#250/566 ●短編
★タイトル (dan ) 04/12/18 07:18 ( 67)
運不運 談知
★内容
もちろん純然たる運不運というのはある。何にも悪いことしてな
いのに、いきなり重い病気にかかるとかいうことはあるだろう。逆
に何でかわからないのにつきまくるということもあると思う。しか
し、そういう純然たる運不運は一生かけてみるとプラスマイナスゼ
ロになるのが普通だ。要するについているときもあればついてない
ときもあるということだ。ある期間ついていても、そのぶんある期
間ついてない。純然たる運不運とはそんなもんだ。一生かけてみれ
ば、結局運不運は同程度の量になる。
それにたいし、そのひとが呼び込んでいる運不運というのがある。
そのひとの言動が運をもたらしたり不運をもたらしたりする。言動
とはすなわちそのひとの性格だといってもいいだろう。要するに、
運をもたらす性格もあり不運をもたらす性格もあるということだ。
実際世の中のひとをみているとずっと幸運が続いているようなひ
ともあり、不運が続くひともある。純然たる運不運は同量だから、
そんなに偏って続くことはありえない。だから運不運をよびよせて
いるものがあるわけだ。
不運が続く人をみていると、こりゃあ運も逃げるよなというひと
が多い。ぐちうらみ不平ばかりいう。人の恨みをかうような言動、
しらけさせるような言動。そんなことを平気でしているようなひと
が運がいいということはありえないだろう。呼び寄せる運というも
のは、基本的にひとが運んでくるものである。そのひとを傷つける
ような言動をしていて、そのひとが運を運んで来てくれるわけない
のである。そんなことしたら、逆に不運を運んでくるかもしれない。
運のいいひとというのは、この逆である。ひとを大切にして間違
っても傷つけるようなことはしない。いうべきことを言わねばなら
ないようなときでも、ちゃんと相手に配慮した物言いをする。恨み
を買うような言動はしない。これは運を運んでもらうひとに対する
基本的な作法である。
運がいいとは不運をさけるということでもある。そのためには注
意深くなければならない。相手の言うこと、相手の行動を注意深く
みている。なぜそのような言動をしているのかよく考えること。そ
うすれば自分がどういう言動をすればいいのかわかるだろう。ひと
に対する言動こそ運不運のもとである。絶対おろそかにしてはなら
ないことだ。
そのほか日常生活でも注意深くあること。これが思いがけぬ不運
に遭遇しないための要点である。たとえば道路を渡るのでも何とな
く渡るのではなく、遠くのクルマ近くのクルマよーくみる。急に曲
がったりするようなクルマがないか、よく注意して渡る。注意せよ、
と意識するだけで、道路での事故などかなり防げると思う。漫然と
暮らしていたら防げないだろうが、ちょっと意識しているだけで防
げる不運もあるのである。大事なのはほんのちょっとの意識である。
まあそうはいっても、ワタシ自身そう意識しまくりの生活を送っ
ているわけでもない。結構漫然と暮らしているほうでもあるのだろ
う。ただ明らかに危険が予想される場面では結構意識して行動して
いる。それだけでも大違いである。
ワタシは幸いなことにあんまり好悪の感情の強いほうではない。
嫌いだからといって無茶なことを言ったりするほうではない。また
あんまり感情的になるほうでもない。だからあんまりひとの恨みを
買ったりしないほうだと思う。その点はもって生まれた性格に感謝
したいね。
ワタシが運不運に関してやっていることのひとつは、余計なとこ
ろで運を使わないということがある。運の神様は道で100円ひろ
うのもひとつの運と勘定するのである。大事な場面での運もひとつ
の運である。100円ひろって運を使ったひとは大事な場面で運が
こないという可能性がある。だから大事なことは余計なところで運
を使わない。使うのは自分の本筋のところ、大事なところで使うべ
きだということである。たとえばパーティの福引きで何か品物が当
たるということがある。当たるとうれしいし、自分は運がいいので
はと思う。確かに運はいいわけだが、その運は福引きに当たるだけ
の運である。そのとき運を使ったことで別のところで運を失ってい
るのである。だから、福引きなどははずれてにこにこしているほう
がいいのである。少なくともワタシはそういう考えで生きてきて、
いままでそう間違ってなかったと思っている。
人生、努力も大事、実力も大事だけれど、それ以上に運も大事な
のである。人生ほとんど運次第ではないかとさえワタシは思う。そ
の運を呼び寄せるには、本当に大事に大事に運を扱わねばならない。
そういう意識のないひとに運がくることはない。そう思う。