AWC 木陰に臥して枝を折る 1   永山


        
#415/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  12/09/24  23:19  (453)
木陰に臥して枝を折る 1   永山
★内容
 六本木真由(ろっぽんぎまゆ)は不意に届いた嬌声に眉を寄せた。水飛沫の
音に混じって、若い女性特有の甲高い声が連続して聞こえる。
 河原にあった大きな石に腰掛け、スケッチブックに水彩画を描いていた六本
木は筆を止め、ベレー帽を片手で押さえながら音の方を振り向いた。絵の邪魔
をした音の源の正体を目で確かめる。制服姿の女子生徒――多分、高校生――
数名が裸足になり、水に足首まで浸かってはしゃいでいた。距離にして五メー
トルほど。なまめかしく聞こえた声は、実のところ、ふざけてじゃれ合い、た
またま出た悲鳴だったらしい。
(どこの学校だろう。七日市学園ではないようだけれど)
 自分の通う高校を思い浮かべる六本木。他の学校に関する知識、というより
も関心は全く持っていない。もし同じ学校で同学年なら、注意すれば少しは静
かにしてもらえるだろうかと考えただけ。たとえ顔見知り相手でも、六本木の
性格では注意を実行に移しはしないが。
(慣れている。天下は皆のものだし)
 気にするのをやめ、再び筆を動かそうとした刹那、突風が吹いた。彼女の頭
に載っていた帽子が、見えない手ですくい取られたかのように飛ばされる。幸
い、川に落ちることはなかったが、縦になったベレー帽は、河原を転々と転が
っていく。女子高生達がいるのとは逆方向だ。
 仕方がないと、またも筆を置き、立ち上がると、六本木は帽子を追い掛けた。
大小様々なつるんとした石が敷き詰められたように広がる河原は、走るには適
さない。ましてや、六本木は運動全般、得意ではない。さらに風がなかなかや
まなかったせいもあって、長々と追い掛ける羽目になった。
 十五メートルばかり走ってようやく追い付く。ベレー帽を手に取り、はたき
ながら向き直って元の方へ歩き出そうとしたそのとき、六本木真由は予想外の
シーンを見せられ、一瞬ぽかんとした。
 何があったのか分からないけれども、川縁をこちら向きに走っていた女子高
生グループの一人が、足をふらつかせた。あろうことか、六本木が絵を描いて
いた場所のすぐそばで。
 その高校生は最初にパレットを踏み、続いてその足でスケッチブックの上も
踏んだ。
「ああっ」
 さすがに声が出た。急いで駆け寄る。絵の具を踏んだ人以外の面々は何が起
きたか分かっていないようで、六本木とすれ違って行ってしまった。
「ご、ごめん」
 問題の女子高生は、汚れた右足を気にする様子もなく、手を拝み合わせて六
本木に謝罪してきた。
「……」
 しゃがんで状況を見る六本木。スケッチブックは幸いと云っていいのか、強
風でめくれて、描きかけの絵自体は踏まれていなかった。白紙に黄色い足跡が
くっきり着いている。パレットの方も、踏まれた割にはひび一つ入ることなく、
無事らしい。
「大丈夫みたい」
 下を向いたまま云うと、相手は同じようにしゃがんだ。
「本当? 何ともない?」
「うん。紙一枚分ならどうってことない」
「あとで弁償とか云われても、困るからね」
「そこまで云うのなら、連絡先を聞いてもいいですけれど」
 六本木は冗談のつもりだったのだが、通じなかったようだ。女子高生は生徒
手帳を取り出すと、急いだ様子で書き付けた。そのページを破り、六本木に手
渡す。
「これが私の名前と家の電話番号。あ、嘘じゃないって証拠に」
 仕舞いかけた生徒手帳を開き、顔写真入りのページを見せてきた。
「ね」
「分かりました。わざわざどうも。六本木真由と云います」
「ほんと、ごめんね。鬼ごっこみたいなことしてたんだけど、風で目に砂が入
っちゃって……次からは気を付けるわ」
