AWC インサイド   永山


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#311/566 ●短編
★タイトル (AZA     )  07/02/18  23:15  (423)
インサイド   永山
★内容                                         07/12/16 09:17 修正 第4版
 土曜の夜八時過ぎ。
 金網に囲われたリングの中では、大男二人が殴り合っていた。片方は口髭を
生やした白人であんこ型、もう片方は髪を短く刈り込んで模様を形作った黒人
でソップ型をしている。
 実力差は大きく、試合開始から三分と経っていないのに、白人の方はすでに
鼻血を大量に出しており、呼吸するのさえ辛そうだ。黒人は軽快なフットワー
クで相手の周囲を距離を保ちつつ回り、時折踏み込んでは、パンチ、キックと
的確に打撃を入れていく。白人は腕を振り回すだけで、最早ラッキーパンチに
期待するしかないようだ。
 米国の総合格闘技団体UFG(ウルトラ ファイト オブ グラジエーター)
主催のラスベガス大会は、大いに盛り上がっていた。いい歳したおやじまでが、
紙コップを頭の上で振って、激しい野次と歓声を送っている。
 だが、日本から来た僕らさほどでもない。
「はっきり言ってレベル低いよな」
「うん、そうだね」
 僕の心を読んだかのように、連れの荻原が言ってきた。僕は同意し、会場の
客席を見渡した。
「よくこんなのでここまで盛り上がれると思うよ」
 いや、この一試合だけなら、盛り上がってもおかしくない。だが、今日の興
業で組まれた八試合の内、メインイベントのこれを含めて六試合が低レベルの
殴り合いの展開なのだ。
 しかも、このメインがヘビー級タイトルマッチだというから、呆れてしまう。
「プレステなら、せいぜい門番レベルだ」
 プレステ――正式名称プレステージは日本の総合格闘技団体で、国内のみな
らず、海外のマニアにも絶大な人気を誇り、支持を得ている。町の喧嘩レベル
ではない、本物の技術による攻防が繰り広げられる舞台だ。
「やっぱ、アメリカ人て、殴り合いが好きなんだよな。セミ前の試合で、ビテ
ッチが寝技に行ったら、即ブーイングだもん」
「そうそう。それでいて、ギブアップさせたら盛り上がる。要するに見る目が
ない」
「試合のレベルだけじゃなく、観客のレベルでも、日本が一番じゃねーの、や
っぱ」
 荻原がやっぱを連発し始めたのは、お喋りに夢中になってきた証拠だ。試合
に集中していなかった僕らの意識をリングに引き戻したのは、周りの反応だっ
た。
 はっとしてマット上を見やると、白人選手が大の字に倒れ、そこへ追撃しよ
うとする黒人選手をレフェリーが身体を張って止めていた。
「あちゃー、見逃したか」
 会場に設置された巨大ビジョンに視線を移すと、早速リプレイが出た。最後
の特攻とばかりに前進してきた白人に、黒人がタイミングよく飛び膝蹴りを合
わせる。鼻っ柱を直撃していた。
「うむ、あれはなかなか」
「けど、もっと早く決めてくれって感じ」
「それもそうか。こんだけ実力差があるんだしな」
 僕はボールペンのキャップを取ると、パンフレットに掲載されている対戦カ
ード一覧の最後に印を付けた。
「特に波乱もなく終わりか。勝敗予想、全部的中だ」
「賭け方が分かってたら、儲けてたのにな。惜しい」
 合法的にギャンブルができ、プロスポーツの試合が賭けの対象になる異国の
地に来ながら、僕らは賭けなかった。英語が得意という訳ではなく、ましてや
日常会話以外となるとまるで自信がないため、数字の意味するところがよく分
からなかった。日本人らしき客もちらほら見かけたのだから聞けばいいものを、
もしも中国や韓国の人だったらどうしようなんて躊躇する内に、チャンスを逃
してしまったのである。
「ま、どうせ倍率は低かったろ。アメリカ人だって、強い弱いくらいは承知の
上で、殴り合いを楽しんでるようだし」
「でも、次に来るときは、ちゃんと勉強して、賭けてみたいな」
