AWC 木陰に臥して枝を折る 1   永山



#415/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  12/09/24  23:19  (453)
木陰に臥して枝を折る 1   永山
★内容
 六本木真由(ろっぽんぎまゆ)は不意に届いた嬌声に眉を寄せた。水飛沫の
音に混じって、若い女性特有の甲高い声が連続して聞こえる。
 河原にあった大きな石に腰掛け、スケッチブックに水彩画を描いていた六本
木は筆を止め、ベレー帽を片手で押さえながら音の方を振り向いた。絵の邪魔
をした音の源の正体を目で確かめる。制服姿の女子生徒――多分、高校生――
数名が裸足になり、水に足首まで浸かってはしゃいでいた。距離にして五メー
トルほど。なまめかしく聞こえた声は、実のところ、ふざけてじゃれ合い、た
またま出た悲鳴だったらしい。
(どこの学校だろう。七日市学園ではないようだけれど)
 自分の通う高校を思い浮かべる六本木。他の学校に関する知識、というより
も関心は全く持っていない。もし同じ学校で同学年なら、注意すれば少しは静
かにしてもらえるだろうかと考えただけ。たとえ顔見知り相手でも、六本木の
性格では注意を実行に移しはしないが。
(慣れている。天下は皆のものだし)
 気にするのをやめ、再び筆を動かそうとした刹那、突風が吹いた。彼女の頭
に載っていた帽子が、見えない手ですくい取られたかのように飛ばされる。幸
い、川に落ちることはなかったが、縦になったベレー帽は、河原を転々と転が
っていく。女子高生達がいるのとは逆方向だ。
 仕方がないと、またも筆を置き、立ち上がると、六本木は帽子を追い掛けた。
大小様々なつるんとした石が敷き詰められたように広がる河原は、走るには適
さない。ましてや、六本木は運動全般、得意ではない。さらに風がなかなかや
まなかったせいもあって、長々と追い掛ける羽目になった。
 十五メートルばかり走ってようやく追い付く。ベレー帽を手に取り、はたき
ながら向き直って元の方へ歩き出そうとしたそのとき、六本木真由は予想外の
シーンを見せられ、一瞬ぽかんとした。
 何があったのか分からないけれども、川縁をこちら向きに走っていた女子高
生グループの一人が、足をふらつかせた。あろうことか、六本木が絵を描いて
いた場所のすぐそばで。
 その高校生は最初にパレットを踏み、続いてその足でスケッチブックの上も
踏んだ。
「ああっ」
 さすがに声が出た。急いで駆け寄る。絵の具を踏んだ人以外の面々は何が起
きたか分かっていないようで、六本木とすれ違って行ってしまった。
「ご、ごめん」
 問題の女子高生は、汚れた右足を気にする様子もなく、手を拝み合わせて六
本木に謝罪してきた。
「……」
 しゃがんで状況を見る六本木。スケッチブックは幸いと云っていいのか、強
風でめくれて、描きかけの絵自体は踏まれていなかった。白紙に黄色い足跡が
くっきり着いている。パレットの方も、踏まれた割にはひび一つ入ることなく、
無事らしい。
「大丈夫みたい」
 下を向いたまま云うと、相手は同じようにしゃがんだ。
「本当? 何ともない?」
「うん。紙一枚分ならどうってことない」
「あとで弁償とか云われても、困るからね」
「そこまで云うのなら、連絡先を聞いてもいいですけれど」
 六本木は冗談のつもりだったのだが、通じなかったようだ。女子高生は生徒
手帳を取り出すと、急いだ様子で書き付けた。そのページを破り、六本木に手
渡す。
「これが私の名前と家の電話番号。あ、嘘じゃないって証拠に」
 仕舞いかけた生徒手帳を開き、顔写真入りのページを見せてきた。
「ね」
「分かりました。わざわざどうも。六本木真由と云います」
「ほんと、ごめんね。鬼ごっこみたいなことしてたんだけど、風で目に砂が入
っちゃって……次からは気を付けるわ」
「はい。あたしも人のことは云えませんが、風には気を付けるとしましょう」
 六本木が云うと、今度はその冗談が通じたらしく、相手もくすっと笑った。
 彼女が足を川の水で洗い、立ち去ったあと、六本木はスケッチブックの足跡
をしげしげと見つめた。
「これはこれでユニークかも」

