの宛名を確認
しながら言った。「だれも責任をとろうとしないんだ。この会社の一番悪い点だ。去年
は井上が高市に押しつけた。二、三度木俣製作所に顔をだしたことがあるという理由
で」
「井上さんはそれを藤原部長の机に置いとけと言ってましたが」
「居留守を使って今年は藤原さんに押しつけるつもりか。無責任体質ここに極まれり、
だな。藤原さん、どう出るか」宮地は楽しそうに言った。「井上のあだ名知ってるか」
「いえ」
「ウナギだ。掴まえようとしてもヌルヌルしてスルリと身をかわす。片や藤原さんは、
責任を取らないかわりに、部下の手柄を横取りするといわれた男だ。組み合わせとして
は面白い」
#192/1165 ●連載 *** コメント #191 ***
★タイトル (tra ) 03/12/27 23:56 (109)
寝床(三) Trash-in
★内容 05/07/01 18:57 修正 第2版
竹本竹光は、木俣製作所の新しいビルに着いてからも、数週間前から続く胃の痛みに
苦しんでいた。原因ははっきりしている。今日、午後二時には木俣幸惟と同じ舞台に上
がり、伴奏の三味線を弾かなければならないからだ。それはつまり、極めて近い距離で
木俣の義太夫を聴くことを意味していた。
師匠ならば弟子の晴れ舞台を喜ぶのが筋である。そんなことは竹光も重々承知だ。通
常の弟子なら、竹光も心の底から喜んだろう。しかし、この弟子は通常の弟子ではな
い。木俣は、よくいるようなわがままなワンマン社長という訳ではない。その逆だ。円
満で実直な人柄は人を惹きつけてやまない。情に厚く、信義を重んじる。人格者という
言葉がこれ程ふさわしい人物は見当たらない。正真正銘の名士だ。
だが、なんの因果か木俣が語る義太夫は破滅的なまでに下手くそだ。おまけに義太夫
を語ることが生きがいなのだ。竹光の母は、木俣さんは祟られている、きっと前世で義
太夫語りを絞め殺したに違いないと言っていた。あるかもしれない、と竹光は思った。
稽古をつけるのは苦痛以外の何物でもない。至近距離で相手の義太夫を聴かされるか
らだ。この苦痛をなんと表現すればいいのか、適当な言葉が浮かばなかった。まず、語
り始めるやいなや、尾てい骨から脳天を貫くように不快な電流が走る。痔に悪いと言わ
れるのはこの不快な電流が尾てい骨に響くからだと推測していた。たまにこの不快な電
流がこめかみに滞留することがあるので要注意だ。30秒に一度はこめかみを揉んで緊迫
した神経を開放しなければ脳波に異常をきたす。そしてなんといってもあの声。あんな
悪声聞いたことがない。単なる悪声なら我慢もできよう。しかし木俣が義太夫を語ると
きの声は、良いだの悪いだのという価値観を軽く超越している。声というよりも、黒板
に爪を立てて引っかいたような、神経を責め苛む音に近い。しかも木俣が義太夫を語る
ときの声は、人間が最もストレスに感じる周波数をピンポイントで攻めてくる。神経質
な人でなくても胃酸の分泌が異常なまでに活発になる。そして最も恐ろしいのは、やが
て襲ってくる猛烈な眠気だ。眠ってしまえば一時苦痛から開放される。しかし、それこ
そが木俣の語る義太夫の周到にして精密な最大の罠だ。ここで眠ってしまうと、どうや
ら潜在意識に木俣の義太夫がインプットされてしまうらしいのだ。そうなると、夜毎、
悪夢にうなされることになる。安逸なひとときである筈の睡眠が、木俣の義太夫によっ
て徹頭徹尾破壊されるのだ。竹光が当初見た夢はほぼ同じ内容だった。けん台を前にし
た木俣が微笑んでいる。とろけるような笑顔だ。着ている服には「竹本幸之助」と白抜
きの文字が見える。そして「先生、稽古してきました。聴いてください」という。竹光
は断ろうと思うのだが、なぜか口が勝手に「どうぞ」と動く。ひどいときには「喜ん
で」と付け加えてしまう。やがて木俣が大声で語りだす。恐ろしいのは、苦痛だけは夢