「次って、もうUFGはいいぜ。プレステージのラスベガス大会が開かれるな
ら、貯金をはたいてでも来る」
 僕らは二人とも大学生だ。夏休みを利用して観光込みの総合格闘技海外初観
戦と洒落込んだのだが、いかにもアメリカらしいお祭り騒ぎっぽい熱気を感じ
たのが収穫で、試合内容には満足できなかった。噂されるプレステージの米国
開催が実現すれば、荻原同様、僕も貯金をはたくことになろう。
 尤も、今回のアメリカ行は、お土産を買ってくることを名目に、家族やら親
戚やら友人やらから大金を託されており、懐は潤っている。
「で、旅費なんかで使った分を、賭けで取り戻すんだな」
「それ、いいね」
 折角だからとしばらく会場に残り、雰囲気の名残を味わっていた。そんな僕
らに、声を掛けてきた者がいた。
「ちょっといいですか。あなた達は日本の方で?」
 若干、イントネーションがおかしいが、流暢な日本語であった。僕と荻原が
揃って振り向くと、迷彩柄(何故かグリーンとオレンジが入り混じっている)
の開襟シャツに、短パン姿の男が立っていた。年齢は三十前半辺りか。これで
頭が茶髪か金髪で、薄い色のサングラスを掛けでもしていたら怪しい日系人の
できあがりだが、髪は黒できちんとセットされているし、目を隠そうともして
いない。
「はあ、日本からです」
 久々に第三者の日本語を聞いた気安さもあって、僕らはすんなりと答えた。
「初めまして。私は中川善男と言います」
 男は礼儀正しく自己紹介を始める。
「格闘技関係のライターをしています。バトローグというサイトをご存知でし
ょうか。あそこと契約して、こちらで取材活動を行っています」
「ああ、知ってます知ってます」
 海外での格闘技のニュースに強いことで有名なサイトだ。僕らは頷きながら
大声で返事した。
「じゃあ、今日はUFGの取材で?」
「いえ。UFGのようなメジャーは他のベテランが担当します。私はこの格好
を見てもお分かりでしょう、純粋に観戦ですよ。第一、取材なら大会終了後、
こんなところでのんびりできません」
「そうですか……てっきり、日本から観戦に来た俺達を掴まえて、短い感想を
言わせたいのかと思ったですよ」
「ああ、それもいいかもしれない。ただ、声を掛けた理由は他にあります。儲
け損なって残念がっているような会話が聞こえたものだから」
「ええ、まあ」
 僕らは顔を見合わせた。
「ひょっとして、賭け方を教えるから他のスポーツでやってみろとか言うんじ
ゃないでしょうね。僕も荻原も総合格闘技以外に興味ないから、知識もないん
ですよ」
「そうそう。ボクシングだってさっぱり分からない」
「そうでしたか。それならそれで、道はあるものですよ。えっと、お二人はい
つまでラスベガスにご滞在で?」
「月曜の昼までです。そのあとはロサンゼルスに寄って、帰国の予定ですが」
「ちょうどいい。ローカルイベントなら、この週末、総合格闘技もいくつか行
われる。よろしければご案内しましょう」
「うーん。――どうする?」
 荻原が聞いてきた。僕も似たような唸り声を上げてから答える。
「総合格闘技たってローカルとなると、僕らの知らない選手も大勢いるだろう
から、賭けても勝てるとは限らないよな」
「賭けに拘るのなら、その不安もごもっとも」
 中川が割って入って来た。僕らのやり取りをしっかりと聞いていたらしい。
「その分、倍率が高いイベントもあります。日本風に言えば、地下大会です
ね。訳あって公にはできない地下格闘技大会を観てきた――土産話にどうです?」
 かなり魅力的だ。地下大会という響きに弱い格闘技マニアは、僕らに限らず
大勢いることだろう。
 僕達が関心を強めたのを見て取ったか、中川は最後の一押しをしてきた。
「私の言うイベントは土日と二日連続で開催されます。初日の今日は若手中心、
明日が本番という形でね。このあと時間が空いているのなら、観るだけでも観
てみませんか。途中入場になりますが、お代は安いから私が持ちますよ」

 中川の連れて行ってくれたイベントの名称は、RDDという。リアル・ディ
ール・ディメンションの略だそうだ。
