AWC 1970年のこんにちは  談知


        
#202/569 ●短編
★タイトル (dan     )  04/10/30  06:22  ( 62)
1970年のこんにちは  談知
★内容
 むかし万博があった。1970年のことだ。場所は大阪の千里丘
陵。こう書いてももうそれをイメージできないひとがほとんどなん
だろな。万博という言葉自体わからないというひとだっているかも
しれない。万博は万国博覧会の略である。世界中のさまざまな国が
自分たちの国のいろんな物品を集めて展示する展覧会である。
 千里丘陵はワタシの地元である。ワタシは千里ニュータウンの団
地に住んでいるのだ。いやそもそも千里ニュータウンに越してきた
のは、万博があるからという理由であった。当時大阪市に住んでい
た私たち一家は、どこかへ引っ越しをしなければならなくなった。
候補はふたつあった。枚方の団地と千里ニュータウンの団地である。
当時小学校6年生だったワタシは千里ニュータウンを押した。理由
はもうすく万博があるので、それをみるのに便利だからというもの
だった。子供の考えることである。そんな単純なことでワタシはそ
れを主張したわけだ。どういうことかそれが通った。私たち一家は
千里ニュータウンに越してきた。
 万博があったのは、それから3、4年後である。つまりそんな前
から小学生の子供にまで知られていて、そのことを理由に引っ越し
したいと思うほど大きなイベントだったわけだ。折しも高度成長の
真っ最中である。世間も私たちもわっしょいわっしょいという熱気
のなかにあった。そんななかで万博は開催された。まさにあれは、
そんななかでしかできないような規模の展覧会であった。
 あれはたしか4月から開催されて10月くらいまでやっていたの
だろうか。8月の夏休みにはいるくらいまではあんまり混んではい
なかったと思う。しかしワタシはその混んでない時期には行ってな
いのだよな。地元だけにいつでもいけるという気持ちでつい行くの
が遅れた。8月になって行ってみたら、すでに会場は大混雑で、大
きなパビリオンは2時間待ち3時間待ちという状態だった。やむお
えずワタシはアフリカとかアジアの小さなパビリオンに入ってみた
りした。だからワタシはアメリカ館にも日本館にも入ってない。大
きなところでは三菱未来館に入ったくらいだろうか。それも2時間
くらい待って入ったはずである。
 アメリカ館なんか月の石ひとつ飾ってあるだけで3時間待ち4時
間待ちである。ひとびとは石ひとつみるために何時間も待って入っ
たのである。何というか一種異様な熱気のなかでしかあり得ないよ
うなことだな。
 結局半年間の開催で六千万のひとびとがやって来た。日本の人口
の半分のひとがこの狭い千里丘陵の万博会場にやって来たのである。
今思うと驚異的なことだな。
 パビリオンといっても所詮半年持てばいいということで建てられ
ている建物である。本来は相当ちゃちなものである。でもそれが数
多く建てられているとすごい迫力になる。その規模に圧倒されて感
動してしまう。それ以後の博覧会がいまいちさえないのは、規模が
小さいからである。本来ちゃちなものが少ししかないのでは、どう
してもちゃちさが強調されてしまう。みすぼらしがめだってしまう。
あれほどの規模でやったから万博なのである。
 それ以後も科学博覧会とか花と緑の博覧会とか海洋博とか、いろ
いろあったが、ワタシにとって万博といえば、この1970年の万
博以外ない。おりしもワタシは高校1年生。16歳である。一番記
憶がいいときである。だからこの万博はワタシの頭のなかにしっか
り焼き付いている。今でも思い出せばあの熱気あふれる情景がぱっ
とでてくる。ワタシの青春の、いや日本の青春の熱い瞬間だった。
 そんなワタシが驚くのは、万博を知らない世代が出てきたことだ
った。大人になって万博を知らない世代と出会った。え、あの万博
を知らないの。ワタシは驚きで息がとまる。あれだけのイベントを
知らない。何だか理解できないひとにあったような気分である。そ
してさらに年を取り、ある女性と話をしていて万博の話になり、彼
女が万博のときにはまだ生まれてなかってことを知る。ええ、とい
う驚き。このときほど自分が年を取ったと思ったことはなかった。
 今でも鮮明に思い出せる万博。ワタシの魂に焼き付いている万博。
しかし、あれからもう35年もたっているんだね。すべては過去の
ものとなってしまった。信じられない思い。ワタシにはついこの前
のことのように思えるのだが。





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