AWC 私はこういうのが怖いと思う    時 貴斗


        
#31/569 ●短編
★タイトル (acl     )  02/09/03  22:17  (353)
私はこういうのが怖いと思う    時 貴斗
★内容
  序

 幽霊を見た人は少ない。多くの人にとって、たぶん一生体験しないこ
とだ。だから、そういう話を耳にしても、どこか他人事であるかのよう
な、輪の外側にいて、安心して聞いていられるようなところがあるので
はないだろうか。
 怖い話といえば幽霊の目撃談であり、テレビでしょっちゅうやってい
るので、慣れてしまう。本もたくさん出版されている。創作ではなく、
実際に体験したことなので仕方がないのだが、似たようなパターンが多
い。
 そこで――というわけでもないのだろうが、新しいタイプが出てくる。
『本棚とタンスのわずかな隙間に、幅が数センチの幽霊がいた』、『生前
に撮った娘の写真に怪しい光が写っていた。お寺に持っていくと住職か
ら、「残念ですが、娘さんは地獄に落ちました」と言われた』
 といったものが、私は目新しいと思う。しかし体験した芸能人が別の
番組で同じ話をすると、あるいはネットワーク上で同じ話を見かけると、
本人には大変申し訳ないが、「またか」と思ってしまう。
 もちろん、いわゆる幽霊以外にも恐怖談はある。妖怪、ドッペルゲン
ガー、正夢、ポルターガイスト等々。しかしこれらは、幽霊よりもさら
に現実味がとぼしく、怖いというよりむしろ不思議な話だろう。
 後ろから肩をとんとんと叩かれ、振り返ってみると誰もいない、とい
うのが昔、私は恐ろしかった。夜、一人で机に向かっている時、自分が
そんな目にあったらどうしよう、と思っていた。子供の頃は、素直に怖
がることができたのだ。今は、幻覚は目に見えるまぼろしだけを言って
いるのではなく、五感すべてに起こりうることを知っている。
 なんでも、人がもっとも恐怖を感じる方向は後ろ、次は側面、その次
が前なのだそうだ。人間は見えないものを恐れる性質を持っているらし
い。私が背後から肩を叩かれるのを特別に怖く感じたのは、そういった
要因があったせいではないか、などと思う。
 幽霊目撃談の大半は幻覚かデマ。心霊写真の多くは作り物、カメラの
機構によるもの、あるいは錯覚。人間の脳には物の形を簡略化して覚え
ている細胞があり、例えばフェイスマークを初めて見た人が、何の説明
も受けなくてもそれが顔を表していると分かるのは、その細胞の働きに
よるものだ。だから木や岩のちょっとした模様が顔面に見える。
 そういう事を学習すればするほど、興ざめしてしまう。子供の頃は知
らなかったのだ。
 なお、私は心霊現象のすべてを否定するものではない。幽霊は存在す
る、あるいはしないと、完璧に証明できる人などいないのだ。
 テレビの恐怖番組を見ると、司会者もゲストもみんな心底ぞっとして
いるようにみえる。しかし、子供じゃあるまいし、あんなに怖がるはず
がない。あれは仕事だからそうしているのだ、などと考えてしまう。
 私にはむしろ、自分の身にも起こり得ることの方が怖いと思える。確
率は低いにしても。