 会場は大型のテント張りで、サーカスを連想させる。
 金網に囲われていない、通常のリングで試合が行われるのだが、驚いたのは、
出場選手のレベルが意外と高いこと。総合格闘家としては未熟な者も大勢いる
のだが、某かの格闘技をバックボーンにした選手が揃っているようだ。殴り合
いだけを取ってみれば、UFGのメインよりも、今、目の前で繰り広げられて
いる若い軽量級選手の試合の方が、よほどスリリングで技術的にも上だ。
「赤コーナーは元プロボクサーで、そこそこ期待されていたのが、トラブルを
起こして転身した口。青コーナーは空手の選手で、試合を重ねることで顔面打
撃ありに適応してきていますね」
 中川の解説を聞き、僕も荻原も合点する。が、別の疑問が生まれた。
「これだけの選手を集められて、レフェリングもしっかりしているし、リング
サイドにはドクターも待機している。なのに公にできない地下大会というのは、
何か理由があるんですか」
「無論」
 中川は手帳を取り出しながら言った。
「ギャンブルにも一定のルールがある。それに反した試合が一部、組み込まれ
ているので、地下大会なのですよ」
「ギャンブルのルールに反した……?」
「会場を見渡してご覧なさい。ぽつぽつと、いかにも金持ちって感じの人がい
るでしょう」
 言われた通りにする。なるほど、テント会場には不似合いな、高級そうなス
ーツを着込んだ恰幅のいい中年男が、所々にいる。例外なく、周りには女性を
侍らせ、太鼓持ちのような小男が引っ付いていた。
「格闘技というか喧嘩を観るのが好きで、金を持っている社長を接待する場と
しても機能するんですよ、ここは」
「あの、まだよく分からないんですけど……」
「さっき言ったルールに反した試合というのは、八百長のことです。一つの大
会で十〜十六試合が組まれるが、その内の三割ほどをどちらが何ラウンドでい
かにして勝つかを予め決めておく。社長を誘導して勝つ予定の選手に賭けさせ、
儲けさせることでいい気分に浸らせるというからくりです」
「……もしかして、賄賂?」
 僕が言うと、中川は口にチャックする仕種をした。
「それ以上はやめておきましょう。まあ、日本語だから大丈夫とは思いますが」
「中川さんはどうしてそんなこと、知ってるのさ」
 荻原が聞いた。リング上ではボクサー対空手家が終わり、次の試合に出場す
る選手が入って来たところだ。
「そこはそれ、蛇の道は蛇というやつで。日本では競馬やパチンコの雑誌にも
記事を書いていたんですよ、私。こっちに来てギャンブルについて調べている
と、こういう秘密にも行き当たる」
 中川は手帳を開いた。
「さて、私が仕入れた情報では、この次の次の試合が本日最後の八百長マッチ。
組技、寝技の展開が続いた末に、最終の第三ラウンド、ハイキックが決まって
青コーナーが勝つ台本になっている。――乗りませんか?」
「え?」
「何ラウンドでどちらの選手がKO、ギブアップ、判定のいずれで勝利するか
を的中させれば、全体の賭けがどうなっていようと賭け金は十倍になって戻り
ます。悪くないでしょう」
 八百長が行われていることだけでなく、その内容の詳細まで掴んでいるのか、
この人は。僕は少し恐くなった。
 だが、隣の荻原を見ると、やる気満々といった顔をしている。ここで僕だけ
降りるのも格好悪い。少し迷って、十ドル出す。荻原は何と百ドルだ。
「俺は中川さんを信じた」
 それは別にかまわないが、僕にもっと出せという視線をよこすのはやめてほ
しい。
「土産代の分を回したら余裕だろ」
「冗談じゃない。万が一、すったら……」
「まあまあ。今夜はお試しですから、仕方ありませんよ」
 中川は笑顔で取りなし、それから賭けの窓口に僕らを連れて行った。散々悩
み、迷った振りをした果てに、手帳にあった通り、青コーナーが第三ラウンド
KO勝ちに賭ける。彼に続いて、僕と荻原も同じ買い方をした訳だが、怪しま
れることはなかった。日本人の右に倣え特性は有名とみえる。
「あとは果報は寝て待て状態」
 中川はそう言ったものの、まだ信用し切れていない僕としては、試合を観ず