とは思えない、まるで現実そのものなのだ。耐え切れなくなった竹光が「木俣さん申し
訳ない」と逃げ出すと、木俣が「待てっ、逃がさんぞ」といってけん台をつかんだまま
追いかけてきて、走りながら義太夫を語るのだ。「やめてくれ、僕には家族がいるんだ
っ」と叫びながら逃げるのだが、まるで水中で歩いているように足が重くて思うように
前に進まない。後ろからは木俣が義太夫を語りながら迫ってくる。追いつかれたら俺は
死ぬ、と思いながら必死で前に進むと、なぜかトイレの扉が見える。助かったと思い、
トイレに入って扉を閉める。そしてどういうわけか用を足そうとして便器の方を振り向
くと、便器の上にある窓がサッと開いて木俣が顔をだし、ニッと笑うと、大声で義太夫
を語りだすのだ。トイレの扉を開けようとしても鍵がかかってて開かない。扉に体当た
りをしていると、濁流のような木俣の義太夫が渦を巻いて竹光にぶちあたる。ああ、俺
はこのまま死ぬんだ、木俣に語り殺されるんだ、と思っていると、目が覚める。体中汗
だらけだ。動悸の激しさも尋常ではない。初めてこの夢を見たときは、なぜ5分前に起こ
さなかったのだと言って、泣きながら妻を怒鳴った。
数々の痛い経験を経て、竹光は独自の稽古方法を編み出した。方法はいたってシンプ
ルだ。それは「手本をお見せします」と言って、自分が語り、できるだけ木俣の義太夫
を聴かないように最大限の努力を払うことだ。そうしなければ体力的にも精神的にも、
もたないのだ。しかし、今日はその手も通じない。なにせ本番なのだ。ああ、胃がキリ
キリと痛む。胃の痛みが背面にも広がったのか腰の辺りまで痛い。
なぜだろう。竹光はいつも木俣のことを考えると悲しくなる。あのような人格者がな
ぜあのような破滅的な義太夫を語りたがるのだろうか。下手の横好きとはいうが、あれ
は下手というほど上等なものではない。
実は、竹光は木俣を弟子にすべきかどうか迷ったのだった。あまりにも木俣の語る義
太夫が酷かったからだ。長時間の聴取は生命に危険を及ぼす惧れがあった。なにせ「語
るプルトニウム」だ。だが直接断るには気がひけた。そうさせるほどの魅力のある人物
だった。だから、通常の月謝の5倍の金額を提示して、先方から断るようにしむけた。し
かし、木俣はあっさりと受け入れた。それどころか出稽古をするようになり、竹光が木
俣の自宅を訪れるようになると、木俣はさらに月謝を倍にした。竹光は固辞したが押し
切られた。理由を尋ねると、「先生にこちらに出向いていただくのは恐縮です。それ
に、先生は本当に熱心に教えてくださる。稽古の最中にあんなに一生懸命、長々と時間
を割いて手本をみせてくれるのは先生だけです」と言った。竹光は申し訳なさと恥ずか
しさで穴があったら入りたい気分だった。だがやはり、稽古時間の大部分は手本を見せ
続けた。人の命は地球より重い。
竹光は母が死んだ時のことをよく思い出す。通夜に駆けつけた木俣は、亡骸を見て、
手を合わせた。
「穏やかな、まるで眠っているようなお顔ですね」というと、泣いてくれた。面倒くさ
げに義理で仕方なくやって来る親類達に接するたびに心がすさんでいただけに、木俣の
涙が胸にしみた。
「私が、稽古のたびに先生のご自宅にお伺いすると、いつもおいしいお茶をだして頂い
て、東京オリンピック前の古い話をいたしました」そう言うとまた泣いた。「私の早死
にした姉がちょうど、先生のお母様と同じ年頃で・・・もう一度姉を亡くした気分で
す」
「母は木俣さんのことを立派な紳士だと申しておりました」竹光は答えた。母親が「あ
んな下手くそ聴いたことがない」と吐き捨てるように言っていたことは伏せておいた。
「最近は私の自宅に出稽古に来ていただいているので、こちらに伺わなくなって、あま
りお会いすることはなかったのですが」
「私の母も、木俣さんの義太夫をまた聴きたいと申しておりました」実のところ「うち