  日常の向こう側

「東京は晴れ時々曇り。蒸し暑い一日となるでしょう」
 日曜日、遅く起きた私は、トーストにバターとジャムを塗りながら天
気予報を見ていた。焼きたてのソーセージにソースをかけ、アイスコー
ヒーにミルクをたっぷりと注ぐ。平日ではこんな事をしている余裕はな
い。休みの朝の、ささやかな贅沢だ。
 私はチャンネルを変えた。バラエティー番組で、お笑い芸人がバカな
事を言っている。パンをかじりながら新聞を取り上げ、テレビ欄を読む。
だが、見るものはたいてい決まっている。何か変わったものをやってい
ないだろうか。日曜はいわゆる長寿番組というやつが多い。きっと、み
んな出かけているから、激しい視聴率競争などないのだろう。だからど
うということもないものが長生きする。ところが、見るとこれがなかな
か飽きないのだ。オーソドックスで、出演者も視聴者も肩肘張らなくて
いい。ものすごく面白いわけでもないが、さりとて退屈でもない。おや
つに例えていえば、ピーナッツだ。
 朝食が終わったので、食器を流し台に持っていく。たわしを水で濡ら
し、中性洗剤を数滴かけ、もむと、みるみるうちに泡がたってくる。
 さて、今日は何をしようか。現在、恋人はいない。友人とはこの間ゴ
ルフに行ったばかりだ。一人でドライブでもするか。いや、日曜日は混
んでいるし。
 後片付けが終わったので、歯を磨く。さらに万全を期すために、洗浄
液で口をすすぐ。
 テレビの前に戻り、タバコを吸う。
 インターネットでもしていようか。ほぼ毎日見ているサイトが二、三
ある。それ以外でいいコンテンツにめぐり合えることは、そんなにない。
アマチュアが書いた小説を読み、アマチュアが描いた絵を鑑賞し、アマ
チュアが作ったフリーソフトをダウンロードする。たいていは、暇つぶ
しにしかならない。それほど貧乏でもないので、金を払ってプロが作っ
たものを買った方が良い。
 もちろん、プロフェッショナルが設けているホームページもある。例
えば、お医者さんが解説をしているサイトがそうだ。しかし、自分が病
気か、または作家でもない限り、そういう情報を積極的に収集する意義
があるだろうか。
 こうして、時間は過ぎていく。結局は、いつもと同じようにテレビを
だらだらと見て過ごす。しかし、それが休日の醍醐味ではないだろうか。
やるべき事柄をリストし、優先順位をつけてこなしていくのは、平日だ
けでいい。
 お昼になった。飯は用意していないので、買ってくるか外で食うかど
っちかだ。久しぶりにうまいラーメンを食べたい。私は財布を持って出
かけた。
 駅前の店で味噌ラーメンを食った。大きなチャーシューがのったやつ
だ。
 さてどうしようか。本屋にでも行ってみるか。切符を買い、電車に乗
る。いつも混んでいるが、休日の今頃だと楽にすわれる。窓から見える
風景も明るい。平日だと朝か夜なので、自分だけでなく景色までくたび
れている。
 人並みに押し出されることもなく、悠々と降り、改札を出る。
 二、三分歩いて、本屋に入った。大きくて、欲しいものはたいてい手
に入るので、私はこの書店が好きだ。まず一階でミステリーを物色する。
残念ながら、いいのはなかった。専門書には興味がない。漫画を売って
いる四階には入りづらい歳になった。そこで私は、文庫本がある三階に
行った。だいぶ迷って、結局ヒューゴ、ネビュラ賞をとっているSFを
買った。
 しばらくその辺をほっつき歩いてみようかとも思ったが、他にするこ
ともないので、電車に乗った。帰りもすわれた。せっかく出かけたのに、
特に目新しい事もなかったな、などと思う。さて、晩飯は何にしようか
な。
 ホームに降りる。自動販売機の前で、親父が何か飲んでいる。黒い色
なので、たぶん缶コーヒーだろう。自分ももう親父と呼ばれてもおかし
くない年齢だな。
 階段の前に来た。私は、日曜だというのに背広姿の男の後ろに着いて
歩く。大変だなあ。まあ、私も休日出勤は時々あるので、他人事ではな
い。
 二段目に足をおろそうとした時、異変が起こった。
「うあっとと」
 私は前にいる男の背中に手をついた。心臓が口から飛び出そうな感覚
が私を襲った。周りの景色が混濁した。私は転がった。まるで映画の階
段落ちのように見事に。
 体中を打ちつけた。痛い。
「ううっ」という私のうめき声は、男の絶叫によってかき消された。
 私は男にのしかかるような格好で倒れていた。
 見ると、自分の親指が彼の左目に突き刺さっていた。