に済ますなんてできない。食い入るように戦況を見守ることになった。
 対戦する(八百長なら対戦と呼ぶのはおかしいが)二人は両者とも黒人で、
トランクスは黒と焦げ茶、体格も似通っている。赤コーナーがスキンヘッドに
しているおかげで、遠目にも辛うじて見分けられた。
 立ち上がり、両選手はパンチを軽く交錯させたかと思うと、どちらからとも
なく組みに行き、程なくしてグラウンドに移行した。押さえ込みから関節技を
狙いに行ったり、時折打撃を奮ったりと、いかにもそれらしい攻防を繰り広げ
る。
「ね。言った通りでしょう」
「結構、本気っぽく見えますよ。最初の組み合いに行ったところは、ぬるかっ
たけれども……」
「本気に見えるよう、訓練していますからね」
 こともなげに語る中川。格闘技ファンとしては衝撃だ。
「しかし、八百長ならもうちょっと面白くしてもいいのにな」
 荻原が苦笑いを交えて呟いた。
「寝技に終始するのが安全なのは分かるが、それならそれでもっと関節の取り
合いなんかを演じればいいのに」
「八百長だからこそ、無理にでもつまらなくしないといけない」
 中川が言った。
「グラウンドで延々と膠着する方がリアルだ。そう思うでしょう?」
 確かに。プロレスのようにめまぐるしくかつきれいに攻守が入れ替わっては、
総合格闘技的には嘘っぽくなりがちだ。
 試合?は淡々と進み、最終ラウンドを迎えたときには、観客のブーイングが
一際大きくなった。
 そして――観客のストレスが我慢の限界まで溜まる、その頃合いを見計らっ
ていたかのように、青コーナーの選手がハイキックを繰り出し、彼の足の甲が
相手のスキンヘッドを揺らした。
 舞台裏を知らない観客多数が沸く。いや、僕や荻原も歓声を上げていた。そ
れほど見事な決まり具合だった。
 糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる赤コーナーの選手。レフェリーはカ
ウントを取ることなしに試合を止めた。青コーナーの選手が両腕を突き上げ、
勝ち誇る。
「……本物としか思えない」
 スキンヘッドの選手はセコンドの肩を借りてゆっくり立ち上がると、首を傾
げつつ、“勝者”と握手を交わした。そのままひょこひょことした足取りでリ
ングを降り、花道を帰って行く。
「いかがかな」
 得意げな口調は中川。荻原がすぐさま反応した。
「すげえ! すげえ裏情報だよ、中川さんっ。――な、おまえもそう思うだろ」
 同意を求められ、僕はかくかくとうなずいた。
「演技であれだけの動きができるだけでも感心させられた……」
 僕らのそんな様子を面白そうに眺めていた中川は、手のひらを合わせ、きび
すを返した。
「どうやら信用してもらえたようで、嬉しい。とりあえず、混雑しない内に換
金と行きましょうか」

「他の取材が入っているため、日曜開催のRDDには行けない」
 昨日の観戦後に三人でレストランに入り、遅めの夕食を摂っている際に、中
川がこう言い出したとき、僕らは心底がっかりした。それならそうとさっき言
ってくれれば、有り金全部賭けたのに!と。
 だが、続く彼の言葉で安堵できた。
「でも、あなた達には八百長の情報を教えるので、うまく稼いでほしい」
 そうして手渡されたメモが今――日曜の昼過ぎ、ホテルの部屋に帰った僕と
荻原の間のテーブルに置いてある。
「どういう風に賭けるか、だな」
 荻原の言葉に僕は無言で首肯する。中川からの忠告が脳裏をよぎった。
 曰く――目立ってはいけない。裏情報を握っているからと言って、勝ち続け
るなんて以ての外。適度に負けたあと、最後の試合で大きく儲け、勝ち逃げす
るのが一番安全である――と。
「確かに、メインは賭ける人自体が多そうだし、的中させても目立たないよな」
「うん。それにしてもびっくりしたよ。あのダニエル=ホールマンが出るとは」
 ホールマンは日本で開催された第一回プレステージグランプリで優勝し、初
代王者になった強豪だ。やや歳を取り、プレステージのリングでは第一線を退
いた形になっていたが、まさかこんな大会に出て、チャンピオンに君臨してい
たなんて。