でやると近所から苦情がくるといけないから出稽古にしなさい」と言っていたのだが、
これもまた伏せておいた。あのときの母の鬼気迫る表情がありありと脳裡に浮かび竹光
の胸に悲しみが迫った。
「ありがたい話です。私なんかの義太夫を・・・」そう言って木俣はまた涙ぐんだ。こ
の人は本物だ、竹光は思った。人の痛みのわかる人だ。「優しい」という言葉は、この
人のためにあるのだ。
木俣はハンカチを取り出して目もとの涙を拭った。「私なんかの義太夫を・・・そう
ですか。では手向けに一節語らせていただきましょう」
「そそそ、それはいけません」竹光は思わず正座したまま50センチほどジャンプして木
俣にすがりついた。「そのう、あのう・・・母は木俣さんの義太夫を、ことのほか好ん
でいました。今ここで木俣さんが義太夫を語れば、そのう、あのう、げげげ現世に未練
が残って成仏できなくなってしまいます。仏が迷ってしまいます。それはそれは木俣さ
んの義太夫を好んでいましたから」
「これは思慮が足りませんでした。お恥ずかしい限りです。そうですか、現世に未練が
残りますか」涙を湛えた木俣の目が微妙に微笑んでいた。口元に不自然な力が入ってい
る。うれしいらしい。喜びを噛み殺しているようだ。「そうですか、現世に未練が残り
ますか」木俣が繰り返した。「お母様は具体的に私の義太夫のどこらへんがお好きだっ
たんでしょう」
「いや、それは、そのう、木俣さんの声のことをよく話していました」
「ははあ、声ですか。どういうふうに仰ってましたか」
「ええ。なんというか、そのう」竹光は必死に考えた。母は実際には「大蛇が焼き殺さ
れるときは、きっとあんな声をだすんだろうねぇ」と、バーコードで値段が読み取れる
ほど眉間に皺を寄せながら言っていたからだ。「母は木俣さんの声を、ええと、『味の
ある声だ』と、こう申しておりました」竹光の頭の中を「死人に口なし」という使い古
された表現がぐるぐると回る。
「そうですか。『味のある声』ですか。なるほど」木俣が満足げに何度もうなずいた。
通夜の席であることを忘れて、さわやかな笑顔が広がる。
「ええ。本当に木俣さんの声は『仏も迷う味な声』と、こう申し上げても差し支えない
と思います」
「そうですか、そうですか。うんうん、『仏も迷う味な声』ですか」さも愉快そうに木
俣は言った。
#193/1165 ●連載 *** コメント #192 ***
★タイトル (tra ) 03/12/27 23:57 (180)
寝床(四) Trash-in
★内容 05/07/01 18:58 修正 第2版
「重田、重田はいないか」社長室の方から木俣幸惟の声が聞こえてきた。
「はい、社長さま、どうなさいました」石川数也は呼びかけに応えると、廊下を小走り
に社長室へと向かった。
「石川さんですか。うちの重田はどうしたか知りませんか」
「重田さまは、本日の義太夫の会の参加者の出欠を自ら確認していらっしゃいます」石
川はそう言いながら社長室に入り、後ろ手で戸を閉めた。「社長さま、お疲れになると
いけません。ソファーにおかけになってください」我ながら惚れ惚れするような低音
だ。石川の武器はよく響く低音の声と、落ち着いた物腰だ。石川はわざと少しゆっくり
と話す。保険業界に入ってから今日に至るまで常に心がけてきた。落ち着きのある信用
できる人物を演出するために必要だと判断したからだ。特に木俣は得意先だ。失礼がな
いよう振る舞いには細心の注意を払わなければと、身が引き締まる。
「そうですか。みなには迷惑をかけますね」木俣が来客用の牛革のソファーに腰かけ
た。黒羽二重、染め抜き五つ紋付きの長着と仙台平の袴をつけた木俣は、近頃少し体重
が増えたこともあってか体から貫禄がにじみでていた。
「何をおっしゃいますか。それもこれも社長さまの義太夫を聴きたいがためのことでご
ざいます。強制されてではなく、心の底から湧き上がる願望に突き動かされるようにし
て無心に働いているのです」