  ムカデ

 俺の部屋は汚い。ひどく散らかっている。で、片付けもせず何をやっ
ているかというと、テレビゲームだ。ふと、目の隅に何か動くものを感
じた。畳の上だ。俺は首をねじった。本が散乱している。主に漫画だが。
 ゴキブリだろうか。部屋の端にあるゴキブリとりの箱は、もう一ヶ月
近く取り替えてない。中がどうなっているかなど想像したくもない。
 何もいない。おかしいな。気のせいだろうか。
 俺は再び街の人々に話しかける作業に没頭した。なかなかラーマの鍵
に関する情報が集まらない。いけない。このおじいさんにはさっきも同
じ事を聞いた。なんだか同じ所ばかりうろついている気がする。
 机の上の置時計を見る。もう夜中の二時を過ぎている。今夏休みだし、
バイトもしていないので、構わないのだ。高校の時はこうはいかなかっ
た。一人暮らしはのん気でいい。
 ん?
 俺はヘッドフォンをはずし、辺りを見回した。今確かに、サササとい
う音が聞こえた。だがどこも変わった所はない。
 再びゲームの美しい調べを聴く。ノイズだろうか。いや、もう聞こえ
ない。それとも隣人が壁に何かしているのか。カレンダーを貼るとか。
 店に入る。新しい武器や防具が入荷していないだろうか。残念ながら
そうはいかなかった。やはり、ラーマの鍵を手に入れない限りもう何も
起こらないのだろう。
 明日、沙織を誘って映画でも見に行くか。それともやっぱ、パチンコ
か? 久しぶりに浜っちょ達とマージャンでもするか。
 俺は身を固くした。またあの音だ。俺は振り返った。代数幾何の本の
下から、細長い生き物が身をうねらせながら這い出してきた。背筋に悪
寒が走った。
 ムカデだ。
 毎年夏になると、小さい奴をみかける。だがこいつは大きい。どうし
よう。漫画で叩き潰そうか。だめだ、恐ろしくてできない。殺虫剤がど
こかにあったはずだ。ゴキブリ用ではない。ちびを退治するために買っ
たものだ。
 俺はヘッドフォンを床に放り、立ち上がった。虫は週刊テレビ雑誌の
下に入り込んだ。ずっと注視しているわけにはいかない。薬を探すため
にはどうしても目を離さなければならない。
 小物入れ、CDケースの裏、食器棚、どこにもない。俺は探した。引
き出しの中、冷蔵庫の上。
 本棚の上から二段目に、それはあった。
 数秒間躊躇し、思い切ってテレビ雑誌をはぐった。だが、すでに移動
した後だった。俺は本を一冊一冊持ち上げ、確認していった。まるでエ
イリアンの赤ちゃんを探すかのように、おそるおそる。
 パジャマ、菓子の袋、ゲーム機、ボストンバッグ、ティッシュの箱、
様々な物の下を確かめた。いない、ムカデがいない。
 結局二時間かけて、俺は部屋を整理整頓した。そのままだと、奴がど
こかに潜んでいるので安心できない。しかし、すっかり片付けたのに見
つけることはできなかった。きっと押入れの奥にでも行ってしまったの
だろう。なにしろこんな時間だ。奴はもう寝ちまったに違いない。
 俺は布団を敷き、用心のため枕元に殺虫剤を置き、電気を消してもぐ
りこんだ。とても心配だったが、疲れたせいだろうか。すぐに眠り込ん
だ。
 次の日、俺はパチンコし、浜っちょ達とドライブし、夜はマージャン
でおおいに盛り上がった。
 その次の日、俺は沙織とデートした。夜はアルバイト情報誌と漫画を
読みふけった。ムカデはどこかに行ってしまったらしい。俺ん家、もう
一ヶ月以上掃除機かけてないからな。住み心地が悪かったのだろう。
 翌朝、十一時過ぎに目が覚めた。いかんな。昼夜が逆転してしまう。
それもまた学生の特権か。俺はもそもそと布団から這い出した。別にも
っと寝ててもいいんだけどな。
 ユニットバスに入り、鏡に映った呆けた顔をながめる。こうしてつま
らないサラリーマンになり、平凡な家庭を作り、どうということもない
爺さんになっていくんだろうな。俺は歯ブラシを口に突っ込んだ。バイ
ト、何にしようかな。またコンビニでいいか。家庭教師とか、やってみ
ようかな。面倒くさそうだな。
 顔を洗う。水が生ぬるい。クーラー全快にして、ウーロン茶でも飲も
う。氷をたっぷり入れて。
 海辺でかき氷売るのもいいかも。そういうのって、面白いのかな。
 俺はタオルで顔をふいた。
「ああっ、あ!」
 ほお骨の辺りに細い針が刺さり、ぬるりと抜けた。