           *           *

 夏休みを目前にして、僕――百田充(ももたみつる)は浮かれていたことを
認めねばならない。
 八月に入れば、音無亜有香(おとなしあゆか)の別荘に泊まりがけで遊びに
行ける。尤も、先輩で名探偵の十文字龍太郎(じゅうもんじりゅうたろう)の
御供――ワトソン役――という形ではあるが。音無は何度か十文字先輩の世話
になっており、そのお礼にと先輩を招待したのだ。背景はどうあれ、好きな異
性の同級生に招かれたのは事実だし、心弾む。
 いつも纏わり付く一ノ瀬和葉(いちのせかずは)が不在なのも、ラッキーと
云える。一ノ瀬はハワイで開かれるコンピュータ関連の学会に顔を出すとかで、
七月末には出発予定らしい。
 一ノ瀬は十文字先輩の探偵活動に貢献すること大であるため、先輩も同行を
希望していたのだが、変更は無理だったようだ。一ノ瀬自身、非常に残念がっ
ていて、「冬休みに招いてよん」としきりにお願い(おねだり?)していたも
のだ。
 ともかく、内心うきうきしていたところへ、依頼を持ち込まれ、僕が少々不
安に襲われたのは確かである。長引くと困る、という理由だけで。
「あの事件、とっくに知っているでしょう?」
 依頼を持ち込んできたのは、針生早恵子(はりおさえこ)さん。十文字先輩
のライバル・針生徹平の二つ上のお姉さんで、現在、美馬篠高校三年生。他校
生だが、以前の事件絡みで僕も顔見知りになっている。
「十日ほど前に報道された、誘拐事件解決のことなら」
 十文字先輩は硬い表情で応じた。話を聞いているこの場所は、僕らの通う七
日市学園の近くにあるファーストフード店なのだが、騒がしい店の中で、この
一角だけが妙に緊張した空気に包まれたかのようだ。
 二週間足らず前に起きた誘拐事件の概要は、報道その他によるとこうだ。六
月の事件のあと、針生家は、長男徹平の死により多額の生命保険金を得ていた。
センセーショナルな事件であり、真犯人が未だ不明という厳しい現実もあって
か、一部週刊誌によって保険金云々の話はかなり派手に書き立てられた。その
ことが、よからぬ考えを持つ者を、実際の犯罪に走らせる引き金になったのだ
ろう。針生家の人間を誘拐し、身代金をせしめようと。
 ところが、誘拐されたのは、針生一家の誰でもなく、親戚でもなかった。早
恵子さんの級友、河田玉恵(かわだたまえ)という人だった。何故そんなこと
になったのか。友情を見込んだ犯人が意図的に河田さんをさらったのではもち
ろんなく、間違いとされる。早恵子さんと河田さんは、顔立ちや雰囲気がどこ
となく似ているらしい(僕は河田さんと面識がないので伝聞)。そこに加えて、
三流週刊誌が黒の目線入りで早恵子さんの写真を小さく載せたことも、誘拐犯
に思い違いを起こさせる原因になったのかもしれない。だが、一番の大きな原
因は、誘拐当日のちょっとしたハプニングだろう。早恵子さんらのクラスでは
体育の授業があり、早恵子さんは跳び箱で足をくじく。意外に重傷なので、早
引けすることになって、母親が車で迎えに来た。その際、早恵子さんのスポー
ツバッグが教室に置いたままに。放課後、友達の河田さんが見舞いがてら、忘
れ物を届けることになった。
 そのスポーツバッグの持ち手に、「針生早恵子」と大書した名札を通してい
たのだ。持ち物に名前を書くことは学校の指定であるが、一方で個人情報をむ
やみに晒すのよくないという保護者の声もあって、去年より強制ではなくなっ
ていたが、三年生になる早恵子さんは外すのを億劫に思い、そのままにしてい
たという。
 誘拐を計画した連中――複数犯だったことは後に判明する――は、車中から
高倍率の単眼鏡で名札をしかと確かめ、それから河田さんに声を掛けた。
 針生早恵子ではないと否定した河田さんを、犯人が強引に連れ去ったのは、
一度始動したらやめられない事情に加え、「本人が針生早恵子であることを否
定するのは、マスコミの報道に嫌気が差していたからだ」と都合よく解釈した
せいもあったと考えられる。
 河田さんは、倒産した会社の放置された社員寮(アパート)に連れて行かれ
た。その一室で、河田さんは自分が針生早恵子でないことを訴え、生徒手帳と
携帯電話のメモリーを見せて納得させた。だからといって、はいそうですかと
解放される訳がない。犯人達二人は短い相談の上、河田さんに針生家へ電話す
るように命じた。実際には、河田さんは針生宅の番号を知らなかったため、早
恵子さんの携帯電話に掛けることになる。河田家に身代金要求がされなかった
のは、早くに両親を亡くした河田さんが、伯母の援助等によりマンションで独
り暮らしをしているとの事情が大きい。
 それからあとは大騒ぎになったようだが、詳細は省く。というか、情報があ
まり公開されていないのだ。人違い誘拐という複雑さ故に、公表を控えるべき
やり取りがあったからだと一部で囁かれているが、真相は定かでない。
「それで、何が問題なのでしょう? 犯人死亡という形ではあるが、誘拐事件
は解決を見たはず」
 先輩の云った通り、誘拐犯の男女二人組はともに死んでいる。仲間割れの挙
げ句、殺し合ったとされる。女が刺殺され、男は殺した女の仕掛けていた毒で
死んだという。
「玉恵が――河田さんが疑われています。犯人が殺し合うなんてできすぎてい
る、河田さんがそう仕向けたか、もしかすると直接手を下したのではないかと」
「莫迦な。そんな筋書きは、犯人が同士討ちするよりも荒唐無稽だ。第一、正
式に事件の終結を発表した警察が、河田さんを疑う訳がありません」
「疑いというのは、インターネットでの噂です」
「何と。火消しせねばならんほど酷い噂が立っているのですか」
「程度は関係ないわ。私の身代わりになった玉恵が、助かったあともそんな目
に遭っているというだけでたまらない。十文字君には、真実を広く世間に認め
させて欲しいのよ」
「お気持ちは理解できました。しかし、そう云われても、警察の発表以上に、
事件の結末を世間に広く伝えるものがあるとは思えませんね」
「私が気にしているのは、ネットのこと。ネットで今流れている噂を打ち消す
だけの、強力な論理に裏打ちされた真相を改めて提示できない?」
「うーん……」
 十文字先輩は珍しく消極的だ。解決済みの事件であるためか、あるいは、親
友でライバルだった針生徹平の死亡によるショックが、まだ抜けきっていない
のか。
「じゃあ、こういうのはどうかな。私は、誘拐犯二人が殺し合ったとは思えな
い。もちろん、玉恵も犯人じゃない。正当防衛も含めてね。第三者の犯人がい
て、のうのうと逃げ延びていると信じている。この説をあなたに検証してほし
い。どう?」
「分かりました。いや、参りましたと云うべきだな。早恵子さんの執念に」
「執念だなんて」
「引き受ける前にもう一つだけ。河田玉恵さんも希望しているのか、確かめて
おきたい」
「ええ。疑いを早く晴らしたいと願っているわ。ただ……頼む相手があなただ
とは伝えていないのだけれど。馴染みのある探偵に頼むとだけ」
「自分よりも年下の探偵が現れたら、翻意する可能性はないですかね」
「それは大丈夫。彼女、そんな性格じゃないし、万が一心変わりしそうになっ
ても、私が説得する」
「……では基本的に受けるとして……河田さんに会えますか」
 一旦引き受けると決めたら、先輩の行動は早かった。
「今すぐというのは無理だけれど、終業式の翌日以降なら多分大丈夫」
「細かい日時が決まったら、報せてください。それから、誘拐事件について、
手札を全て開いてください。幸運にも被害を逃れたとはいえ、当事者ではある
のだから、警察を通じてそれなりの情報は得ているんでしょう?」
「報道されたものがほとんどだと思うけど、そうね……毒の種類は出てた?」
「青酸系毒物だと。犯人の男が昔、メッキ工場に勤務していて辞める前に盗ん
だとされているようですね。工場自体が潰れて確認が難航していると聞きまし
た」
「玉恵の拘束されていた状態は?」
「ああ、それは未確認かつ欲しい情報です」
「手首にはおもちゃの手錠をされ、足首にはガムテープを巻かれていたそうよ。
口は厚手の手ぬぐいで猿ぐつわをされたって」
「両手は身体の前か後ろか」
「後ろだと聞いたわ。手錠の鍵は、刺し殺された方の男が持っていて、ジャケ
ットの内ポケットから玉恵が自力で見つけ、脱出の突破口になった」
「尾籠な話ですが、河田さんは拘束されていた間、用足しは……」
 十文字先輩がオブラートに包もうと言葉を選んだのに対し、早恵子さんは強
い調子で応じた。
「私も気になったから聞いておいた。トイレに関しては、女の犯人が連れて行
ってくれたそうよ。トイレは個室で目が届かなくなるから、いい顔はされなか
ったみたいだけど、中まで付いてくることはなかったって」
「報道では確か、脅迫電話の声は、常に男だった。男が身代金を要求し、女は
その間、見張り役だったのかな。まあいい。犯人が死ぬところを、河田さんは
目撃したんでしょうか」
「ううん、どっちも見てない。朝目が覚めたら、男がぐったりしていて、女の
姿は見えなかったらしいわ。だから、男が死んだのは何となく推測できたとし
ても、女の方は逃げたと思ったかも。とにかく、正式に犯人達が死んだと聞か
されたのは、救出されたあと」
「その救出ですが、どういう経緯で居場所を見つけてもらえたんでしたっけ」
 十文字先輩は、報道を通じて知っていることでも質問した。再確認ないしは
公になっていない部分があれば引き出そうという意図なのかもしれない。
「玉恵の話だと……あまりにも長い間放置されて、おかしいと感じると同時に、
これはチャンスかもしれないと思ったそうよ。様子を窺いながら監禁されてい
た部屋を這い出て、自分の荷物を見つけた。そこに携帯電話があったから、助
けを求められた」
「携帯電話は河田さんの物ですね? 犯人が脅迫に使ったのは……」
「最初の一回だけ、玉恵の物で、あとは犯人が用意した携帯電話だったみたい。
どうやって入手したのかまでは知らないけれど、購入者を辿れない代物だった
って」
「それならバッテリーが充分残っていたのは当然、と」
「ねえ。さっきから気になってたのだけれど、玉恵のことを疑ってる?」
「いえ。疑いを完全に打ち消すために、確かめていただけです。犯人同士の仲
間割れの線は依然として濃厚だが、河田さんが犯人達を殺したとは思っていま
せん。もし人質が犯人を殺したなら、警察だって気付くはずだ。何故なら、今
回の場合、河田さんは拘束された状態で発見された。犯人の一人を刺殺したな
ら、一度は手足が自由になったに違いない。そして刺殺後に自分で自分を拘束
状態にした。その際に、手錠やガムテープ等に指紋がどうしても付く。仮に手
袋をはめたとしても、今度は手袋そのものの始末に苦労する。そういった痕跡
を警察が見逃す訳がない」
「なるほど、ね」
 心底感心した風に、早恵子さんは三度ほど頷いた。
「他に聞きたいことは?」
「とりあえず、今はありません。河田さんに会うまでに、できる限りのことは
しておくと約束しますよ」
 先輩は自信溢れる物腰で云った。
 ところが……河田玉恵と対面する日は訪れなかった。

