#310/566 ●短編
★タイトル (PRN ) 07/02/04 01:48 (126)
てのひらの貝殻 穂波
★内容
白い波頭を、ぼんやりと見つめていた。
ギンガムチェックのシートの下から、伝わるのは頼りない砂の感触。手ですくうと暖
かいそれを、指の間からサラサラとこぼす。乾いた粒子が肌を滑るのは、不思議と心地
よかった。
すくっては、こぼして。こぼしては、すくって。
繰り返し、繰り返し、海の波みたいな反復。
「久美」
顔を上げると、健司くんが立っていた。
捲くったジーンズの裾から見える、形のいいふくらはぎ。シャツから伸びる日焼けし
た腕や、首。肌寒い季節なのにジャケット一枚も着ない無頓着さで、私に笑いかける。
いつもの、子供みたいな笑顔。数え切れないくらい見ているのに、胸の奥がぎゅっと
した。
「久美、手出して」
言われたとおりに差し出すと、てのひらにぽとりと軽い何かが落とされた。
「……きれい」
無骨な殻の内側に、つやつやした虹色。なめらかに光る、ちいさな貝殻だった。
「だろ、久美にお土産」
「ありがとう」
形のあるものを貰ったのは、多分、初めてだ。
すごく嬉しい。一生、大事にしようと思った。
「あっちにいっぱい落ちてたんだ、もっと綺麗なのもあるかもしれないぞ。探しに行
く?」
「ううん、これで充分。私は、これがあるからいいよ」
そっと貝殻を握る。
健司くんはすこし困ったように目を細めて、私の額をつついた。
「ばかだなぁ、久美は」
「そうかな?」
「うん、すごいばか。そんなんじゃ、ダメだよ」
やさしい声。
やさしくて、やさしすぎて、苦しくなるような声だった。
「いいんだよ、ばかで。ほら、ご飯食べよう? お弁当、作ってきたんだから」
はしゃいだフリをして、用意していたバスケットを取り出す。
ハムと卵のサンドイッチ、健司くんの好きなとりの唐揚げ、私の好きな甘いたまご焼
き、ポテトサラダに、ミニトマトとウィンナーにキュウリを爪楊枝で串にしたもの。デ
ザートはうさぎの形のリンゴだった。
「ほら、すごいでしょ」
「へぇ、美味そうだな」
「褒めて褒めて。がんばったんだから」
胸を張って言うと、健司くんのおっきなてのひらが、ぐしゃぐしゃと頭をなでた。
「えらいえらい」
「えへへ」
あなたの、ために、頑張ったんだよ。
美味しいって、言って欲しくて。
喜んで欲しくて。
……笑って、欲しかったから。
コンビニで買っておいたペットボトルのウーロン茶を口にした。健司くんは、缶ビー
ル。喉を鳴らして、美味しそうに飲む横顔が、すごく……すごく、好き。
「お、この唐揚げ美味いな」
「ちゃんと、たれに漬け込んでおいたから味がしみてるでしょ?」
「うん、美味い美味い。あ、サンドイッチもいける」
サラダの味を確認する。うん、だいじょうぶ。たまご焼きも、ちゃんとふんわりした
黄色に仕上がっていた。
ビールをごくごく飲みながら、健司くんはウィンナーやトマトを次々に口に運ぶ。
ぎっしりつまっていたバスケットが、だんだん空になっていく。
そしてそれは、この時間の終わりが近づいている、ということでもあった。
私はゆっくりとリンゴを咀嚼する。
シャリシャリと涼やかな音を立てて、歯の間で広がるわずかな塩気と甘味。
健司くんはうさぎとにらめっこでもしているみたいに、リンゴをじっと見ている。
眉間に皺のよった、似合わない表情。
それは、ここ最近見るようになった健司くんの顔だった。
「……久美」
名前を呼ぶ声で、わかった。
わかりたくなかったけど、わかってしまった。
だって、ずっと見てきた。そばにいて、色んな表情、色んな感情、知ってしまった。
だから、私は微笑って健司くんに返事をする。
「なに?」
意地悪で、ごめんね。
でも、ちゃんと言葉にして欲しい。わかったフリをして、解放してあげるほど、私は
やさしくなれない。
「……その、ごめん。あのさ、子供……出来たんだ、だから」
波の音が、聞こえなくなった。
心臓の音がうるさくて、何も聞こえない。
健司くんの唇が動いているのに、声が聞こえない。
おまけに視界までおかしくなる。
健司くんのシャツも、リンゴのうさぎも、シートのギンガムチェックも、ぐにゃぐに
ゃ歪んで水に落ちたみたい。
「久美、久美?」
肩をつかまれている、と認識して顔を上げる。
ぼやけた世界で、心配そうな健司くんの顔が見えた。
困らせてる、って思ったら涙が落ちた。
「久美、ごめん」
わかってたのに。
わかってたのに。
最初から、こんな日が来ることなんて、わかってた、そのはずなのに。
「ごめん、ごめんな」
健司くんの声が雨みたいに降りそそぐ。
私は首を振った。
健司くんの指。日焼けした肌には、外した結婚指輪のあとがくっきり残っていて、い
っそつけてくれているほうがマシなくらいだった。白い日焼けあとは、健司くんがどれ
だけの日常で、その指輪を填めているかの証明に他ならないのだから。
私がどれだけ健司くんを好きでも、私にとってどれだけ掛け替えのない存在でも、健
司くんは私のものではない。
そんなこと、最初からわかっていた。
それでも、好きだった。好きになってしまった。止められなかった。ばかだって知っ
ていて、いつかこんな風に終わるってわかっていたのに、どうしても好きが押さえられ
なかった。
「けん……く、ん」
「何?」
「あの……ね」
わかってたのに、もう終わりなのに、そんなこと知ってるのに。
「す、き」
ばかだって自分でも思うけど、それしかなかった。
「すごく、すごく、好き」
やさしい声も、子供みたいな笑顔も、抱きしめてくれる大きなてのひらも、ぜんぶ、
ぜんぶ。
「……うん」
健司くんは、泣き出しそうな瞳をして、笑う。
「好き……」
困らせて、ごめんね。
でも、今日で終わりにするから。ちゃんと終わるから。
「大好きだったよ」
精一杯の勇気で、笑う。
「いままで、ずっと、ずっと」
健司くんに会うまで、知らなかった。誰かが隣にいるだけで空に浮くような気持ちに
なることとか、ドキドキして胸がいっぱいでご飯が食べられなくなることとか、目が合
うだけで心臓が破裂しそうになることも。
形にならない沢山のものをくれた。
それはきっと、私の中で一生キラキラし続ける、宝物だから。
「もう、いいよ。いっぱい一緒にいてくれて嬉しかった……ありがとう」
健司くんの腕が、私の肩を攫った。
低い声が、耳元で囁く。ふるえる、やさしい声。
「……久美、ありがとう」
その言葉は勲章だった。
てのひらの貝殻を握り締めて、私は目を閉じる。
ごつごつした表面はちょっと痛いけれど、内側には七色のとろりとした光を閉じ込め
た貝殻は、すこしだけ温かかった。