「はい。あたしも人のことは云えませんが、風には気を付けるとしましょう」
 六本木が云うと、今度はその冗談が通じたらしく、相手もくすっと笑った。
 彼女が足を川の水で洗い、立ち去ったあと、六本木はスケッチブックの足跡
をしげしげと見つめた。
「これはこれでユニークかも」

           *           *

 夏休みを目前にして、僕――百田充(ももたみつる)は浮かれていたことを
認めねばならない。
 八月に入れば、音無亜有香(おとなしあゆか)の別荘に泊まりがけで遊びに
行ける。尤も、先輩で名探偵の十文字龍太郎(じゅうもんじりゅうたろう)の
御供――ワトソン役――という形ではあるが。音無は何度か十文字先輩の世話
になっており、そのお礼にと先輩を招待したのだ。背景はどうあれ、好きな異
性の同級生に招かれたのは事実だし、心弾む。
 いつも纏わり付く一ノ瀬和葉(いちのせかずは)が不在なのも、ラッキーと
云える。一ノ瀬はハワイで開かれるコンピュータ関連の学会に顔を出すとかで、
七月末には出発予定らしい。
 一ノ瀬は十文字先輩の探偵活動に貢献すること大であるため、先輩も同行を
希望していたのだが、変更は無理だったようだ。一ノ瀬自身、非常に残念がっ
ていて、「冬休みに招いてよん」としきりにお願い(おねだり?)していたも
のだ。
 ともかく、内心うきうきしていたところへ、依頼を持ち込まれ、僕が少々不
安に襲われたのは確かである。長引くと困る、という理由だけで。
「あの事件、とっくに知っているでしょう?」
 依頼を持ち込んできたのは、針生早恵子(はりおさえこ)さん。十文字先輩
のライバル・針生徹平の二つ上のお姉さんで、現在、美馬篠高校三年生。他校
生だが、以前の事件絡みで僕も顔見知りになっている。
「十日ほど前に報道された、誘拐事件解決のことなら」
 十文字先輩は硬い表情で応じた。話を聞いているこの場所は、僕らの通う七
日市学園の近くにあるファーストフード店なのだが、騒がしい店の中で、この
一角だけが妙に緊張した空気に包まれたかのようだ。
 二週間足らず前に起きた誘拐事件の概要は、報道その他によるとこうだ。六
月の事件のあと、針生家は、長男徹平の死により多額の生命保険金を得ていた。
センセーショナルな事件であり、真犯人が未だ不明という厳しい現実もあって
か、一部週刊誌によって保険金云々の話はかなり派手に書き立てられた。その
ことが、よからぬ考えを持つ者を、実際の犯罪に走らせる引き金になったのだ
ろう。針生家の人間を誘拐し、身代金をせしめようと。
 ところが、誘拐されたのは、針生一家の誰でもなく、親戚でもなかった。早
恵子さんの級友、河田玉恵(かわだたまえ)という人だった。何故そんなこと
になったのか。友情を見込んだ犯人が意図的に河田さんをさらったのではもち
ろんなく、間違いとされる。早恵子さんと河田さんは、顔立ちや雰囲気がどこ
となく似ているらしい(僕は河田さんと面識がないので伝聞)。そこに加えて、
三流週刊誌が黒の目線入りで早恵子さんの写真を小さく載せたことも、誘拐犯
に思い違いを起こさせる原因になったのかもしれない。だが、一番の大きな原
因は、誘拐当日のちょっとしたハプニングだろう。早恵子さんらのクラスでは
体育の授業があり、早恵子さんは跳び箱で足をくじく。意外に重傷なので、早
引けすることになって、母親が車で迎えに来た。その際、早恵子さんのスポー
ツバッグが教室に置いたままに。放課後、友達の河田さんが見舞いがてら、忘
れ物を届けることになった。
 そのスポーツバッグの持ち手に、「針生早恵子」と大書した名札を通してい
たのだ。持ち物に名前を書くことは学校の指定であるが、一方で個人情報をむ
やみに晒すのよくないという保護者の声もあって、去年より強制ではなくなっ
ていたが、三年生になる早恵子さんは外すのを億劫に思い、そのままにしてい
たという。
