AWC 暗闇の先に        穂波


        
#300/566 ●短編
★タイトル (PRN     )  06/09/25  01:35  ( 88)
暗闇の先に        穂波
★内容
 遠くから鳴り続ける聞きなれた電子音。
 気になってしまえば耳障りで、しかし止める術も思いつかない。ただ丸くなって、や
けに柔らかい布団をかぶる。パリッとしたシーツの感触と、存在感のある枕。ふと、こ
こが自宅ではないことを思い出したが、半ば眠ったままの頭はそれがどうした、と思う
だけだった。
 いったん途切れた音が再開する。兄から貰って五年以上も使っている骨董ケータイの
着信音は、単調な調べを繰り返すだけのくせに、音量だけは大きい。
 無意識に伸ばした腕。指先が冷たく固い何かにふれる。慣れた感触、形状のそれを掴
んで、重いまぶたをこじ開けた。
 いまだ夜明けには遠いのか、視界は暗く、闇の中でケータイのディスプレイだけがう
っすらと明るい。
 夢現のままボタンを押すと耳に当てた。
「はい……」
「切らないで!」
 唐突に、甲高い声が叫んだ。
「切らないで、そのままでいて!」
 切羽詰った女の声。明らかに、不審な状況だった。
 その場で切断ボタンを押せばよかったのだろうが、俺はそのまま声を聞き続けた。
 覚めきっていない頭が回らなかったのも確かだが、女の声にひっかかるものを感じた
のも本当だった。
 尋常ではない、ということではなく、どこかで耳にした声のように思えたのだ。
「切らないで、切らないでね。私、かなこよ」
 かなこ?
 知り合いにその名前がいただろうか。いたような気もするが、寝ぼけているのか顔も
漢字も浮かばない。苗字を聞けばはっきりするかもしれないが、それではわからないと
言っているようなものだろう。
「ああ、切らないから落ち着け」
 答えると、息をのんだ気配が伝わってくる。
 続いて聞こえた声は、先刻よりトーンが落ちていた。
「よかった、ケンが出てくれて」
 ささやくような声は、確かに聞き覚えがあった。ケン、という呼称も俺に当てはま
る。だが、何かどこかがおかしかった。
「最初、ケンにかけたのよ? だけど、出てくれなかったでしょ。その後家にかけても
友達にかけても出てくれないし、たまに出たと思ったらすぐ切れてしまうし、もう誰に
も繋がらないかと思ったわ」
 ほっとしたような、拗ねたような口調。懐かしいのに、どこか痛いような声。
「悪かったな、寝てたんだよ。大体今は夜中だぞ。普通は、寝てる。他の連中もそうだ
と思うぞ」
 俺自身、もう少し早くコールが鳴り止んでいれば、二度目だというこの電話も取らな
かっただろう。
「ああ……そう、ね」
 どこか拍子抜けしたような声。
 小さな笑い声が、耳をくすぐる。好ましい響きだった。
「やだ、おかしいわね私ったら。慌ててしまって、そんなことにも気づかなかった」
「それで、どうしたんだ?」
「……うん、笑わないでくれる?」
「ああ」
「あのね、怖い夢をみたの」
「夢?」
「そう、それであれは夢だって確かめたくて電話をしたのに、誰も出なくて、だからま
すます怖くなってしまって……子どもみたいね、バカだわ、本当に」
 笑い混じりなのに、どこか痛々しい声音だった。俺は壊れ物を扱う気持ちで口を開い
た。
「どんな夢だったんだ?」
 女はわずかに沈黙した。記憶を反芻しているのかもしれない。形のある静けさが伝わ
ってくる。
「……ひとりぼっちの夢。水の中で、私はひとりきり。静かで暗くて、自分の髪が黒く
細くさざめいている。誰もいない、何もいない、冷たくてどこまでも静かで……ケンを
探しているのに、どうしても、見つからなくて」
 俺の脳裏に、白い女が揺れる姿が描かれた。
 水草のようにしなやかな、美しくさびしい姿。ゆらゆらと、視界が揺らいで女の姿が
遠ざかる。
 俺は瞼を閉じて、暗闇の先に話しかけた。
「もう、大丈夫だ……それは、悪い夢だから。俺は、ここにいるだろう?」
「うん」
「俺が保証してやる、もうそんな夢は見ない」
「うん……」
「次はもっと楽しい夢を見ろよ、明るくて賑やかなさ」
「う……ん、そう……ね」
 相槌はゆっくりと、まどろむように途切れがちになる。やわらかく、か細い声。
「なんだ、眠くなったのか?」
「うん……ありがとう。今度は……怖い夢を見ないですみそう」
「ああ」
「ケン……だいす、き……」
「俺も、かなこが好きだよ」
「……う、ん」
 蝶が羽根をたたむように、声が消える。
 通話が途切れたのを確認して、俺は呟いた。
「バカだな、俺は健一じゃなくて、健二だよ」
 兄の彼女だった女の子。
 溺れた兄を探して、帰ってこなかった女の子。
 俺の初恋だった、かなこ――可南子。
 兄貴の遺体は浜に上がったが、可南子は海に沈んだのかとうとう見つからなかった。
俺は可南子と兄貴の五周忌に、二人が泊まったこのホテルに訪れたのだ。
 ケータイを見つめる。不思議と、怖くはなかった。ただ、最後まで健二としては告白
できなかったことが、少しだけ痛くて笑えた。
「ったく、最後まで兄貴のことしか見えてないんだな。今度は、天国で兄貴をちゃんと
捕まえろよ、可南子」





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