「石川さん、あなたも腰かけてください」
石川が言われるままに木俣の向かい合わせに座ると、木俣が言葉を継いだ。「本番前
というのはどうも落ち着かないですね」
「そうでしょう。なにしろ今回の会は特に力が入っていらっしゃるとお見受けしており
ます」テーブルの上のテレビのリモコンが石川の視界に入った。「テレビでもご覧にな
れば、リラックスできるかと存じます」
「そうしましょうか。緊張して本番でしくじってはいけませんからね」木俣がリモコン
を手に取りテレビをつけた。部屋の奥にある大画面の液晶テレビにサッカーの試合中継
が映し出される。
「社長さまはサッカーはお好きでございますか」
「いや、実を言うとよくわからないのです。孫が今年小学生になったのですが、将来は
サッカー選手になりたいと言ってましてね。だから私もサッカーの勉強をしようと思っ
てはいるのですが」
「最近の子どもは野球よりもサッカーに興味が移っている模様ですね」
「私は、長嶋より少し年が下ですが、やはり野球でしたね」
「私もそうでございました」
画面がゴール前での競り合いを映し、選手がめまぐるしく動く。審判が笛を吹いた。
「試合が止まりましたね」木俣が言った。
石川がテレビを見つめる。画面はリプレイを映している。オフサイドだ。「社長さ
ま、あれがオフサイドでございます」
「ほほう、あれが噂に聞くオフサイドですか」
「はい。間違いございません。オフサイドでございます。ご説明申し上げますと、オフ
サイドと申しますのは、敵の守備陣の向こう側にいる味方にパスを出してしまう所業の
ことでございます」
「なるほど」と木俣は言ったが、腑に落ちない顔つきをしている。「何のためにあるん
ですか、その規則は」
「もしこの規則がないと、お互いに相手のゴール前に攻撃陣を配置いたしまして、長い
パスを繰り返すことになってしまいます。そういたしますと、競り合いのない、大変に
味気ない試合になるおそれのあるところからこのような約束事を取り決めております」
「すると競り合いを促進するための規則ですか」
「おっしゃるとおりです。競争を促進する・・・例えて言うなら、独占禁止法に相当す
るものかと存じ上げます」
「なるほど」木俣がうなずいた。納得したらしい。「石川さん、あれはなんですか」
石川がテレビを見ると、抗議する選手に主審がイエローカードを出している。
「あれはイエローカードでございます」
「ははあ、小耳にはさんだことが・・・」
「イエローカードと申しますのは、審判にたいする暴言、反則行為などへの警告でござ
います。ただいまの例では、審判にたいする暴言への対処であると思われます。このイ
エローカードを二枚頂戴するとレッドカードに昇格いたします」
「それはつまり、将棋でいうところの歩が金になるようなものですか」
「いや、これは私の言葉が足りませんでした。イエローカードが二枚になりますと、次
の試合には出場できない決まりになっております」
「なるほど。例えて言うなら、所轄官庁の行政指導のようなものですか」
「おっしゃるとおりでございます。そして、レッドカードはイエローカードよりも著し
い行為に対する処罰として発行されております。いきなりレッドカードが発行されるこ
ともございます。その場合には即退場とされております」
「そうすると、黄色よりも赤色の方が重い刑罰ということですね」
「さすが、ご理解が早い。全くそのとおりでございます。『商法違反に対する処罰』に
なぞらえてもよろしいかと存じ上げます」
「ふむふむ。ようやく理解できました」木俣も腑に落ちたようだった。「そういえば、
サッカーでよく2-6-3ですとか、1-9-8などと言いますね」
「はい。申します」うっかり頷いてしまったが、何を言ってるんだろう。石川は疑問に
思った。あっ、そうかフォーメーションのことか。数字が無茶苦茶だから理解に手間取
ってしまった。