「ホールマンはアメリカでも有名だから、賭ける人はますます多いに違いない。
狙い目だぜ、これは」
「だよな。でも……ホールマンが八百長ってだけでもショックなのに、負け役
とはなあ……」
 中川提供の情報によると、ホールマンはフルラウンド戦った末に、判定で敗
れることになっていた。主催者兼胴締めの腹づもりは、新旧交代の図式の演出
らしい。
「そんなこと気にせず、ここはありがたく儲けさせてもらおうぜ。単純な勝ち
負けのみの賭け率で、八倍以上の開きが出たら、ボーナスとして的中者の賭け
金は二十倍になって返されるって言うんだし」
 荻原は興奮して喋っているためか、正確ではない。八倍以上の開きが出て、
不利とされた方が勝った場合の話だ。
「まあ、実際に八倍付くかどうか分からないけど、魅力だね」
「付くさ、絶対! ホールマンはチャンピオンでオリンピックメダリストで、
かつ実績もある。相手は総合格闘技無敗とはいえ、これが四戦目のひょろんと
したキックボクサーというじゃないか。しかも国籍はオランダ。アメリカ人な
らホールマンを応援するに決まってる」
「うん。僕らだって八百長とは知らずに、どちらが勝つか予想しろと言われた
ら、ホールマンと答える」
「二十倍にならなくたって、十倍だぜ。中川さんのアドバイス通り、メインに
大きく賭けて勝つ作戦でいいだろ。それまでに無理に外して小さく負けるなん
て真似も、しなくていいと思う」
「それには賛成する。観客が少なすぎるなんてことがない限り」
 僕らは観光も忘れ、熱を帯びて行った。実際、下手に出歩いて、運悪く強盗
にでも遭って金を奪われたら、元も子もない。
「さて、問題はどのぐらい賭けるか、だけど」
「俺は全部行くぜ」
 荻原の即答に対し、僕は確認を入れる。「全部って、預かった金も含めて?」
「当然だろ。絶対に勝つんだ。元では多いほどいい」
「それはそうだけど」
「何だよ。中川さんのこと、信用してねえの? あの人が俺達に嘘ついたとし
て、どんな得があるっていうのさ」
「いやいや、そういう意味で迷ってるんじゃなくてさ。全額となったら、結構
な大金だよね。それを一度に賭けるのは、さすがに目立つんじゃないかなって」
「そうかな。昨日会場にいた金持ち連中にとっちゃ、はした金クラスだと思う
ぜ」
「だから、ああいういかにも金持ちそうな男が賭けるのなら、誰も疑わないだ
ろうけど、僕らみたいな日本人の若いのが、一万ドル近くも出したらおかしく
思われないかな」
 二人合わせてだいたい百万円ある。強盗・置き引き対策で、珍妙な場所に隠
し持っていた札を、全て取り出したところである。
「大丈夫だろ。日本人はまだまだ金持ちだなって、勝手に納得してくれるさ。
どっちかって言うと、これだけの金を持って会場に入るときと、勝って大金を
持って出るときに用心すべきかもしれないぜ」
 荻原はあくまで楽観的だ。僕は心配するのが馬鹿らしくなってきた。

 大型テントの会場は、昨日にも増して熱気に包まれていた。それも通常の格
闘技イベントとは違う、どことなく飢えたような熱気に。
 試合の進行は順調だった。そう、中川がくれた裏情報と照らし合わせても、
順調だった。
「この入りなら、俺達が大金を賭けても目立たずに済むな」
 開始から時間が経過し、八割方埋まった場内を見回した荻原が、思惑通りと
ばかりに言った。鼻息が荒くなっていることに、本人は気付いていまい。僕自
身、さっき自分で気付いて落ち着こうと意識しているところだ。
「今日はラッキーデーなのかな。八百長じゃない試合も悉く当たった」
 全十二試合が組まれ、八試合が八百長ではない、本当の勝負だ。その内の七
試合が消化された時点で、勝敗だけなら全て予想通りになっている。選手に関
する予備知識はほとんどなく、見た目と格闘技歴のみの判断でこんなに当たる
と、嬉しいのを通り越して気味悪くなる。
「えっと、じゃあ、今やってる試合で……赤が勝ったら、全部当てたことにな
るのか」
 荻原が言い終わらない内に、決着のリングベルが鳴り響いた。赤コーナーの
選手がタックルに来た相手を捉え、一気に首を締め上げて降参させたのである。