 誘拐を計画した連中――複数犯だったことは後に判明する――は、車中から
高倍率の単眼鏡で名札をしかと確かめ、それから河田さんに声を掛けた。
 針生早恵子ではないと否定した河田さんを、犯人が強引に連れ去ったのは、
一度始動したらやめられない事情に加え、「本人が針生早恵子であることを否
定するのは、マスコミの報道に嫌気が差していたからだ」と都合よく解釈した
せいもあったと考えられる。
 河田さんは、倒産した会社の放置された社員寮(アパート)に連れて行かれ
た。その一室で、河田さんは自分が針生早恵子でないことを訴え、生徒手帳と
携帯電話のメモリーを見せて納得させた。だからといって、はいそうですかと
解放される訳がない。犯人達二人は短い相談の上、河田さんに針生家へ電話す
るように命じた。実際には、河田さんは針生宅の番号を知らなかったため、早
恵子さんの携帯電話に掛けることになる。河田家に身代金要求がされなかった
のは、早くに両親を亡くした河田さんが、伯母の援助等によりマンションで独
り暮らしをしているとの事情が大きい。
 それからあとは大騒ぎになったようだが、詳細は省く。というか、情報があ
まり公開されていないのだ。人違い誘拐という複雑さ故に、公表を控えるべき
やり取りがあったからだと一部で囁かれているが、真相は定かでない。
「それで、何が問題なのでしょう? 犯人死亡という形ではあるが、誘拐事件
は解決を見たはず」
 先輩の云った通り、誘拐犯の男女二人組はともに死んでいる。仲間割れの挙
げ句、殺し合ったとされる。女が刺殺され、男は殺した女の仕掛けていた毒で
死んだという。
「玉恵が――河田さんが疑われています。犯人が殺し合うなんてできすぎてい
る、河田さんがそう仕向けたか、もしかすると直接手を下したのではないかと」
「莫迦な。そんな筋書きは、犯人が同士討ちするよりも荒唐無稽だ。第一、正
式に事件の終結を発表した警察が、河田さんを疑う訳がありません」
「疑いというのは、インターネットでの噂です」
「何と。火消しせねばならんほど酷い噂が立っているのですか」
「程度は関係ないわ。私の身代わりになった玉恵が、助かったあともそんな目
に遭っているというだけでたまらない。十文字君には、真実を広く世間に認め
させて欲しいのよ」
「お気持ちは理解できました。しかし、そう云われても、警察の発表以上に、
事件の結末を世間に広く伝えるものがあるとは思えませんね」
「私が気にしているのは、ネットのこと。ネットで今流れている噂を打ち消す
だけの、強力な論理に裏打ちされた真相を改めて提示できない?」
「うーん……」
 十文字先輩は珍しく消極的だ。解決済みの事件であるためか、あるいは、親
友でライバルだった針生徹平の死亡によるショックが、まだ抜けきっていない
のか。
「じゃあ、こういうのはどうかな。私は、誘拐犯二人が殺し合ったとは思えな
い。もちろん、玉恵も犯人じゃない。正当防衛も含めてね。第三者の犯人がい
て、のうのうと逃げ延びていると信じている。この説をあなたに検証してほし
い。どう?」
「分かりました。いや、参りましたと云うべきだな。早恵子さんの執念に」
「執念だなんて」
「引き受ける前にもう一つだけ。河田玉恵さんも希望しているのか、確かめて
おきたい」
「ええ。疑いを早く晴らしたいと願っているわ。ただ……頼む相手があなただ
とは伝えていないのだけれど。馴染みのある探偵に頼むとだけ」
「自分よりも年下の探偵が現れたら、翻意する可能性はないですかね」
「それは大丈夫。彼女、そんな性格じゃないし、万が一心変わりしそうになっ
ても、私が説得する」
「……では基本的に受けるとして……河田さんに会えますか」
 一旦引き受けると決めたら、先輩の行動は早かった。
「今すぐというのは無理だけれど、終業式の翌日以降なら多分大丈夫」
「細かい日時が決まったら、報せてください。それから、誘拐事件について、
