#57/569 ●短編
★タイトル (ALN ) 03/02/04 01:12 ( 93)
範子 弥勒
★内容 03/02/05 10:39 修正 第2版
冬だと云うのに、春先の様に暖かい雨の降る日の午後の事でした。
何をするでも無く時の流れに任せて居ると、表の方で遠い昔に聞き覚えの在る声
がします。
声の主が覚えの在る人で在れば、やがて襖を開けて入って来るだろうと、そのま
ま耳をすませて居ましたが、その人の気配は私の予想に反して、一向に動こうとは
しないようです。
物憂いでも無く、特別に訝しく感じるでも無く、玄関まで出向いて行くと、硝子
の引き違い戸の外に人影が見えます。
その人影を見て、初めて私は脈の鼓動が微かに揺れ動いた様にも思いましたが、
かと云って、特別な驚きと云う程の起伏でも在りませんでした。
静かに内から戸を引き開けると、その婦人は、ガラス戸越しの朧な輪郭から、確
かな姿へと変わりました。
淡い花模様の傘を片手に持ち、一方の手には、手提げのような鞄を持ち、その手
首には、三歳になるかならないか位の女の子がぶら下がるようにしてしがみついて
居ました。
一言も声に出さず、微かに笑みを浮かべたまま見つめる眼差しは、間違いなく覚
えの在るものでした。
何時もかかえて居た編み物篭の中の毛玉や小説が、子供の物が入って居るのだろ
うと思われる手提げに変わって居る他は、何処も何も変わらないと思いました。
いや、これ程にまで変わって居れば、何処も何も変わりない等とは冗談にも云え
る事ではないのでしょうが、眼の前に立って居る範子は、本当に、あのころと少し
も変わって居なかったのです。
範子の姿を見なくなってから、五年、いや、六年は経つでしょうか。
私が黙ったまま頷くと、範子も何も云わないまま微かに頷きました。
私は何も云わないまま、ゆっくりと部屋へとって返しました。
範子は玄関の引き戸を閉めると、小さな子供の靴を先に脱がせてやり、それから
自分も靴を脱いで、静かに後をついて来ました。
私は範子の為にお茶を入れてやり、子供の為に牛乳を温めて砂糖を溶かしてやり
ました。
私が自分の湯飲みに白湯を入れて座り直すと、其れまで懐かしそうに部屋を眺め
て居た範子が、少し淋しそうに顔を曇らせるのが分かりました。
聞かれるでも無く、私は、もう何年も何も書いて居ない事を話しましたが、改め
て話す迄の事でも在りません。
あのころ毎日の様に私の部屋に通い続けて居た範子には、私の部屋を一目見ただ
けで、私が物を書くことを止めて居る事くらい直に分かったに違い在りません。
少し強く降り始めた雨音に、暫くは外の気配に気をやり、取り直した様に、結婚
したのかと範子に尋ねて見ましたが、範子は何も応えず、ただ静かに子供に微笑み
かけて居るばかりでしたが、その気配からは、決して仕合わせな身の上では無い物
が感じられました。
かと云って、その仕合わせに見えない事が範子を陰らせるでも無く、範子もまた、
回りに映る仕合わせには見えない境遇を意識する様子も在りません。
私はそれ以上は何も聞かず、範子の膝の回りで恥ずかしそうに甘える子供に微笑
みかけてやりました。
すると、その子供もまた一層照れくさそうに微笑んだ後、まじまじと私の顔を眺
めて居ましたが、やがて、子供らしく直に飽きて仕舞い、また、範子の膝の上に寄
りかかったり、手にすがりついたりと甘え始めるのです。
相変わらず、何を話すでも無く、ただ時間の過ぎるままに何度目かのお茶を入れ
てやる頃には辺りも暮れ始めて居たようです。
範子は、また来ても良いかと尋ね、私は黙ったまま頷き、ついには、範子の連れ
て来た子供の名前も聞かぬまま、未だ雨の上がらない冬の夕闇の中へと消えて行き
ました。
待つでも無く訪れ、引き留めるでも無く帰り、遠い昔にもそんな日々が何年か続
いた様に思い浮かびます。
遠い昔よりも未だ未だ遠い、まるで生まれて来る前の事の様な気もしますが、い
つの間にか来なくなった範子を置き去りにしたまま、引き留めるでも無く六年の歳
月が流れ、待つでも無く訪れた範子は、またあのころの様に帰って行きましたが、
それっきり、今度は二度と訪ねて来る事も無くなりました。
今は、私が訪ねて行ってやらなくては、範子は決して何処にも行くことは出来な
いのです。
考えようによっては、生身の私よりも遙かに自由に望むままに往来をして居るの
かも知れませんが、私が範子に逢いたいと思えば、範子の眠るあの町まで出かけて
行くしか無いのです。
範子が初めて訪ねて来てくれたあの日も、まるで春先の様に暖かい雨の日でした。
− 完 −