「おお、パーフェクト来た!」
「これなら普通に賭けててもよかったかも」
 気味悪さを我慢し、僕は笑ってみせた。このあと、いよいよメインイベント
なのだ。勝手に不安がっていてもしょうがない。
 すでに賭けは済ませてある。二人別々に買って目立つくらいならと、荻原と
一緒に全額を青コーナー、オランダ人選手の判定勝ちに賭けた。さっき窓口を
見に行ったときの情勢なら、二十倍のボーナスも確実だった。およそ二十分後
には、僕らの懐に二千万円が転がり込む。
「儲けの半分ぐらいは、カジノに注ぎ込んでもいいかもな。資金がたんまりあ
るなら、倍々に賭けていって勝てるゲームもある」
「そ、そういう話はあとにしようぜ」
 僕も興奮を隠せなくなっていた。鼻息ばかりか、心臓の鼓動まで荒くなった
気がする。
 それはホールマンの入場で、最高潮に達した。
 日本でも観た選手がその勇姿を現す。応援するみんなの声の大きさは、僕と
荻原との会話が成り立たないほどで、まるで空間に渦が出現したようだ。
 リングインし、両手を挙げて歓声に応えるホールマン。僕は思わず、彼にコ
ールを送りたくなった。が、ぐっとこらえる。ホールマンの負けに賭けている
のに、ホールマンを応援したらおかしいだろう。
 先に登場していたオランダのキックボクサーは色白で、胸毛こそあるが、全
体にほっそりしているせいもあって、強そうじゃない。長い足は腰が軽いイメ
ージにつながり、ホールマンのタックルを食らえば簡単に吹っ飛びそう。
 しかし、“勝つ”のはオランダ人なのだ。
 台本では、初回こそホールマンがそのレスリング技術で圧倒するが、年齢か
ら来るスタミナ切れを起こして失速。一進一退の第二ラウンドを経て、第三ラ
ウンドにダウンを喫する。ホールマンは寝技で反撃をするがとき既に遅く、判
定でオランダ人の勝ち、となっているそうだ。
 セレモニーが進み、タイトルマッチ宣言とリングアナウンサーによる両選手
並びにレフェリーの紹介のあと、一瞬の静寂が降りてきた。そして――試合開
始。
 僕は手に汗握った。試合の行方ではなく、大金の行方を気にして。
 リング上では、ホールマンが早速タックルを試みる。キックボクサーは二度
は逃れたが、三度目はまともに食らい、テイクダウンされる。そのままの状態
で、ホールマンは上から相手の肘関節を狙う動作。オランダ人選手も懸命に防
御し、やがてレフェリーによるブレイクが掛かった。立ち上がる両者。声を張
り上げたり、拍手を送ったりする観衆を横目に、僕は「名演技だな」と感心し
た。
 試合が再開され、ホールマンはタックルを狙うポーズを取る。そこへオラン
ダ人がミドルキックを放つ。ホールマンは左手で蹴り足をキャッチし、無造作
に持ち上げてから振り払った。
 オランダ人選手はバランスを崩し、転倒した。無論、打撃を食らってのダウ
ンではないからノーダメージで、すぐに立ち上がる……はずなのに。
「……あれ?」
 僕と荻原は同時に呟いていた。
 オランダ人が立ち上がらない。最下段のロープに後頭部を載せた格好のまま、
両腕をだらんと伸ばして横たわっている。
 ホールマンが困惑したような表情を見せつつも、攻撃に掛かろうとする。そ
れはそうだろう。ここで攻めなければ怪しまれる。
 が、レフェリーが大きく両腕を広げ、選手の間に割り込んだ。ホールマンに
ニュートラルコーナーでの待機を命じると、倒れたままのオランダ人選手に駆
け寄る。意識の確認や、目を覗き込む仕種をしたかと思うと、レフェリーは突
然大声で叫んだ。
「ドクター!」
 リングサイド、最前列で待機していたドクターが弾かれたように椅子から立
ち、リングに駆け上がった。程なくして、彼の表情が険しくなる。
 直後にドクターの要請で担架が運び込まれる。数人の手により、オランダ人
選手を慎重に担架へと移すと、静かに、しかしなるべく急ぎ足で控え室へと運
んで行った。
 思わぬ成り行きに呆然とする僕の耳に、リングアナウンサーの声が届いた。
「第一ラウンド、二分三十秒。TKOによりホールマン選手の勝ち」
 え? 何だって? そんな馬鹿な!