手札を全て開いてください。幸運にも被害を逃れたとはいえ、当事者ではある
のだから、警察を通じてそれなりの情報は得ているんでしょう?」
「報道されたものがほとんどだと思うけど、そうね……毒の種類は出てた?」
「青酸系毒物だと。犯人の男が昔、メッキ工場に勤務していて辞める前に盗ん
だとされているようですね。工場自体が潰れて確認が難航していると聞きまし
た」
「玉恵の拘束されていた状態は?」
「ああ、それは未確認かつ欲しい情報です」
「手首にはおもちゃの手錠をされ、足首にはガムテープを巻かれていたそうよ。
口は厚手の手ぬぐいで猿ぐつわをされたって」
「両手は身体の前か後ろか」
「後ろだと聞いたわ。手錠の鍵は、刺し殺された方の男が持っていて、ジャケ
ットの内ポケットから玉恵が自力で見つけ、脱出の突破口になった」
「尾籠な話ですが、河田さんは拘束されていた間、用足しは……」
 十文字先輩がオブラートに包もうと言葉を選んだのに対し、早恵子さんは強
い調子で応じた。
「私も気になったから聞いておいた。トイレに関しては、女の犯人が連れて行
ってくれたそうよ。トイレは個室で目が届かなくなるから、いい顔はされなか
ったみたいだけど、中まで付いてくることはなかったって」
「報道では確か、脅迫電話の声は、常に男だった。男が身代金を要求し、女は
その間、見張り役だったのかな。まあいい。犯人が死ぬところを、河田さんは
目撃したんでしょうか」
「ううん、どっちも見てない。朝目が覚めたら、男がぐったりしていて、女の
姿は見えなかったらしいわ。だから、男が死んだのは何となく推測できたとし
ても、女の方は逃げたと思ったかも。とにかく、正式に犯人達が死んだと聞か
されたのは、救出されたあと」
「その救出ですが、どういう経緯で居場所を見つけてもらえたんでしたっけ」
 十文字先輩は、報道を通じて知っていることでも質問した。再確認ないしは
公になっていない部分があれば引き出そうという意図なのかもしれない。
「玉恵の話だと……あまりにも長い間放置されて、おかしいと感じると同時に、
これはチャンスかもしれないと思ったそうよ。様子を窺いながら監禁されてい
た部屋を這い出て、自分の荷物を見つけた。そこに携帯電話があったから、助
けを求められた」
「携帯電話は河田さんの物ですね? 犯人が脅迫に使ったのは……」
「最初の一回だけ、玉恵の物で、あとは犯人が用意した携帯電話だったみたい。
どうやって入手したのかまでは知らないけれど、購入者を辿れない代物だった
って」
「それならバッテリーが充分残っていたのは当然、と」
「ねえ。さっきから気になってたのだけれど、玉恵のことを疑ってる?」
「いえ。疑いを完全に打ち消すために、確かめていただけです。犯人同士の仲
間割れの線は依然として濃厚だが、河田さんが犯人達を殺したとは思っていま
せん。もし人質が犯人を殺したなら、警察だって気付くはずだ。何故なら、今
回の場合、河田さんは拘束された状態で発見された。犯人の一人を刺殺したな
ら、一度は手足が自由になったに違いない。そして刺殺後に自分で自分を拘束
状態にした。その際に、手錠やガムテープ等に指紋がどうしても付く。仮に手
袋をはめたとしても、今度は手袋そのものの始末に苦労する。そういった痕跡
を警察が見逃す訳がない」
「なるほど、ね」
 心底感心した風に、早恵子さんは三度ほど頷いた。
「他に聞きたいことは?」
「とりあえず、今はありません。河田さんに会うまでに、できる限りのことは
しておくと約束しますよ」
 先輩は自信溢れる物腰で云った。
 ところが……河田玉恵と対面する日は訪れなかった。

 終業式の二日前、僕らは想像もしなかった怪異な成り行きを知らされた。河
田玉恵が前夜より行方不明になり、翌朝、市内にある製鉄工場近くの廃屋にて
見つかった右膝から先の部分が、履いていた靴により彼女ではないかと推測さ