  金縛り

「ただいま」
「あらお帰りなさい。今日は早かったのね」
 いつも残業なので、たまに早く帰ると珍しいようだ。
「いや、今朝会社に行く途中で、転んでしまってね。頭を打って、痛い
ので帰って来た」
「まあ、大丈夫なの?」
「まだちょっと、首が痛いんだ」
 顔をしかめながらそう言うと、洋服ダンスがある部屋に行って、鞄を
畳の上に置き、背広の上着を脱いだ。
「どこで転んだの?」妻が背後から声をかける。
「郵便局の前だよ」
 バス停に行く途中に、郵便局がある。入り口の前がタイル敷きになっ
ていて、歩道に行きかう人々を避けて、その上を通ったら転んだのだ。
まるでコントで、バナナの皮を踏んだかのようにつるりと。
「今までずっと我慢していたの? 早退すればいいのに」
 大げさな、と私は思う。
「なに、少し痛むだけさ。気にする事はない」
 パジャマに着替え終わり、台所に行って食卓につく。平日に妻と二人
で飯を食うのは何ヶ月ぶりだろうか。娘と息子は正月まで帰ってこない。
「お薬つけた方がいいんじゃない?」
「会社で処置してもらったさ。見れば分かるだろう」
 私は首に貼られたシップを指差した。
 妻は料理を温めなおすために、ガスコンロに火をつける。私はテレビ
を見ながら待つ。味噌汁のいい匂いがしてきた。
「お母さん、ビール」
「ああ、はいはい」
 私の前に五百ミリリットルの缶ビールと、コップが置かれる。泡がき
れいにたつようにゆっくりとつぎ、飲んだ。のどを通る冷たい感触が、
暑さを癒した。
 料理が並んだ。今日はカボチャの煮物と、アジの塩焼きと、あさりの
味噌汁だ。
「タロがね」
「ああ?」
「姉さんとこの犬がね、元気がないって」
 義姉の家の犬か。そういえばもう何年も飼っている。
「歳じゃないのか? それとも、具合が悪いのかな」
 そんな他愛もない話をしているうちに、二人きりのわびしい食事は終
わった。私は風呂に入った。温まると、首の痛みは治っていった。明日
からまた残業だ。
 上がって、妻にもう一本ビールを注文し、居間でテレビを見ながらす
るめを食う。こうして平凡な一日が過ぎていく。
 十一時になったので床につく。妻はふすまに隔てられた隣の部屋に寝
る。
 だが、今日に限ってなかなか寝つけない。明日中に片付けなければな
らない仕事はあっただろうか。いや。作っている資料は来週の頭までに
できればいいし、部内会議はあさってだ。
 では、暑さのせいだろうか。エアコンは妻が使っている。だが、都心
と違い、郊外のここでは夜気がひんやりとしている。
 寝返りをうつ。網戸の向こうで、虫が鳴いている。扇風機の風が、足
から頭へ、そしてまた足へと往復している。眠れない。
 再び寝返りをうつ。まぶたが自然に開く。外の電灯が、室内をうっす
らと照らしている。机の上に読みかけの本がある。これで、少し時間を
つぶそうか。とは言うものの、そんな気にはなれない。高校の時は、お
もしろい物語があると、遅くまで起きていたものだ。昔の話だ。
 上を向き、天井を見つめる。娘はどうしているだろう。孝雄君とはう
まくいっているのか。
 動いているうちに、ふとんがずれた。端をつかもうとした時、異変に
気づいた。おや? おかしいな。腕が動かない。右も、左も。足もだめ
だ。いったい、どうしたというのだろう。
 右手に力をこめる。しかし、指さえも動かなかった。これは、ひょっ
として、金縛りというやつだろうか。こんなことは生まれて初めてだ。
 周囲を見る。が、怪しいものはない。女がじっとにらんでいたりした
ら、気絶しそうだ。途端に、こめかみに汗がつたった。早く解けてくれ、
と私は願った。こんな薄気味悪いのはたまらない。
 いくら頑張っても、体は硬直したままだ。頭だけはなんとか動くので、
とにかくあちこちに目を向けた。机の脚、畳、壁、天井、どこも変わっ
た所はない。だが、暗く、よく見えないことが、私を不安にさせる。
 声は出るだろうか。
「お、い」
 助かった。金縛りになったら、しゃべれないものだと聞いていた。
「おい」
 もっと大きく、言った。無論、妻を呼んでいるのだ。
「おおい!」
 私は怒鳴った。少し遅れて、ふすまの向こうからがさごそと音が聞こ
えた。
「どうしたの?」しかめ面をした妻が出てきた。
「体が、動かない」
「ええ?」
「どうやら、金縛りらしい」
「ええ?」同じ言葉を、今度は半笑いで言った。