 終業式の二日前、僕らは想像もしなかった怪異な成り行きを知らされた。河
田玉恵が前夜より行方不明になり、翌朝、市内にある製鉄工場近くの廃屋にて
見つかった右膝から先の部分が、履いていた靴により彼女ではないかと推測さ
れるに到ったという。
「今、DNA鑑定に回しているって話」
 五代先輩が昼食の場にふさわしくない、沈痛な面持ちで云った。十文字先輩
と同級生の五代先輩は、お父さんが警察関係者で、たまにこうして情報をもた
らしてくれる。十文字先輩の探偵活動にあまりいい顔をしないが、今回は知り
合いの知り合いが被害者とあって、特別扱いなんだろう。
「生活反応はあったんだろうか」
 学生食堂の片隅、声を潜めて十文字先輩が云った。窓の外は、昨夜から降り
続く雨。だいぶ弱まったが、雨音が建物内に染み込んでくるかのように聞こえ
る。
「それは聞いてない。足は一部が燃やされていたそうだから、判定が困難なの
かも」
「燃やされて?」
 僕は思わず悲鳴気味の声を上げてしまった。ちょうど骨付きの唐揚げを食べ
ていたのだ。五代先輩は「下手なことは云えないけれども……」と、内密さを
アピールするかのように、より一段と声を低めた。
「現場の廃屋は打ちっ放しのコンクリで囲った物置小屋のようなもので、内部
には、人の形に焼け焦げたような痕跡が認められた。その右足に該当する位置
に、本物の右足首があったそうよ。つまり、一見すると――」
「人体発火現象か」
 先回りして呟く十文字先輩。五代先輩は頷いた。
 僕も知っていた。人間が自然に(?)発火し灰と化し、絶命。あとには肉体
の一部が残ることもある。超常現象の一つとされる。犠牲になるのは老齢者が
多いことから、水分が比較的少ない老齢者だから燃えやすいとか、特定の日に
起きるケースが多いため、地球の磁場の影響とする説も確かあった。
 が、超常現象説は現代ではとうに否定され、ほぼ全ての事例は科学的・論理
的に説明が付いたはず。人体蝋燭化現象(こっちも超常現象っぽい響きだが、
豚の死体を用いた実験で立証されている)といって肉体の脂肪が蝋、衣服が芯
と化すことで、低温でもじっくり焼け、骨まで灰になってしまうという。
 十文字先輩も当然、このことは承知していた。
「警察の見解はどうなんだろうね」
「仮に超常現象だと思っていても、表立って云うはずない。でも、人体蝋燭化
現象についても把握してるだろうから、超常現象なんて考えは最後に回して、
事故、他殺、自殺の三方向から捜査すると思う」
「なら、ひとまず安心していい。それにしても、どんな成り行きで、足の発見
に到ったのかな。聞いた限りでは、行方不明の女子高校生を捜す対象として、
優先的に思い付く場所ではなさそうだが」
「そこまでは知らされてないわ。親族から捜索願が出ていたのかどうかすら、
分からない」
「親族と云っても、伯母さんは北海道に帰ったあとなのだから、行方不明に早
期に気付けるとは考えにくい。気になるな。はっきりさせねばならない。あと
は依頼人のことがあるが……」
 携帯電話を取り出した十文字先輩は、画面をちらと見ただけですぐに戻した。
「向こうから連絡があってしかるべきだが、何もない。事件を知らない可能性
はあるだろうか?」
「以前の人違い誘拐で関係があっても、今朝の件を報せるとは限らないでしょ
うね。同級生なんだから、行方知れずになったこと受けて行き先の心当たりを
問われる等はありそうだけれど、今度の場合、夜遅くに事件が起きて早朝には
見つかった訳だから、多分、それもない」
「そういうものなのかい? かつての誘拐の被害者が、再び行方知れずになっ
ていたんだぜ。警察経由でなくても知ることはできる。河田さんの身内からし
てみれば、警察に通報する前に、まずは親しい友達の家に電話でも入れるもの
じゃないか」
「だから、その通報があったかどうか曖昧だって、さっき云ってたじゃないの」
「先輩方、話がずれてきているようですが……」
 僕が口を挟むと、二人の先輩は一瞬きょとんとした顔になり、やがて反省の
色を浮かべた。
「百田君の云う通りだ。終わったことや、あり得たかもしれないことを色々想
像しても仕方がないし、時間の無駄。こちらから連絡を取るとしよう」
「今は待って。正式発表前なんだから。どうしてもって云うなら、すでに早恵
子さんが知っているかどうか、確かめるのが先」
「しょうがない。その確認は五代君に任せる」
「私はじきに特訓に入るから無理。このあと、情報漏洩は期待しないでよ。分
かった?」
 諭す口ぶりで云い置き、席を立った五代先輩。柔道の練習で、本当に忙しい
らしい。足早に去っていく。
「ま、先に報道される可能性が高いだろう」
 十文字先輩は食事を終え、視線を斜め下に落とすと、何か考えながら指折り
数え始めた。大方、調べるべき点を頭の中で列挙し、優先順位を整理している
のだろう。
「これが殺人事件で、被害者が河田さんだとして、犯人像はどんな感じになる
んでしょう? 矢っ張り、ネットで勝手な噂を流していた連中なんかが怪しい
ことに?」
 ぱっと思い付いたことを述べた僕に対し、十文字先輩は軽く見るような目つ
きをした。
「冴えない推理だ。噂を信じた輩が、誘拐被害者を装った殺人者に天誅を下し
た? しかも、人体発火現象に見せ掛けて。ネット弁慶にそんな行動力がある
とは思えないね。ああ、無論、内に籠もった連中ばかりじゃないと理解してい
る。だが、確証もなしにリスクを冒して実力行使に出たとしたら、そいつは普
通の神経の持ち主じゃないな。可能性は極めて低いと思うね」
「でしたら、犯人は……」
「身近にいると見なすのが、一番妥当だろう。噂が流れているのをいいことに、
全く別の動機から殺したのかもしれない。誘拐犯の身内が逆恨みしたという線
も、念頭に置いていいかもしれないな。さて」
 時計を見てから先輩は立ち上がった。
「行動に移ろうじゃないか、百田君。そのコーヒーゼリーを可能な限り早く片
付けたまえ」
 急いでデザートをかきこみ、先輩に続いた。

 五代先輩ルートのコネに期待できず、また、これまで知り合った刑事からも
おいそれと情報を引き出せる訳もない。どうするのかと思ったら、まずは針生
家に早恵子さんを訪ねるという。
「具体的な方針を決めた訳じゃないが、確認を兼ねてね」
 家の前まで来ると、十文字先輩は周囲を歩いて、警察車両の有無をチェック
した。外見だけで区別が付くとは限らないが、そもそも車自体、どこにも停ま
っていない。
「ニュースサイトに事件の記事が出ている」
 先輩は操作していた携帯電話を閉じた。
「被害者名は伏せてある。が、恐らく、早恵子さんには伝わっているだろう。
警察は以前の人違い誘拐との関連を調べたいと考えるはず。そのためには、公
にされていない点まで、早恵子さんに伝えたに違いない」
 それからまた携帯電話を開きかけ、結局やめた十文字先輩。名探偵らしから
ぬ、迷いを見せている。
「もうここまで来ているんだ。電話をせずに、直接、乗り込むべきだな」
「先輩は何を躊躇してるんです?」
 迷う理由が飲み込めず、僕は率直に聞いた。携帯電話を仕舞ってから、先輩
は答えた。
「少し、思うところがあってね。根拠と呼べるものはないんだが、針生徹平の
事件で……いや、矢張りよそう。憶測を語るのは少なくとも現時点ではふさわ
しくない」
 十文字先輩は肩で風を切る勢いで振り向き、針生家に歩を踏み出した。慌て
て着いていく。質問をして、かえって分からなくなってしまった、そのもやも
やを抱えたまま。
 インターホンを通じて名乗り、来意を適当にぼかして告げる。すると、応対
する女性の声がざっくばらんな調子に変わった。早恵子さんの母親かと思って
いたが、本人だったのだ。
「鍵を開けるから、少し待ってて」
 玄関から入るとき、早恵子さんは、両親は二人とも仕事に出ていると云った。
やけに明るい。はしゃいでいるとまでは云わないが、友人が亡くなった(かも
しれない)事件が起きたばかりとは、ちょっと信じにくいほど。まさか、まだ
知らないのではないか?
「依頼のことでしょう? お茶を用意するわね。じっくり聞かせてもらいたい
し」
 僕が「お構いなく」と小声で云うのに被せて、先輩が質問を素早くぶつける。
「先に聞きたいのですが、早恵子さんは知らないのですか? 今朝、河田さん
と思しき女性の足首が見つかったことを」
「――警察の人から問合せがあった。そのときに知らされたわ。正しくは、私
は学校にいて、母が家で電話を受けたんだけど。でも、身元確認は済んでない
んでしょう? 私が帰宅してから警察の電話がまたあって、身元が判明したと
いう話は出なかったし」
 台所に向かう足を止め、話し始める早恵子さん。
「確定した訳じゃないんだから、希望は捨てない。警察も、もし仮に死んだの
が玉恵と決まったら、少し話を聞きたいと云ってきただけだから」
 それで無理にでも明るく、振る舞おうとしているのかもしれない。というよ
り、早恵子さん本人は普段通りの振る舞いに努めているに違いないが、意識す
るあまり、かえって浮いた感じになっていると解釈するのが正解かも。
「ドライな質問を先にさせてください。河田玉恵さんの生死に関わらず、依頼
は継続するつもりなのかどうか」
「――もちろん」
「了解しました。そのつもりで続けます。しばらく嫌な質問が続きますが」
「かまわない。云って」
 早恵子さんは結局、台所には行かず、僕らの前の椅子に座った。半透明なク
ロスを敷いたテーブルを挟み、やり取り開始。
「発見された足が河田さんの物であるとの前提で、進めます。彼女の知り合い
の中で、彼女を殺そうとする人に心当たりは?」
「ないわよ、そんな殺し殺されるだなんて」
 あからさまに不機嫌な口ぶりの返答。前置きの効果はあまり望めない。
 ところが次の瞬間、早恵子さんの表情が緩んだ。それから思い出したように
云う。
「殺意どうこうとは違う話だけど、ごく最近、彼女の人付き合いで大きな変化
があったんだわ。新しく知り合った人を、自分の家に招いて、泊まらせたの」
「気になるな。その人の名前等、分かります?」
「ええ、会ったことがあるのよ。フルネームは分からないけれど、笠置(かさ
ぎ)さんと呼んでいた。花笠を置くと書く笠置ね。もちろん女性。年齢は二十
歳前後、大学生と思ってたけど、違うかもしれない。半家出状態で全国を旅行
中って云ってたっけ」
 一ノ瀬のおば、メイさんのことが頭に浮かぶ。あの人はバイクであちこち走
り回っているが、笠置なる人物も同じなんだろうか。聞いてみた。
「移動手段はヒッチハイクと電車がメインだって。知り合ったのも駅の券売機
前。落とした生徒手帳を相手が拾ってくれたのがきっかけで、逆に乗り継ぎを
教えたらしいわ。その後、間違い誘拐が起きて、笠置さんは玉恵の名前を覚え
ていたのね。心配して、立ち寄ってくれたのが十日ぐらい前だったかしら。私
があなたに依頼をしたあとだったのは間違いない。マンションには玉恵の伯母
さんが心配して、北海道の方から出て来てくれてたのだけれど、そろそろ戻ら
ないと行けない頃合いだったみたい。玉恵が笠置さんを信用したこともあって、
伯母さんと入れ替わる形で泊まってもらった。玉恵は事件のあと、まだ学校に
来ていなくて、私はマンションに時々立ち寄るようにしていたから、笠置さん
と知り合った訳よ」
「泊まったというのは、何日間か連続してなんですね?」
「多分。外出恐怖症みたいになってた玉恵に代わり、買い出しに行ったり、家
事を色々やってくれたりしてたわ」
「ふむ。ここまで聞いて、いい人という印象しかない。旅行中にわざわざ引き
返して、寄ってくれる辺り、いい人過ぎるぐらいだ」
「私は別に、笠置という人が怪しいと云った訳じゃないから。玉恵の生活に変
化をもたらした一人として、思い付いたまでよ」
「理解しています。それで、この笠置さんは現在、どうしているんでしょう?」
「分からない。連絡手段がないもの」
 お手上げのポーズを小さくする早恵子さん。十文字先輩は首を捻りながら、
「マンションにはいないということですか」と質問を重ねる。
「そのようね。警察から二度目の電話のとき、何の言及もなくて、逆に私が笠
置さんの名前出したら、調べてみますという返事だった」
「ふむ。警察の反応から推すと、荷物もなかったと考えられますね……。事件
とは関係なく、一昨日以前に発っていたのか、彼女自身も事件に巻き込まれた
か、あるいは」
 三つ目――無論、笠置なる女性が犯人である可能性――は云うまでもないと
思ったか、あるいは早恵子さんを気遣ったのか、先輩は語尾を濁した。
「どのような過程で足が発見されたのか、警察は云ってましたか」
「いえ、全く」
「捜索願が出されていた訳でもないと?」
「あぁ、そんなことまでは気にしていなかったから、聞かなかったわ」
 唇を噛み、悔やむ様子の早恵子さん。
「云われてみれば、玉恵が行方不明になっていることを誰が知り得たのか、気
になるわね」
「犯人の仕業かもしれない」
 名探偵らしい不意を突いた発言に、僕も早恵子さんも「え?」と反応してし
まった。十文字先輩は、僕に目を向けて云った。
「何らかの理由で足を早く発見させたい犯人が、自ら警察に河田玉恵が行方不
明だと通報した可能性を考えているのだよ。もしかすると、工場近くの小屋が
怪しいとまで示唆したかもしれない」
「一体何のためにそんな」
「分からない。今のところ、遺体の早期発見が犯人の利につながるようには思
えないね」
 先輩は視線を早恵子さんに転じた。
「河田さんと最後に会ったのは?」
「えっと確か……三日前の午後。元気そうに見えたわよ。笠置さんが力になっ
てくれて、助かってるって。笠置さんて心理学を学んでいて、その知識に音楽
やアロマ、占いや呼吸法まで組み合わせて、癒しのスペシャリストを目指して
いるそうよ。だから、玉恵もその施術で癒されているんじゃないかな」
 もしそうだとしたら、実験台にされているとも云えるんじゃあ……。僕はそ
う思った。思うだけで、声に出しはしなかったが。
「それは結構なことだ。では、河田さんに怯えているとか恐れているといった
気配は皆無?」
「うぅーん。皆無と云ったら嘘になるかしら。ネットの書き込みを依然として
気にしていて、見なきゃいいのに見てしまって、傷付いてる感じだったから。
云っておくけど、三日前に特にという訳じゃなく、事件後ずっとそんな調子だ
ったのよ」
「……怒らないで欲しいのですが、中傷が原因で河田さんが自殺する恐れはあ
ったと思いますか」
「自分以外の人のことなんて断定できないけど、恐れだけならね。心のどこか
でそういう事態を心配して、私はあの子の家に出向いていたところがあったの
かもしれない。まさか、自殺したっていうの?」
 腰を浮かした早恵子さんに対し、先輩は「思い付く限りの仮説を検討してい
るだけです」と応じた。そして先輩の方も腰を上げる。
「ひとまず、帰るとします。聞きたいことができたら、また伺うなり何なりす
るので、よろしく」