れるに到ったという。
「今、DNA鑑定に回しているって話」
 五代先輩が昼食の場にふさわしくない、沈痛な面持ちで云った。十文字先輩
と同級生の五代先輩は、お父さんが警察関係者で、たまにこうして情報をもた
らしてくれる。十文字先輩の探偵活動にあまりいい顔をしないが、今回は知り
合いの知り合いが被害者とあって、特別扱いなんだろう。
「生活反応はあったんだろうか」
 学生食堂の片隅、声を潜めて十文字先輩が云った。窓の外は、昨夜から降り
続く雨。だいぶ弱まったが、雨音が建物内に染み込んでくるかのように聞こえ
る。
「それは聞いてない。足は一部が燃やされていたそうだから、判定が困難なの
かも」
「燃やされて?」
 僕は思わず悲鳴気味の声を上げてしまった。ちょうど骨付きの唐揚げを食べ
ていたのだ。五代先輩は「下手なことは云えないけれども……」と、内密さを
アピールするかのように、より一段と声を低めた。
「現場の廃屋は打ちっ放しのコンクリで囲った物置小屋のようなもので、内部
には、人の形に焼け焦げたような痕跡が認められた。その右足に該当する位置
に、本物の右足首があったそうよ。つまり、一見すると――」
「人体発火現象か」
 先回りして呟く十文字先輩。五代先輩は頷いた。
 僕も知っていた。人間が自然に(?)発火し灰と化し、絶命。あとには肉体
の一部が残ることもある。超常現象の一つとされる。犠牲になるのは老齢者が
多いことから、水分が比較的少ない老齢者だから燃えやすいとか、特定の日に
起きるケースが多いため、地球の磁場の影響とする説も確かあった。
 が、超常現象説は現代ではとうに否定され、ほぼ全ての事例は科学的・論理
的に説明が付いたはず。人体蝋燭化現象(こっちも超常現象っぽい響きだが、
豚の死体を用いた実験で立証されている)といって肉体の脂肪が蝋、衣服が芯
と化すことで、低温でもじっくり焼け、骨まで灰になってしまうという。
 十文字先輩も当然、このことは承知していた。
「警察の見解はどうなんだろうね」
「仮に超常現象だと思っていても、表立って云うはずない。でも、人体蝋燭化
現象についても把握してるだろうから、超常現象なんて考えは最後に回して、
事故、他殺、自殺の三方向から捜査すると思う」
「なら、ひとまず安心していい。それにしても、どんな成り行きで、足の発見
に到ったのかな。聞いた限りでは、行方不明の女子高校生を捜す対象として、
優先的に思い付く場所ではなさそうだが」
「そこまでは知らされてないわ。親族から捜索願が出ていたのかどうかすら、
分からない」
「親族と云っても、伯母さんは北海道に帰ったあとなのだから、行方不明に早
期に気付けるとは考えにくい。気になるな。はっきりさせねばならない。あと
は依頼人のことがあるが……」
 携帯電話を取り出した十文字先輩は、画面をちらと見ただけですぐに戻した。
「向こうから連絡があってしかるべきだが、何もない。事件を知らない可能性
はあるだろうか?」
「以前の人違い誘拐で関係があっても、今朝の件を報せるとは限らないでしょ
うね。同級生なんだから、行方知れずになったこと受けて行き先の心当たりを
問われる等はありそうだけれど、今度の場合、夜遅くに事件が起きて早朝には
見つかった訳だから、多分、それもない」
「そういうものなのかい? かつての誘拐の被害者が、再び行方知れずになっ
ていたんだぜ。警察経由でなくても知ることはできる。河田さんの身内からし
てみれば、警察に通報する前に、まずは親しい友達の家に電話でも入れるもの
じゃないか」
「だから、その通報があったかどうか曖昧だって、さっき云ってたじゃないの」
「先輩方、話がずれてきているようですが……」
 僕が口を挟むと、二人の先輩は一瞬きょとんとした顔になり、やがて反省の
色を浮かべた。
「百田君の云う通りだ。終わったことや、あり得たかもしれないことを色々想