 簡単な英語だから聞き間違えるはずはないし、リング上で起きたままのこと
がアナウンスされたのだから、解釈を誤りようもない。それでも僕は二度三度
と繰り返されるアナウンスに、耳をそばだてずにはいられなかった。
“アクシデントにより続行不可能となりましたので、この試合はノーコンテス
トとし、賭け金は全額お返しします”
 そんな英語は全く聞こえてこない。

           *           *

 レオナルド=アダムスは、いくらか緊張の表れている中川を見て、からかい
たい気分になった。だが、かつてこの道の大先輩に同じ状況でジョークを言わ
れ、とんちんかんな受け答えをしてしまった過去の自分を思い出し、やめてあ
げようと考え直した。
「ミスター中川」
「はい」
 やはり緊張しているのだろう、中川善男はいつになく生真面目な調子で返事
した。日本人らしいと言えばらしい。
「君の手並みを見させてもらった訳だが……合格だ」
「――ありがとうございます」
 ほんの一瞬、歓喜の表情を覗かせたあと、中川は丁寧に礼を返した。こうい
う男が仲間に加わるのも悪くない。
「念のために確認しておきたいんだが、あれからあと、カモの二人から疑いの
眼を向けられるようなことはないな?」
「もちろん。むしろ、彼らは次のチャンスを待っているようで。『今回は運が
悪かった。アクシデントでオランダ人選手が死んでしまうなんて、中川さんに
も予想できないことだから仕方ない。ただ、次に僕らがアメリカに来たとき、
また裏情報を教えてください』と電話で言ってきたくらいですから」
「格闘技興業を使って、再び彼らをだませるかね? 同じネタは使えないぞ」
 ちょっとしたテストのつもりで聞いたアダムス。中川は考えるふり――恐ら
くふりだ――を少ししたあと、自信ありげに答えた。
「大丈夫でしょう。今度やるとしたら、ありがちだが旅行者には効果抜群の手
法を取り入れる。つまり、興業の途中で偽警官に踏み込ませる」
「『無認可の賭場にいたら問答無用で逮捕される。とにかく逃げろ!』と追い
払い、賭け金をうやむやにする寸法か。結構。ますます気に入った」
 アダムスは自ら中川に近付くと、手を差し出した。固い握手を交わす。
「今日から仲間だ」
 そのとき、部屋のドアを控えめにノックする音があった。
「おう。何だ?」
 アダムスが呼応すると、ドアはノックの音と同様、控えめに開かれた。
「あのー、次の奴が待ちくたびれているようなんですが」
 隙間から顔を出した男は、オランダ人キックボクサーとそっくりであった。
「分かった。呼んでくれ」
 アダムスはそう言うと、中川に向き直った。
「一つのイベントで同時に大勢をテストするアイディアは悪くないと思ったん
だが、結果発表が大変で困るね」

――終

※参考文献
『詐欺師入門』(デヴィッド・W・モラー /山本光伸 訳 光文社)





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