――続く




#416/598 ●長編    *** コメント #415 ***
★タイトル (AZA     )  12/09/24  23:48  (396)
木陰に臥して枝を折る 2   永山
★内容
 夜になって、右足首は河田玉恵だと断定されたとの報道があった。彼女の部
屋にあった何らかの身体的資料と、小屋で見つかった右足首のDNAが一致し
たということだろう。やけに早く鑑定結果が出たようだけれど、かつての誘拐
被害者が猟奇的な犯行に巻き込まれた恐れありと見て、最優先で行われたのか
もしれない。
「右足首が河田玉恵の物となると、とりあえず二つの可能性を検証しなければ
いけない」
 十文字先輩は夜遅くに電話をしてきた。明日も学校があるのに、わざわざ掛
けて来るなんて、ワトソン役相手に喋りたくてたまらないんだろうか。
「一つは河田玉恵が死んでいる場合。これは、他殺か自殺か事故かに分けられ
る」
「それ以外に何があるんです?」
「決まってる。二つ目は、河田玉恵が生きている場合だ」
「……云ってる意味が分からないんですが……」
「右足を失っただけで死ぬとは限らない。もしかすると、右足首を置いて死ん
だように見せ掛け、実はどこかに隠れているのかもしれないってことさ」
「……」
 この人は何て発想をするんだろう。いや、これぐらいの発想は名探偵なら当
たり前かもしれない。が、一介の高校生、それも女子生徒が実行するイメージ
は、僕には持てない。
「医者、というか、医療の知識と技術を持つ者の協力がないと、死んでしまい
ますよね」
「いなくても死なない可能性はあるが、いた方がいいだろうねえ」
「河田さんにそんな協力者がいたと? 信じられません」
「そりゃ今後調べることだよ」
「生存説を先に調べるんですか」
「無論。よりありそうにない仮説を先に潰しておけば、もう一つの仮説に専念
できる」
 そう語る先輩の口ぶりは、ありそうにない仮説が真実の的を射抜いているこ
とを期待する響きがあるように感じられた。
「どこから手を着けるんでしょう? 僕にできることは何があります?」
「一ノ瀬君に頼んでくれないか。市内及び近隣の病院で、少なくとも右足首を
欠損した女性が入院もしくは来院した記録の有無を調べるように。きちんとし
た病院で治療を受けている可能性も皆無ではないからね」
「それってつまり」
 ハッキングをしろと。
「それぐらいは警察がすでにやってるのでは」
「いやいや、分からないよ。報道を見聞きする分には、ほとんどの場合、遺体
と表現している。警察が右足首の持ち主の死亡を確定事項として扱っている証
拠じゃないかな。恐らく、現場に残された灰からもそれが人体であることを示
す証拠が出たんだよ。河田玉恵の死亡を前提に動いている警察が、右足首をな
くした女性を捜すとは思えない」
「仮に入院しているとして、病院は河田玉恵の身元を把握した上で治療に当た
るのが普通でしょう。ならば、警察に届けるはず。そうなっていないのは、病
院が河田玉恵を匿っていることになりませんか。だとしたら、ばか正直に記録
しているとは考えにくい気がするんですけど」
「名前や年齢等は変えたとしても、症状についてはありのままを記録するはず
だ。でないと、治療や管理がしづらい」
 理屈は分かった。それにしても方法が乱暴だ。もう少し穏やかなやり方、た
とえば河田玉恵が関係したことのある病院をピックアップするとか。そこから
絞り込んでも充分なんじゃないかというニュアンスの意見を述べた。
「やるのは一ノ瀬君だ。彼女のやり方に任せればいい」
「分かりました……」
「僕の方は、右足を河田玉恵のものだと判断するに到った過程を知ろうと思う。
五代君は動いてくれそうにないが、何とかなるだろう。それと同時並行して、
美馬篠高校へ出向き、河田玉恵の友人から話が聞きたい。百田君、同行を頼め
るかな?」
 美馬篠は早恵子さんの通う高校で、当然、河田玉恵もそこの生徒だったこと
になる。僕と先輩はこの六月、文化発表会を見物する目的で足を運んだ。そこ
で事件に巻き込まれたのだが。
「女子を連れていった方が役立つんじゃありませんか。女子に話を聞くことに
なるだろうから」
「誰がいるんだね」
「えーと、七尾(ななお)さんとか」
 美馬篠高校に知り合いがいて、僕らとも顔見知りの一年生の名前を挙げた。
適任と思ったのだが、名探偵から即座に却下された。
「だめだよ。学園長から、事件に巻き込むのは万やむを得ない場合を除き、極
力やめるようにとお達しを受けている」
「あ、そうでした」
 七尾弥生(やよい)の祖父は七日市学園のオーナー兼学園長。生徒の活動に
ついて寛大で、たいていのことは口を挟まないが、孫娘が関わるとなると別。
危険を伴い得る探偵活動となれば、なおさらだ。
「百田君。どうも今回は非協力的だね。何か事情があるのかい」
「そういう訳では」
 いつもいつも、十文字先輩から強引にワトソン役を押し付けられて事件に関
わっているようなものだ。もう慣れた。ただ、今回は、八月に待ち受ける“ご
褒美”――音無の招き――が頭にあって、身が入らないのかも。
「ならば、明日の終業式、美馬篠に行くぞ。夏休みに入ると、生徒を掴まえに
くくなるからね」
 勝手に決められてしまった。さすがに自校の終業式を休みはしないようだが、
果たして間に合うのだろうか。