像しても仕方がないし、時間の無駄。こちらから連絡を取るとしよう」
「今は待って。正式発表前なんだから。どうしてもって云うなら、すでに早恵
子さんが知っているかどうか、確かめるのが先」
「しょうがない。その確認は五代君に任せる」
「私はじきに特訓に入るから無理。このあと、情報漏洩は期待しないでよ。分
かった?」
 諭す口ぶりで云い置き、席を立った五代先輩。柔道の練習で、本当に忙しい
らしい。足早に去っていく。
「ま、先に報道される可能性が高いだろう」
 十文字先輩は食事を終え、視線を斜め下に落とすと、何か考えながら指折り
数え始めた。大方、調べるべき点を頭の中で列挙し、優先順位を整理している
のだろう。
「これが殺人事件で、被害者が河田さんだとして、犯人像はどんな感じになる
んでしょう? 矢っ張り、ネットで勝手な噂を流していた連中なんかが怪しい
ことに?」
 ぱっと思い付いたことを述べた僕に対し、十文字先輩は軽く見るような目つ
きをした。
「冴えない推理だ。噂を信じた輩が、誘拐被害者を装った殺人者に天誅を下し
た? しかも、人体発火現象に見せ掛けて。ネット弁慶にそんな行動力がある
とは思えないね。ああ、無論、内に籠もった連中ばかりじゃないと理解してい
る。だが、確証もなしにリスクを冒して実力行使に出たとしたら、そいつは普
通の神経の持ち主じゃないな。可能性は極めて低いと思うね」
「でしたら、犯人は……」
「身近にいると見なすのが、一番妥当だろう。噂が流れているのをいいことに、
全く別の動機から殺したのかもしれない。誘拐犯の身内が逆恨みしたという線
も、念頭に置いていいかもしれないな。さて」
 時計を見てから先輩は立ち上がった。
「行動に移ろうじゃないか、百田君。そのコーヒーゼリーを可能な限り早く片
付けたまえ」
 急いでデザートをかきこみ、先輩に続いた。

 五代先輩ルートのコネに期待できず、また、これまで知り合った刑事からも
おいそれと情報を引き出せる訳もない。どうするのかと思ったら、まずは針生
家に早恵子さんを訪ねるという。
「具体的な方針を決めた訳じゃないが、確認を兼ねてね」
 家の前まで来ると、十文字先輩は周囲を歩いて、警察車両の有無をチェック
した。外見だけで区別が付くとは限らないが、そもそも車自体、どこにも停ま
っていない。
「ニュースサイトに事件の記事が出ている」
 先輩は操作していた携帯電話を閉じた。
「被害者名は伏せてある。が、恐らく、早恵子さんには伝わっているだろう。
警察は以前の人違い誘拐との関連を調べたいと考えるはず。そのためには、公
にされていない点まで、早恵子さんに伝えたに違いない」
 それからまた携帯電話を開きかけ、結局やめた十文字先輩。名探偵らしから
ぬ、迷いを見せている。
「もうここまで来ているんだ。電話をせずに、直接、乗り込むべきだな」
「先輩は何を躊躇してるんです?」
 迷う理由が飲み込めず、僕は率直に聞いた。携帯電話を仕舞ってから、先輩
は答えた。
「少し、思うところがあってね。根拠と呼べるものはないんだが、針生徹平の
事件で……いや、矢張りよそう。憶測を語るのは少なくとも現時点ではふさわ
しくない」
 十文字先輩は肩で風を切る勢いで振り向き、針生家に歩を踏み出した。慌て
て着いていく。質問をして、かえって分からなくなってしまった、そのもやも
やを抱えたまま。
 インターホンを通じて名乗り、来意を適当にぼかして告げる。すると、応対
する女性の声がざっくばらんな調子に変わった。早恵子さんの母親かと思って
いたが、本人だったのだ。
「鍵を開けるから、少し待ってて」
 玄関から入るとき、早恵子さんは、両親は二人とも仕事に出ていると云った。
やけに明るい。はしゃいでいるとまでは云わないが、友人が亡くなった(かも
しれない)事件が起きたばかりとは、ちょっと信じにくいほど。まさか、まだ
知らないのではないか?