「外人はあれでいいかもしれませんが、私は、やはり日本人なら3-3-7だと思います」
「なるほど」どうやら手拍子と間違えているらしい。3-3-7は三三七拍子のことだろう。
しかし今さら訂正もできないから調子を合わせるしかない。「お説ごもっともでござい
ます。実は、私も日本のサッカーは3-3-7だと、常々感じておりました」
「そうでしょう、そうでしょう。うちの会社も運動会の応援では必ず3-3-7です」木俣が
自慢げに言った。
「歴史ある御社にふさわしい美風かと存じます」石川が慇懃に応じた。
木俣は自説を肯定されて自信を得たのか、満足げにリモコンを手にすると、ボタンを
押してテレビを切った。少しの間は気がまぎれても、やはり落ち着かないようだ。
「それにしても重田は遅いな」
「参加者が多いので確認に時間がかかるのでしょう。皆さま楽しみにしてらっしゃいま
すから」
「いやあ、私の義太夫なんかには興味はありませんよ」木俣が謙遜してみせるが、言葉
とは裏腹に笑みが広がる。
「こう申し上げては、お世辞に聞こえるかもしれませんが、社長さまの義太夫はことの
ほかお上手でございますから」
「いやいやとんでもない」木俣はあわてて手を振って否定した。しかしホクホク顔だっ
た。「60の手習いで始めたものですから。まあ、下手の横好きですよ」
よくわかってるじゃないか。石川は心の底から同意した。
「たまたま、私の周りに義太夫好きが多かったというだけですよ。だから私は幸せ者で
すね。こんなに義太夫の良さを理解してくれる人たちに囲まれて。ただ、家族がもうち
ょっと理解してくれれば言うことはないのですが・・・」
「ご家族の方は理解していらっしゃらないのですか」
「ええ。私が義太夫の稽古をしようとすると『稽古場でやってよ』とこうきます」
そりゃそうだろう。あんなもの間近で聴かされたらたまったものではない。「ご自分
の邸宅に稽古場があるのはうらやましい限りですね」
「稽古場の設計にもいろいろと注文をつけてきましてね」
「社長さまではなく奥様が?」
「妻と娘です。娘がまた強硬で、完全防音でなければ家を出る、とこうなんですよ。お
かげで稽古場が異常に頑丈でして。設計をした建築士が『核シェルターとしても使用可
能です』と言い切りました」
「そうですか。お嬢様は何か義太夫に嫌な思い出でもあるのかもしれませんね。社長さ
まの義太夫とは全く関係なく」
「と言うと」
「例えば、昔片思いをしていた男性が義太夫に凝っていたとか」あるわけないよな、石
川は自分でも苦しい理由だと思った。
「いや、そんな話は聞いたことは」木俣は思案顔になった。「なんでも言いあえる関係
を心がけていますが」
石川はかぶりを振った。とりあえずこの線で押そう。「お嬢様にも人に言えない悩み
や思い出の一つや二つあるはずです。ましてや恋愛の話になれば父親には言いにくいで
しょう」
「そうですか・・・孤独だな父親は」
「同感です。私にも二歳になる娘がいますが、やはり私よりも妻になついております」
「特に保険の営業は厳しいと聞き及んでいます。一緒に遊ぶ時間もあまりないでしょ
う」
「お恥ずかしながら、あまり相手をしてやれません」
「今がかわいいさかりなのに・・・また何かいい保険があったら頼みますよ」
「ありがとうございます。うちの営業所は社長さまのおかげでもっていると、所長の滝
本も常々申しております」
「なに、そんなこと」木俣は軽く照れ笑いをした。「たいしたことではないのですか
ら。そういえば滝本さんはどうしました」
「受付の準備をさせていただいております」
「いつもすみませんね。受付なんかをさせて」
「とんでもございません。陰からお客様をサポートする・・・あさがお生命の企業理念
でございます。御社の『企業活動を通じた社会貢献』と相通ずるものがあります。確か
に、社長さまの義太夫を聴きたい、という望みもあります。しかし、それを殺して『陰