「本当なんだ。とにかく、電気をつけてくれ」
 部屋が明るくなった。光によって霊は退散したかというとそうでもな
く、手足は微動だにしない。
「お父さん、大丈夫?」
「ああ、でも、気味が悪い」
「おじいちゃんのお墓参りに行かなかったからかしら。ほら、去年参ら
なかったし、今年もまだ」
「夏休みがとれたら行くさ。しかし、親父がそのくらいのことで祟ると
は思えない」
 父は気丈な人間だった。毎日工場で重い荷物を運んでいた。父が愚痴
や文句を言うのを、聞いたことがない。
「それじゃきっと、疲れているのよ。ほら、頭は起きてるのに、体は寝
ているっていう」
「ああ、この間テレビでやっていたな」
 妻としばらく話した。だが金縛りは解けない。
「お酒持ってきましょうか。飲んだら眠れるかも」
「いや、いらない。しゃべっていたらだいぶ気が楽になった。もう大丈
夫だから、寝なさい」
 電気が消され、妻が出て行く。実際には大丈夫ではなかった。
 まてよ、と私は思う。今朝ころんだが、誰かに押されなかったか? そ
んな事はない。タイルがつるつるだったので、すべっただけだ。人にさ
わられたような感触はなかった。
 本当にそうだろうか。もしあの時すでに、憑かれていたとしたら。
 眠れず、不気味な想像が次々に湧いて出る。あの郵便局で、過去にな
にか不幸なことがあったのではないか。足首をつかまれなかっただろう
か。いや、自然にころんだのだ。
 とにかくリラックスしようと努めたり、逆になんとかして動こうと力
を入れてみたりした。何度も壁掛け時計に目をやる。悶々とした状態で、
時間はゆっくりと過ぎていく。
 三時すぎ、ついに私は耐え切れなくなった。
「おおい、お母さん」
 ふすまが開き、妻が入ってきた。眠そうな顔をしている。
「怖くてたまらん。どうすればいい」
「まだ解けないの?」
「今、お坊さんを呼ぶことはできないか」
「まあ、困ったわねえ」
 妻は考え込んでいたが、やがて言った。
「救急車を呼びましょう」
「えっ、しかし」
「だって、こんなに長い時間金縛りが解けないなんて。どっか体の調子
がおかしいのよ」
 妻はすっとんでいった。電話している声が聞こえる。そんな。朝にな
れば、すっかり元通りになるのではないか? しかし、金縛りというの
がいったいどのくらい続くものなのか分からない。これほど長い時間解
けないのは、確かに体の異常だという気もする。しばらくして救急車の
サイレンが聞こえてきた。それが家の前を通り過ぎず、音が止まるのは、
ひどく嫌な、心臓が縮むような気分だった。私は担架にのせられ、病院
に運ばれた。こんな真夜中に。霊に対する恐怖とは別の不安が、急速に
胸の内にふくらんできた。
 病院に着き、どこか陰鬱な、緑色のカーテンで仕切られた部屋に運ば
れた。私は担架から小さなベッドに移された。
「どうしました?」と若い医者が言った。
「体が全然動かないんです。もう四時間も」
 私が口を開くより早く、妻が答えた。
「どこか痛いところはありますか?」
「ええ、首が少し痛いです」今度は私が言った。「今朝ころんでしまって。
ほとんど治っているんですが」
 私は一人用の病室に移された。明日診察するのでとにかく寝るように
言われ、眠れないと訴えると注射をうたれた。
 目が覚めるとすっかり明るくなっていた。朝食は犬の餌かと思うよう
な質素なものだった。それから一時間もたって、やっと医師が現れた。
聴診器を胸に当てられると、冷たかった。首を触診された時、「あっつ」
と思わず声をあげてしまった。
「痛みますか?」
「はい」
 それから点滴をうたれ、レントゲンやその他の様々な検査を受けた。
とにかく、一つの事が終わって次が始まるまでやたらと待たされる。横
にすわっている妻とはしゃべる話題もなく、やたらと心配そうな顔をさ
れる。昼が近くなる頃には気分的にすっかり疲れていた。
 妻が医師に呼ばれた。私は落ち着かず、帰ってくるのを待った。
 驚いたことに、戻ってきた妻の顔は涙で濡れていた。
「お父さん」とだけ言って泣き崩れる。
「おい、どうしたんだ。泣いてちゃ分からないじゃないか」
「あのね、それが」再び嗚咽する。
「言ってくれ。どうだったんだ」
 妻は顔を上げた。
「頚髄損傷で、もう首から下が動かないって!」


<了>





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