「依頼のことでしょう? お茶を用意するわね。じっくり聞かせてもらいたい
し」
 僕が「お構いなく」と小声で云うのに被せて、先輩が質問を素早くぶつける。
「先に聞きたいのですが、早恵子さんは知らないのですか? 今朝、河田さん
と思しき女性の足首が見つかったことを」
「――警察の人から問合せがあった。そのときに知らされたわ。正しくは、私
は学校にいて、母が家で電話を受けたんだけど。でも、身元確認は済んでない
んでしょう? 私が帰宅してから警察の電話がまたあって、身元が判明したと
いう話は出なかったし」
 台所に向かう足を止め、話し始める早恵子さん。
「確定した訳じゃないんだから、希望は捨てない。警察も、もし仮に死んだの
が玉恵と決まったら、少し話を聞きたいと云ってきただけだから」
 それで無理にでも明るく、振る舞おうとしているのかもしれない。というよ
り、早恵子さん本人は普段通りの振る舞いに努めているに違いないが、意識す
るあまり、かえって浮いた感じになっていると解釈するのが正解かも。
「ドライな質問を先にさせてください。河田玉恵さんの生死に関わらず、依頼
は継続するつもりなのかどうか」
「――もちろん」
「了解しました。そのつもりで続けます。しばらく嫌な質問が続きますが」
「かまわない。云って」
 早恵子さんは結局、台所には行かず、僕らの前の椅子に座った。半透明なク
ロスを敷いたテーブルを挟み、やり取り開始。
「発見された足が河田さんの物であるとの前提で、進めます。彼女の知り合い
の中で、彼女を殺そうとする人に心当たりは?」
「ないわよ、そんな殺し殺されるだなんて」
 あからさまに不機嫌な口ぶりの返答。前置きの効果はあまり望めない。
 ところが次の瞬間、早恵子さんの表情が緩んだ。それから思い出したように
云う。
「殺意どうこうとは違う話だけど、ごく最近、彼女の人付き合いで大きな変化
があったんだわ。新しく知り合った人を、自分の家に招いて、泊まらせたの」
「気になるな。その人の名前等、分かります?」
「ええ、会ったことがあるのよ。フルネームは分からないけれど、笠置(かさ
ぎ)さんと呼んでいた。花笠を置くと書く笠置ね。もちろん女性。年齢は二十
歳前後、大学生と思ってたけど、違うかもしれない。半家出状態で全国を旅行
中って云ってたっけ」
 一ノ瀬のおば、メイさんのことが頭に浮かぶ。あの人はバイクであちこち走
り回っているが、笠置なる人物も同じなんだろうか。聞いてみた。
「移動手段はヒッチハイクと電車がメインだって。知り合ったのも駅の券売機
前。落とした生徒手帳を相手が拾ってくれたのがきっかけで、逆に乗り継ぎを
教えたらしいわ。その後、間違い誘拐が起きて、笠置さんは玉恵の名前を覚え
ていたのね。心配して、立ち寄ってくれたのが十日ぐらい前だったかしら。私
があなたに依頼をしたあとだったのは間違いない。マンションには玉恵の伯母
さんが心配して、北海道の方から出て来てくれてたのだけれど、そろそろ戻ら
ないと行けない頃合いだったみたい。玉恵が笠置さんを信用したこともあって、
伯母さんと入れ替わる形で泊まってもらった。玉恵は事件のあと、まだ学校に
来ていなくて、私はマンションに時々立ち寄るようにしていたから、笠置さん
と知り合った訳よ」
「泊まったというのは、何日間か連続してなんですね?」
「多分。外出恐怖症みたいになってた玉恵に代わり、買い出しに行ったり、家
事を色々やってくれたりしてたわ」
「ふむ。ここまで聞いて、いい人という印象しかない。旅行中にわざわざ引き