「右足の件だが、比較に使われたのは毛髪だそうだよ」
 携帯電話を切った十文字先輩は、今し方の通話内容を話してくれた。美馬篠
高校まで、あと徒歩三分といった地点に僕らはいる。
「河田玉恵の暮らすマンションの部屋から採取した物らしい。室内はきれいに
掃除してあったから、髪の毛を見つけるのも楽だったと言っていた」
「あの、誰からの情報ですか」
 気になったことを尋ねる。五代先輩は柔道の合宿準備で忙しいし、そもそも
情報の内容から、電話の相手は携わった刑事という気がする。
「八十島(やそじま)刑事だよ」
 矢っ張り。針生徹平が関わったとされる事件で捜査に当たった一人だ。今度
の事件の捜査にも加わっているのか。
「どうやって聞き出したんです?」
「早恵子さんにちょっとつついてもらった。親友の死を信じられない女子高生
として、身元確認の詳細を教えてくださいと、八十島刑事に頼んだんだ。そし
てその報告がこちらに来るようにしてもらったのさ。ついでに、笠置なる女性
の行方が判明すれば、こっそり教えてくれる手筈になっている」
「なるほど」
 美馬篠の校門前に着いた。当たり前であるが、とうに終業式は済んでおり、
何割かの生徒は帰宅したあとであろう。
「入る前に聞いておきたい。百田君の方の成果は?」
「あ? ああ、まだです。一ノ瀬は旅の準備で大わらわみたいで、こっちが頼
んだときも生返事でしたから、ちゃんとやってくれてるかどうか」
「今日、クラスで話をしなかったのかい?」
「朝はやり残したことがあるとかで、コンピュータ室に籠もりきり。終業式が
終わると、さっさと帰ってしまいました」
「やれやれ。彼女には彼女の事情があるとは言え、参ったな。出発は八月頭だ
っけ? まだ日数があるが、期待しない方がよいだろうね」
 苦笑を浮かべた名探偵は、今一度美馬篠高校の本館校舎を見上げると、足を
進め始めた。学校への出入りにチェックが厳しい昨今だけれども、学生服姿だ
とハードルが下がる。
「ところで、こんな時間に来ても遅かったんじゃないですか。クラスは分かっ
ていても、どれだけの人が残っているか」
「手抜かりはないよ。早恵子さんに頼んでおいたから、何名か集めてくれてい
るはずだ」
 それならそうと言ってくれればいいのに。まさか、僕を付き添わせるために、
わざと伏せていたんじゃないだろうな? なんて考えてる内に、三年二組の教
室に到着。ここって確か、早恵子さんのクラスだ。
 開け放してある戸口から顔を覗かせ、「失礼します」と様子を窺う。室内に
は三人が残っていた。一人はもちろん早恵子さんで、あとは男女が一人ずつ。
「二人ともこのあと予定があるそうだから、手短にお願いね」
 挨拶もそこそこに、早恵子さんは河田玉恵の友人二人を手で示した。まずは
自己紹介。先にこちらが順に名乗って、今日の訪問の目的を伝える。
 相手は男の方が小比木進次郎(おこのぎしんじろう)といい、三年生なのに
背は僕より若干低いぐらい。身だしなみに気を使っているのが分かるが、生白
くて痩せているせいで、ともすれば病人じみて見える。女の方は稲沢梨穂(い
なざわりほ)といい、小比木とは対照的に日に焼けて健康そのものといった印
象。瓜実顔の早恵子さんに対し、丸くて愛らしい顔立ちをしている。おでこの
左端にあるニキビを気にしてか、そこを手のひらで隠す仕種を繰り返す。
 全員が適当な椅子に座ったところで、質問開始。
「最初に早恵子さんに聞きたいんですが、どういう基準でこのお二人に残って
もらったんでしょう?」
 十文字先輩の質問が意外だったらしく、早恵子さんは大きな動作の瞬きのあ
としばらくきょとんとした。
「玉恵の友達で、特に親しかったのが梨穂――よね?」
 当人に目を向け、確認を取るかのように云う。稲沢さんは「まあ、そのつも
りだったけど。少なくとも誘拐に巻き込まれる前は」と応じた。僕は早恵子さ
んの表情を窺ったが、特段の変化は見つけられなかった。
「小比木君は、玉恵と小学校からずっと同じで、いわゆる幼馴染みってやつ。
別に付き合ってた訳じゃないけど、男子の中では一番玉恵と話をする仲だった」
「そうだね」
 小比木さんは外見に似合わない、低音の渋い声で答えた。声優向き。
「事件後、近所だし見舞いに行ったよ。男子では自分だけかな。けど、笠置っ
て人が現れるようになってからは、もう大丈夫かなと思って、やめた」
「笠置さんに会っているんですね?」
 小比木さんは「一度きりだけどね」とうなずき、稲沢さんは「私は玉恵から
話に聞いただけ」と答えた。そして言葉を重ねる。
「占いがよく当たるって。笠置って人が云うには、占う側と占われる側の類似
点が多いほど、当たりやすい。体型や生年月日、血液型、好みの色や食べ物と
かね。実際、玉恵と笠置さんは靴のサイズや血液型が同じだったんだって」
 占い好きな女性は多いが、それでも河田玉恵と笠置なる女性が意気投合して
いる様が想像できる話だ。
 先輩は大きく頷き、質問の相手を変えた。
「それじゃ小比木さん、笠置さんの印象はどうでしたか」
「どうと云われても……河田さんのお姉さん的存在? いや、これはあとから
河田さんが好印象を持っていると分かったから、その影響を受けてる気がする。
ただ、似た空気感を持ってたのは確かだ。顔や髪型は全然違うが、身体の輪郭
が近いっていうか」
「旅行中の笠置さんが、次に向かう予定なんて、聞いてはいませんか」
「そこまでの話はしなかったな」
 予想通りの答。笠置なる女性と複数回会った早恵子さんでも分からないのだ。
一度会っただけではまず無理だろう。
「お二人から見て、最近の河田さんに何らかの変かを感じたことは? ただし、
ネットでの中傷を見て落ち込んでいたという点は除いて」
「うーん……その落ち込みから回復しつつあったように見えた」
「そうね。二学期からまた出て来るつもりと云っていたし」
 小比木、稲沢の順に答える。と、稲沢が思い出したように付け加える。
「あ、そう云うのを聞いて私が、二学期まで待てない、夏休み中に海にでも行
こうよって誘ったら、まだ海みたいなとこはちょっとって感じだったわ」
「人目が多いのはだめということ?」
 十文字先輩が聞く。
「多分。でも学校には来るつもりだったんだから、知らない人の目が多いと怖
さを感じるという意味かも」
「なるほど。分析的だ」
「だから私、だったら川にしようって。五月の半ばに行った話を持ち出したら、
玉恵、何かもう懐かしそうにしてた」
「川っていうのはN川のことで、ここから少し北東に行ったところにちょっと
開けた場所があるの」
 早恵子さんが補足した。N川なら知っている。我が校の生徒の仲にも足を伸
ばして遊びに行く者がいる。僕は行った経験ないけれど。
「その川に、特別な思い出でも?」
「特別ってほどじゃないわね。記憶鮮明だったからじゃない? 玉恵、あのと
きは絵の具を踏んづけちゃったし」
「絵の具?」
 意表を突く単語に、先輩も僕もおうむ返しをしてしまった。
「河原で絵を描いてる子がいて、ああ、確か七日市学園の一年生だった。うち
らは裸足になって、水辺できゃあきゃあやってたの。で、何の弾みだったか、
追いかけっこみたいになって……絵を描いていた子はちょうど、絵の道具の所
から離れていたのね。それで玉恵が絵の具を踏んづけて、しかもその足で画用
紙まで踏んで」
 どたばたコメディか。これでバケツに片足を突っ込んで、川の中へ転倒した
ら完璧だ。
 僕は十文字先輩を見た。名探偵としてはこんな寄り道をせず、先に進みたい
と考えるに違いない。そう思ったのだが、案に反して、先輩は顎に手をやり、
沈思黙考のポーズ。関心を持ったようだけど、一体どこに?
「――十文字君?」
 黙り込んだ先輩に、早恵子さんが声を掛ける。先輩はさらに五秒ほど沈黙を
通し、やおら口を開いた。
「河田さんが絵の具を踏んだ足は、左右どちらでしたか?」
「え?」
「役立つかもしれないことなんです。意識して覚えてはいないでしょう、。で
も、当時の状況を思い描き、どちらからどちらの方向に走ったか、絵の具を踏
んだあと、河田さんはどんな風に行動したか、イメージしてもらえればきっと
思い出せる」
「そう?」
 自信なげな稲沢さんだったが、目を瞑り、十文字先輩に云われた通りに思い
返したのだろう。やがて答を出した。
「……右、だった気がする」
 十文字先輩は聞いた途端、「それはラッキーだ」と手を打った。