からお客様をサポートする』。それが、あさがお生命の社員たる滝本と私の使命だと心
得ています」
「そうか」木俣が相好をくずした。「義太夫を聴きたいという望みを殺して、陰からサ
ポートする・・・うん。良いことを言ってくれました。これはいい勉強になりました。
石川さん、先日提案してくだすった娘の定期保険、契約書持ってきてください」
「ありがとうございます。早速手配させていただきます」
「そうですか、『義太夫を聴きたいという望みを殺して』ですか」
「そうです。『陰からサポート』いたします。あくまでも、『陰からサポート』いたし
ます」
「『義太夫を聴きたいという望み』も持ってらっしゃる」
「ええ。そうです。ただ、重ねて申しあげますが『陰からサポート』いたします。『義
太夫を聴きたいという望み』は殺して殺して殺しまくります」石川の口調が熱を帯び
た。
「まあ、そんなに禁欲的になることはないでしょう。少しぐらいかまいませんよ」
「いえ、とんでもございません。受付を離れることは断じて許されません。『陰からお
客様をサポートする』という企業理念に反してしまいます」
「そうですか。それは残念ですね」
「はい。私達もいつも、無念さを感じてはいます。特に会が終わった後、お客様方がお
帰りになられるときの、あの死んだように疲れきった・・・いやその、社長さまの義太
夫を心ゆくまで堪能され、満足しきった心地よい疲労感をにじませた表情をみるにつ
け、無念さが募ります。しかし、『陰からお客様をサポートする』という当社の企業理
念を、死に物狂いで遂行しています」
「そうですか・・・それは無念でしょう」木俣は軽く目をつむると、数度うなずいた。
「すぐそばで義太夫を語ってるのがわかってるだけにねえ。まるで蛇の生殺しだ。可哀
想に」木俣は今度は小さく横に頭を振った。「わかりました。では今からお二人のため
に一節語って」
「だ、だダメです。そそそれはいけません」石川は弾けるように腰を浮かすと、テーブ
ル越しに木俣の襟を両手ではっしとつかんだ。
「まあ、そう固いことはいわずに」木俣の笑顔は憎らしいほどに全開だった。「の、
の、喉に差し障りがあるといけません」とりあえず石川が言った。「せっかくの自社ビ
ルの完成披露の催し物の前に、喉に差し障りがあるといけません。われわれが恨まれま
す。社長さまの慈悲にすがって無茶をさせたとあっては、他のお客様が納得いたしませ
ん。それはそれは皆さま楽しみにしていらっしゃいますから」
「いやあ、そこまで気を使うことはありませんよ。本番前の軽いウォーミングアップで
す」
「い、い、い、いいけません。喉に万が一のことがあってはなりません。かか勘弁して
ください」石川は自分の目が涙で潤んでいるのがわかった。
「石川さん、勘弁してくださいって言うのは」木俣が小首をかしげた。まずい、石川は
直感した。嫌がっていると思われたらアウトだ。脇の下に嫌な感じの汗がつたう。あせ
るなあせるな、自分に言い聞かせる。
「わわ我々保険業の人間は、お客様の万が一に備えるのが仕事です。その保険屋が、大
丈夫だろうという甘い見通しにたって社長様に無理をさせるなどは、言語道断、もって
の外です。保険マンの風上にもおけません」
「なるほど」木俣が思わず右手でひざを打った。「これは恐れ入った。そこまで考えて
いらっしゃるとは」
危機は去った。心の底から安堵感を覚えた石川は、自分が中腰のまま木俣の襟をつか
んでいることに気づいた。「お恥ずかしい話です」石川は木俣の襟から手を放すと、再
びソファーに身を沈めた。「職業病でしょうか。身に染み付いております」ゆったりと
した口調、低い声で言った。俺は客から信用される人物なのだ。
「いや、私は感動した。あなたは保険マンの中の保険マンだ。先日提案してくだすった
娘の年金保険、契約書をお願いしますよ」
「ありがとうございます」石川は重々しく頭を下げた。「早速手配させていただきま
す」