返して、寄ってくれる辺り、いい人過ぎるぐらいだ」
「私は別に、笠置という人が怪しいと云った訳じゃないから。玉恵の生活に変
化をもたらした一人として、思い付いたまでよ」
「理解しています。それで、この笠置さんは現在、どうしているんでしょう?」
「分からない。連絡手段がないもの」
 お手上げのポーズを小さくする早恵子さん。十文字先輩は首を捻りながら、
「マンションにはいないということですか」と質問を重ねる。
「そのようね。警察から二度目の電話のとき、何の言及もなくて、逆に私が笠
置さんの名前出したら、調べてみますという返事だった」
「ふむ。警察の反応から推すと、荷物もなかったと考えられますね……。事件
とは関係なく、一昨日以前に発っていたのか、彼女自身も事件に巻き込まれた
か、あるいは」
 三つ目――無論、笠置なる女性が犯人である可能性――は云うまでもないと
思ったか、あるいは早恵子さんを気遣ったのか、先輩は語尾を濁した。
「どのような過程で足が発見されたのか、警察は云ってましたか」
「いえ、全く」
「捜索願が出されていた訳でもないと?」
「あぁ、そんなことまでは気にしていなかったから、聞かなかったわ」
 唇を噛み、悔やむ様子の早恵子さん。
「云われてみれば、玉恵が行方不明になっていることを誰が知り得たのか、気
になるわね」
「犯人の仕業かもしれない」
 名探偵らしい不意を突いた発言に、僕も早恵子さんも「え?」と反応してし
まった。十文字先輩は、僕に目を向けて云った。
「何らかの理由で足を早く発見させたい犯人が、自ら警察に河田玉恵が行方不
明だと通報した可能性を考えているのだよ。もしかすると、工場近くの小屋が
怪しいとまで示唆したかもしれない」
「一体何のためにそんな」
「分からない。今のところ、遺体の早期発見が犯人の利につながるようには思
えないね」
 先輩は視線を早恵子さんに転じた。
「河田さんと最後に会ったのは?」
「えっと確か……三日前の午後。元気そうに見えたわよ。笠置さんが力になっ
てくれて、助かってるって。笠置さんて心理学を学んでいて、その知識に音楽
やアロマ、占いや呼吸法まで組み合わせて、癒しのスペシャリストを目指して
いるそうよ。だから、玉恵もその施術で癒されているんじゃないかな」
 もしそうだとしたら、実験台にされているとも云えるんじゃあ……。僕はそ
う思った。思うだけで、声に出しはしなかったが。
「それは結構なことだ。では、河田さんに怯えているとか恐れているといった
気配は皆無?」
「うぅーん。皆無と云ったら嘘になるかしら。ネットの書き込みを依然として
気にしていて、見なきゃいいのに見てしまって、傷付いてる感じだったから。
云っておくけど、三日前に特にという訳じゃなく、事件後ずっとそんな調子だ
ったのよ」
「……怒らないで欲しいのですが、中傷が原因で河田さんが自殺する恐れはあ
ったと思いますか」
「自分以外の人のことなんて断定できないけど、恐れだけならね。心のどこか
でそういう事態を心配して、私はあの子の家に出向いていたところがあったの
かもしれない。まさか、自殺したっていうの?」
 腰を浮かした早恵子さんに対し、先輩は「思い付く限りの仮説を検討してい
るだけです」と応じた。そして先輩の方も腰を上げる。
「ひとまず、帰るとします。聞きたいことができたら、また伺うなり何なりす
るので、よろしく」


――続く




 続き #416 木陰に臥して枝を折る 2   永山
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