 美術の特待生はそれなりの数がいるが、一年生には三名だけ。だから調べる
のは簡単だった。無論、一般の生徒が趣味で絵を描きに出掛けていたとも考え
られるけど、優先順位は勘案しないとね。
「それなら六本木さんに間違いない」
 最初に聞いた一年の美術特待生が、あっさり断定した。「色んな手法を試す
のは、彼女だけだから。他は誰も水彩をやらない」という。
 絵を認められて入ったのなら夏休みも学校に来ていると思い、どこにいるか
と尋ねたら、普段から来ないことの方が多いとの返事だったからびっくり。
「病気がちなのかな?」
「ううん、それはない。世捨て人とか自由人て呼んでる人がいるくらい、行動
が勝手気ままで、分からないんだ」
 しょうがない。住所を調べるも、直接会うのが早そうだ。電話連絡網がない
ため、住所を把握するのも一苦労。そこへ助け船を出してくれたのが、七尾さ
んだった。学園長の孫として、不登校気味の生徒を放ってはおけないとの名目
で、住所と電話番号を聞き出して、僕らに教えてくれた。
「美馬篠高校には、僕の友達もいます。大切な奇術仲間のみんな。同じ高校の
生徒が巻き込まれる事件が相次いで、大なり小なり、不安に駆られていると思
う。一刻も早く、安心できるようにしてください」
 七尾さんはそう云って、十文字先輩に解決を託した。
 こんな成り行きを経て、まず六本木家に電話を入れたのだが、音信不通が続
いた。
「嫌な予感がするぞ。家族揃ってレジャーに出掛けることだって、充分に考え
られる」
 先輩はそれでも該当住所への訪問を即断し、行動に移った。電車とタクシー
を乗り継いで着いてみると、少しばかり圧倒されてしまった。そこには古めか
しい屋敷があったのだ。レンガ造り風の洋館で、敷地内に生える木々が建物の
周囲を鬱そうと飾り、そのせいか二階建てなのに三階建て以上の大きさに感じ
られる。
「お金持ちっぽいですね。ここから見ると、車を停めるスペースが二台分はあ
ります」
 門から中を覗きつつ、庶民的な感想を漏らす僕。先輩は僕を無視して、何や
らきょろきょろ。利き手の人差し指がボタンを押す形になっているところを見
ると、インターフォンを探しているようだ。
「ないな。勝手に入れってことらしい」
 と、勝手に判断した名探偵は金属製の格子門の隙間から手を入れ、閂を外す。
ぎっと短い軋み音を立てて、門はゆらりと外側に開く。
「防犯カメラも見当たらない」
 あまり手入れされていない様子の石畳の上を歩きながら、玄関に辿り着く。
そこにもインターフォンや呼び鈴の類はなかった。代わりに扉にはノッカーが
付いている。蛇の意匠を凝らした、ちょっと不気味な代物だ。十文字先輩は意
に介さず、ごんごんと扉を叩いた。
「ごめんください!」
 十五秒ほど無反応が続いたかと思うと、不意に扉が開けられた。白のエプロ
ンをした若い女性で、第一印象はこの家のお手伝いさん風。
「真由さんに会いたいのですが、いらっしゃいますか」
 僕が尋ねると、相手の女性は首を横に振った。矢張り不在なのか。そう思っ
たとき、女性は続けて自らの耳を指差し、さらに両手の人差し指で小さなバツ
を作った。
「あ――すみません、僕らは手話はできません」
 あまりないシチュエーションに慌てたのだろう、十文字先輩は耳の聞こえな
い人に口頭で応じた。すると女性はエプロンの前ポケットから、メモ帳と鉛筆
を取り出し、すらすらと書き付けた。それを僕らに見せる。
『くちびるの動きでおおよそ分かります。発声もできますが聞き取りにくいと
思います。お急ぎのようですから、私は筆談でよろしいでしょうか』
 文を読んで、僕らは即座に「お願いします」と頼んだ。
「僕は六本木真由さんと同じ高校に通う生徒で、十文字という名前です。同じ
く彼は百田君。僕の知り合いの身の上に関わることで、真由さんに会って確か
めたいことがあります。真由さんは在宅ですか?」
 心なしか、普段よりも口をはっきり動かす十文字先輩。女性は上がり框の方
を振り返り、すぐさま返事を書いた。
『お待ちください』
 彼女が下がってから三分近く待たされ、閉ざされたドアを見つめていると、
不意に開いた。
「お待たせ。何か?」
 ドアを開くなり、六本木真由(と思しき少女)は聞いてきた。小柄故、上目
遣いになっている。絵に取り組んでいたのだろう、肌のところどころに絵の具
の撥ねた痕跡が見受けられた。
 明らかに急いている六本木さんに、十文字先輩は五月頃に彼女がN川の河原
で体験したであろうことを確かめた。もちろん、河田玉恵の写真を見せて、こ
の人に間違いないとの答も得た。
「――それで、足跡の着いた紙を保存していないだろうかと思ってね」
「そんなことでわざわざ来るぐらいだから、よほどの事情が……。捨てたとは
思わなかった?」
 六本木さんは一年先輩に対して、同い年の友達相手みたいな言葉遣いをする。
もしかして、先輩と認識していないのだろうか。
「望みは薄くても、確認しておきたいんだ。それで答は?」
「ある。絵になると信じて、閃くまで取っておくつもりだった」
 答えるや、六本木さんはきびすを返して奥に引っ込んだ。今度はドアを開け
放したままであるせいか、どどどっという足音が聞こえる。じきに戻って来た。
「これ」
 彼女が手にしていたのは、一冊のスケッチブック。厚紙でできた表裏の表紙
の間は、いやにすかすかだ。開いてみると分かった。他のページを全て取り払
い、足跡の着いた分だけを保管していたのである。
「下処理をしていない紙だったから、濡れて乾いたあと、しわになってしまっ
てるけれど、大丈夫?」
 先輩はその言葉に耳を傾け、次いで紙の上の足跡を凝視した。紙を水平にし
て目の高さに持ってくると、顔を傾け、じっと見つめる。
「――充分。これを借りたいのだが、かまわないね?」
「何日ぐらいで戻るんでしょう?」
「うーん、三日あれば確実に返せる」
「了解しました。役立てば嬉しい、です」
 六本木さんの視線が、先輩のカッターシャツの襟元に向いていた。刺繍され
た学年章に気が付いたようだ。
「ありがとう。成果があろうがなかろうが、協力に感謝するよ」
 十文字先輩は言い置くと、足早に外に出た。僕は六本木さんに黙礼し、続こ
うとした。そこへ六本木さんの声が届く。
「留守にしているかもしれないから、そのときは預かっておいてほしい」
「――了解したよ」

「こんな手柄を立てられては、情報提供しない訳にいかないな」
 喫茶店に現れた八十島刑事は、僕らのテーブルに着くなり、呆れ気味に云っ
た。
「手柄ということは、絵の具による足跡の指紋は、現場にあった右足のそれと
一致しなかった?」
 十文字先輩が尋ねると、刑事は「そう急かさんでくれ」と云い、ウェイトレ
スにアイスコーヒーを注文した。お冷やを飲み干してから、やっと答えてくれ
る。
「絵の具の足跡と、問題の右足は別人だ」
「矢っ張り」
「でもな、先ほどは手柄を立てられたと云ったが、是非とも確認しておかねば
ならん点がある。あの画用紙に付着した足跡は、正真正銘、河田玉恵によるも
のなのか?」
「友人の証言があり、あの紙の持ち主にも顔写真で確認済み。絵を得意とする
から、観察力は確かでしょう」
「うーむ。認めざるを得んようだ」
 アイスコーヒーが八十島刑事の前に置かれた。刑事が口を付けるのを見て、
僕もつられる形で、目の前のジュースをすすった。
「そうなると、別の問題が生じる」
「他人の足なのに、どうして河田玉恵と判断されたか、ですね」
「ああ。被害者の部屋、いや、被害者と思われる河田の部屋から採取した毛髪
を資料とし、検証したのだからな」
「つまらない小細工でしょう。部屋を一旦きれいに掃除した上で、別人の女性
の髪の毛を点在させたとすれば? 疑問は氷解します」
「そりゃ理屈だが、実際に可能だろうか? 血液型も一致していたんだ」
「血液型は調べればすぐに分かるから、問題にならない。部屋を掃除して新た
に髪をばらまくのは、部屋の主が行ったと考えれば、さほど困難な作業じゃな
い」
 僕は持っていた食べかけのサンドイッチを、思わずぎゅっと握った。ある程
度予測できていたとはいえ、十文字先輩が河田玉恵関与説を明言したのは今が
初めてだ。
 八十島刑事の方は、絵の具云々の話を知って間もないせいもあってか、僕以
上に驚いたようだ。
「……被害者と思えた河田が実は加害者だと云うのかね」
「仮説の一つです。共犯を強制されているのかもしれないし、河田玉恵に罪を
被せたい真犯人がいるかもしれない。ただ、現段階において、河田玉恵が犯人
である可能性は有力な説と見なすべきでは」
「うーん。その点はひとまず横に置いてだね、もう一つの問題がある。右足の
主は一体誰なのか」
「女性で、河田玉恵と血液型が同じで、靴も合うという条件に当てはまる人を、
僕は一人知っていますよ」
「えっ、誰だい?」
 勢い込む八十島刑事。グラスを押し退け、前のめりになった。対する十文字
先輩はジュースを一口飲み、落ち着いた調子で応じる。
「その人で決まりって訳ではないが……前にも云った笠置という女性が、条件
にぴたりと当てはまります」
 先輩はこれまでに聞き込んだことを、刑事に話して聞かせた。
「そんなことが……。とりあえず、納得した。当てはまるのは間違いない。事
件前から河田と接触を持っていた事実と合わせ、今まで以上に笠置某の足取り
捜索に力を注がんといかん。河田の行方も同様だな」
 腰を浮かし加減にして、そわそわする八十島刑事。一刻も早く行動に移りた
いのは明白だが、十文字先輩は素人名探偵の立場から、もう少し情報を引き出
そうと試みた。
「質問が五つほどあります。まず、発見に至る過程。鉄工所近くの小屋なんて
普通は誰も気に留めないような場所をどうして調べたのか。そもそも、河田玉
恵を捜すきっかけは何だったのか」
「発覚当日の未明、五時前後に、公衆電話から最寄りの警察署に直接、匿名の
通報があったと聞いた。『製鉄所に通じる線路に沿って歩いていたら、脇の小
屋から悲鳴が聞こえ、続いて火の手が上がった』というような内容を一方的に
喋ると、切れてしまったらしい。性別すら判然としない、くぐもった声だそう
だ。製鉄所という言葉から、製鉄所正門へつながる大通りに設置されている公
衆電話に向かったが、すでに無人だった。ちなみに、そこから現場の小屋は見
えないし、五分は歩かねばならない」
「ふふっ。雨の中、歩いて公衆電話に辿り着き、一方的に切るなんて、怪しさ
満点だ。次、河田玉恵の携帯電話の記録、照会済みでしょうね? 何か判明し
てないんですか」
「どこまで伝わっているのか知らないが、河田の携帯電話は現場に放置されて
いた。右足発見当日は使われた形跡がない。着信は何件かあり、その内の一つ
が笠置某からと推測されている。最後の使用は前日の夜十時過ぎで、笠置と思
われる番号からの通話だ。音声は残念だが記録されていない」
「右足の人物が死んでいるとしたら、死亡推定時刻はいつなのか分かるもので
すか?」
「詳しくは無理だ。発見までの状況等を考慮し、当日の午前0時以降と云える
程度らしい。生体反応もはっきりしない。付け加えておくと、小屋に残ってい
た灰や燃え殻は、人体一人分とするには若干少ないかもしれない。尤も、燃え
方次第であまり当てにはならないようだが」
「切断場所や凶器は見つかっていない?」
「残念だがまだだ。発見現場の近くと睨んでいるんだが、何しろ当日は大雨が
降ったからな。流されちまった恐れが強い。もういいな?」
 八十島刑事は返事を待たずに席を立つと、伝票を掴んでレジに向かった。
「あまり有益な情報は得られなかったな」
 急ぎ足で飛び出す刑事の背中を見送ると、十文字先輩は呟いた。
「切断面について、追加の質問が頭に浮かんだんだが、仕方がない」


――続く




#417/598 ●長編    *** コメント #416 ***
★タイトル (AZA     )  12/09/25  00:45  (371)
木陰に臥して枝を折る 3   永山
★内容                                         15/01/26 17:21 修正 第2版
 それから数日は新たな警察発表がなく、僕らも動きようがなかった。河田玉
恵が立ち寄りそうな場所の心当たりを、彼女の知り合いから聞いて回ってみた
が、徒労に終わった。警察は北海道の伯母周辺にも網を張っているに違いない。
それでも見つからないとは、よほど巧妙に隠れ潜んでいるのか。あるいは、河
田玉恵は矢張り殺害されて……?
「空想ならいくらでも広がるんだよ」
 七月二十七日。僕は宿題の分からないところを先輩に教えてもらう名目で、
学校に来ていた。場所はコンピュータ室。出発前の一ノ瀬が、最後の一仕事と
かで冷房の効いたこの部屋を使うと云うから、便乗して入れてもらった。
「たとえばどんな空想ですか」
 先輩に合いの手を入れ、宿題のプリントに答を書き込み、たまに一ノ瀬の本
気か冗談か分からない妙な日本語に突っ込むという三役を僕はこなしていた。
「十文字さんの思い浮かべた説、当ててみていいかにゃー?」
 リターンキーを押した一ノ瀬が、猫の手つきのポーズで椅子ごと振り向いた。
ディスプレには英数字の列が凄い速さでスクロールしている。
「やってみたまえ、一ノ瀬君」
「では、お言葉に甘えてほんの一例。誘拐犯が少なくとももう一人いて、そい
つに匿われている」
「素晴らしい」
 先輩は拍手の格好をしたが、僕には何を云っているのかさっぱりだ。
「以前、間違えて河田玉恵を誘拐した犯人は、実は三人以上いたと考えるんだ。
ひとまず三人としよう。仲間割れで二人が死亡するも、残る一人は無事だ。そ
いつは理由は不明だが被害者と意気投合。ストックホルム症候群の線もある。
とにかく、河田玉恵は警察に三人目の存在を証言しない。代わりに、誘拐犯も
何らかの約束をした。それが今果たされようとしているのかもしれないってこ
とさ」
「ああ、そうか。そんな関係なら、警察も簡単には把握できない」
「もしこの空想に近い推理が当たっているなら、死んだ誘拐犯二人の身辺を洗
えば、該当者が浮かび上がるだろう。ただ、突飛さ故に、まだ八十島刑事に進
言していない。何か一つでいいから、根拠が欲しいんだ」
「普段、連絡を取り合っていたとしたら、多分、電話かメールを使ったんでし
ょうけど」
「携帯電話は調べ尽くされている。もう一台、他人名義の物を使ったとすれば
お手上げだ」
「難しく考えなくても、第三の誘拐犯イコール笠置ってことはないのかな?」
 一ノ瀬は云うだけ云って、またコンピュータの方を向いた。十文字先輩も同
じ画面を見つめながら、考えを話す。
「ないと断言はできないが、右足の主を笠置と考えると、大怪我を負った状態
で河田玉恵を匿う余裕があるとは思えない。他に、右足の特徴に合致しそうな
人物はいないし……」
「じゃあ、笠置は死んでいると見なすしかなさそうだね。大掛かりな裏組織が
がりがり噛んでない限り、重傷を負った人をこっそり治療できないだろうから」
「まあ、その通りだろう」
「となると、死体の処理をしなくちゃ」
「死体の処理か……現場にあった灰は、人体一人分にしては少ないかもしれな
いという話だったな。別の場所に遺棄した可能性もある訳だ」
「車、ですかね」
 僕が口を挟むと、先輩はさも当たり前のように頷いた。
「遺体がよそに運ばれたとしたら、当然の帰結だ。だが、そこから何が分かる
のだろう? 河田玉恵は運転できまいが、第三の誘拐犯が運転できるのなら矛
盾はない」
「確かに」
「あ」
 しょんぼりする僕の横で、一ノ瀬が急に声を上げた。プログラムの不具合で
も見つかったのかと思いきや、そうではなかった。
「十文字さんと充っちに質問。テレホンカードって持ってる?」
「テレホンカード? 家にはあるかもしれないが、持ち歩きはしてないな」
「同じく。携帯電話で済むし、バッテリー切れのときは硬貨を使えばいいし」
 僕らが答えると一ノ瀬は嬉しそうに「でしょでしょ?」と何度も首を振った。
「ひょっとすると、犯人、というか公衆電話から通報した人も同じかもしれな
いよっ」
「――そうか。公衆電話に投じた硬貨に指紋を残した可能性がある!」
 十文字先輩は大発見をしたかの如く、大声で叫んだ。実際、このときの僕ら
は優れた推理だと信じ込んでいた。
 が……あとで八十島刑事から聞いたところでは、捜査では常識らしかった。
その証拠に、警察は事件発生当初から問題の公衆電話に入っていた硬貨を全て
検査し、指紋採取を済ませており、前歴者との照会作業も大詰めを迎えていた。

「携帯電話の類に、物心ついたときから慣れ親しんでいたかどうかで、その辺
りの意識のずれはあるだろうねえ」
 話を聞いた八十島刑事は、失笑を交えた反応を見せた。
 一ノ瀬を見送った帰り、僕と十文字先輩は八十島刑事と待ち合わせて、話を
聞いた。場所は前回と同じ喫茶店。
「今日中に報道されるはずだが、公衆電話の硬貨の一枚から、窃盗の前科があ
る二十代の男の指紋が検出された。事件への関与は定かでないが、公衆電話の
利用者は製鉄所社員がほとんどで、無関係の者が使うこと自体珍しい。北陸生
まれで、出所後は各地の建設現場で働いていたというが、現在は行方知れず」
 名前は教えてくれないらしい。まあ、ニュースを待てということだ。
「その男と、以前の誘拐犯との関連は?」
「そういう観点では調べていなかった。十文字君に云われて、すぐに追加調査
した。今のところ、誘拐犯の女の方と同郷だと判明している」
「では、河田玉恵の関係は? 以前からの知り合いではないと?」
「恐らくな。君の想像通り、誘拐事件で知り合ったのかもしれん。刑事はあん
まり想像をたくましくしても、それだけでは動けん。一つずつ、事実を積み重
ねて目がありそうなら、より詳しく捜査する」
「承知しています。ただ、河田玉恵もまた被害者である可能性は残っている。
なるべく早く動く必要が」
「それこそ、云われるまでもない」
 刑事は断固たる口調で述べた。機嫌を損ねた訳ではないようだが、プライド
を感じさせる響きがある。
「まあ、あとは我々に任せなさい。男の居所を突き止めるべく、奴の知り合い
や立ち回り先、勤務経験のある現場を当たっている」
 確かに八十島刑事の言葉通り、最早、素人探偵にやれることはないように思
えた。
 だが、この日の夜、事件は急展開を見せた。いや、見せていた。僕の知らな
いところで進展していたのだ。

           *           *

 十文字龍太郎は六十メートル下の川の流れから、視線を上げた。橋の出口付
近に人影を認め、呼び出しが偽でなかったことにひとまず安堵する。と同時に、
緊張感も高まる。
 昼近くの陽光の加減で、まだ顔は判然としない。お互いにそうだろう。
「河田玉恵さんですか」
 十文字は橋を渡り切り、相手の真ん前に立った。帽子や眼鏡で変装している
が、写真で見た覚えのある顔を確認できた。女性自身も頷いた。
「あなたが、早恵子の云っていた十文字龍太郎君?」
「はい。依頼を受けたつもりでしたが、妙な成り行きになったようで」
 河田の右足を見やる十文字。無事だった。足に限らず、彼女はどこも怪我を
していない。
「そのことで呼んだのよ。助けて」
 河田は懇願するような仕種をした。
 ――昨日、夕食を終えた頃、十文字の携帯電話に非通知着信があった。出て
みると、河田玉恵からで、番号は針生早恵子から聞いたらしかった。
 早く姿を見せるよう、説得を始めようとした十文字だが、河田は先んじて改
めての依頼をしてきた。
「こうなったのには深い事情があるのよ。それを聞いてもらいたいのと、私を
助けて欲しい。警察は信用できない。どうしようか困っていたとき、あなたを
思い出した。探偵の看板を掲げているのなら、依頼人の秘密は守ってくれるわ
よね?」
「……やむを得ない。依頼を受けます」
 十文字は承諾すると、念のため、確認の質問をした。
「警察は無論、その他にも口外してはならないということですね?」
「そうよ。明日出て来て欲しいのだけれど、当然、あなたは一人で来て。警察
の尾行や知り合いの同道は許さない」
「分かりました。どこへ向かえば?」
 河田が指定したのは、甲信越のG県にある村に通じる吊橋だった。通話を続
けながらルートを調べると、早朝発てば翌日の午前中に着けるであろうと推測
できた。
 そうして十文字は、鞄一つで呼び出しに応じたのであった。
「話をすぐにでも聞きたいところだが、こんな場所でかまわないんですか。そ
もそも今まで、どこにいたんです?」
「案内するわ。着いて来て」
 河田は警戒の視線を周囲に走らせ、すたすたと歩き出した。十文字が続く。
「村の人に見られると、目立ってまずいのでは」
「村興しの農業体験に来た学生ってことになってる。この村は昔、バンジージ
ャンプみたいな施設を作って人を集めようとして失敗して、今では農業体験や
田舎暮らしに力を入れているらしいわ。それでも閑散としてるけれども」
「ということは、どこかの農家の世話になっているんですね」
「ううん。他に大勢、その類の若い人が来てるから、紛れてるだけ。住まいは
外れに立つ廃屋を勝手に借りてる」
「一人で?」
「今は一人。ここに連れて来てくれたのは、大下(おおした)さんだけど、一
緒にいるとよくないって、別の場所に移ったわ」
「大下俊幸(としゆき)ですね。ニュースに出ていた」
 十文字の声に、河田は前を向いたまま、無言で首肯した。
「前科のある男のようだが、どんな経緯で知り合ったんでしょう? 差し支え
なければ、話していただきたい」
「名探偵なら当たりは付いてるんじゃないの?」
 でないと任せられない。そんな響きを含んだ物言いの河田。
 十文字は自らの推理を伝えた。誘拐一味のメンバーだったのではないか、と。
「矢っ張り、見抜かれていた。私達、罪に問われるのかしら?」
「程度問題だが、多分そうなるでしょう」
「そのことと、今度のことは全くの別。それをよく頭に入れておいて」
 振り返り、真剣な表情を見せた河田。十文字は声は出さずに、小さく曖昧に
頷くにとどめた。迂闊に引き受けてよかったのか、荷重に感じ始めていたのが
偽らざる心境だった。
 その後、村の裏道を歩き継いで、廃屋に辿り着いた。河田は廃屋と表現した
が、少し前に家人のいなくなった平屋建てという風情で、雨風を防ぐのには充
分役立つと思える。窓ガラスも割れていない。水道や電気の類は届いていない
が、食料を始めとする生活必需品を買い込んでおけば、ひと月程度は人知れず
暮らせそうである。
「まず、事情を伺いましょうか」
 奥の間で座卓を挟んで向き合うと、十文字は依頼人に求めた。
 すると河田は、他人の目が遮断された場に来た安心感からか、涙ぐみ出した。
気持ちが高ぶり、順序立てて話すのが難しくなっている様子だ。
 分かりづらい点を辛抱強く問い質しながら、十文字が聞き取り、理解した話
をまとめると次のようになる。
 ネット等の罵詈雑言に傷付いていた河田玉恵は、精神的に不安定になり、と
きにこの世から消えてしまいたいと思い詰めるようになった。事件の前日は、
その気持ちが最高潮に達し、何かきっかけがあれば自殺しかねない心理状態だ
った。当時最も心を開ける相手だった笠置の携帯電話に電話し、支離滅裂な話
をわめき散らした。
 心配した笠置は河田のマンションに向かい、その途中で家を出た河田を見つ
ける。河田は製鉄工場の敷地に入り込み、線路に寝転がった。工場へコークス
などを搬入する列車がいずれ通過する。そうなれば命を落とすのは間違いない。
もちろん、笠置は河田を説得する。言葉では無理と悟ると、力尽くで線路から
引っ張り出そうと試みる。抵抗する河田。もみ合いのような状況になっている
と、そこへ列車が迫ってきた。接近に気付くのが遅れる。笠置は河田を突き飛
ばし、自らも線路の外にダイブした。が、完全には避けられず、右膝から下を
切断する重傷を負う。
 列車の運転士は気付かない。人影は見えても、うまく逃げたのだと解釈した
のかもしれない。さらに、当夜の大雨が血を洗い流すことで、痕跡をあらかた
消し去った。
 笠置は右足を失ったショックから意識をなくし、動けなくなる。河田も茫然
自失状態で、対処できなかった。結果、笠置は出血多量により死亡(と推測さ
れる)。我に返った河田だが、大ごとになったと恐ろしくなり、困窮の挙げ句、
かつての誘拐事件で奇妙な仲間意識を持った大下に連絡を取る。犯罪に手を染
めたことのあるあの男なら、何とかしてくれるのではないかと考えての行為だ
ったという。ちなみにこの時点で河田自身の携帯電話は自宅に置いてきたため、
笠置の携帯電話から掛けている。
 たまたま近くの町に滞在していた大下は、タクシーで駆け付けた。彼は河田
から以前にも一度、悩み――消えてしまいたいという願い――を聞いていた。
そしてこの事態を利用すれば、その願いが叶うぞと河田に持ち掛けたのである。
他人の右足を自らの物に見せ掛け、怪現象で死んだように偽装する計略。大下
は河田と笠置がどれほど似通った特徴を備えているかを知らずに立てた策だが、
それを聞いた河田はごまかし通せると信じた。足のサイズや血液型が同じで、
DNAも何とか細工できるのだから。
 策は実行された。死んだ笠置を小屋に運び入れ、まず、毛髪をいくらか抜く。
大下が盗みのために常備していた携帯バーナーを使い、火を着けた。服が濡れ
て、なかなか燃えずに悪戦苦闘したという。そして、右足だけが燃え残ったか
のように配置した。
 急ごしらえの計画を出たとこ勝負で決行した割に、偽装はうまく行った。少
なくとも当初はそう思えた。
 しかし、警察の捜査によって次第に暴かれ、大下の存在まで嗅ぎつけられた。
進退窮まり、河田は十文字に救いを求めたという。
「河田さん、あなたの話が真実であるなら、一介の高校生探偵に頼らずとも、
警察に出向いて正直に話せば、分かってもらえるんじゃありませんか。未成年
である点も考慮されるでしょう。遺体の損壊は非常にまずいが、心身喪失を訴
えることはできる」
 河田に対して云いながら、十文字は忸怩たる思いでいた。何という平凡なア
ドバイス。犯罪を暴くことや謎を解くことには立ち向かえても、罪を犯した者
に頼られてとことんまで付き合う覚悟は、自分にはまだなかったのだと痛感す
る。探偵たる者、必要となれば多少はイリーガルな方法にも手を染める、そう
でなければ警察と変わらない――と考えていたのに、いざ起こってみるとこの
為体だった。
 河田玉恵は十文字の助言に、対応を迷う風だった。どちらかというと難色を
示していた。もし今度件の真相が公になれば、バッシングの激しさは過去の比
ではなくなるだろう。無理もない。
 一晩、考える時間がほしいと言い出したため、待つことになった。
「僕は一旦、引き返した方がいいですか」
 内心では残るべきだと考えていた十文字だが、敢えて尋ねた。相手の答は、
意外にも「そうしない方がいいわ」だった。
「いない間に、私、逃げるかもしれない」
「……それがあなたの意志なら、仕方がない。ただし、そうなった場合は、あ
なたがここに潜んでいたことを、知り合いの刑事に伝えるつもりでいます」
「私だって、逃げたくない。けれど、誰もいなくなると逃げたくなる気がする」
「大下という男は、どうなんです? 連絡は取れるんですか」
「大下さんから非通知で掛かってくるのを待つだけ」
 河田は真新しいが旧型の携帯電話を取り出して見せた。ボディは白色、デザ
インも機能もシンプルで、通話のみに使えるようだ。
「何らかの指示を受けてない?」
「特別なことは。ここで待てとだけ」
「将来どうするつもりだという話すら、ないんですか」
 少し怒気を込めて、十文字は問うた。河田は当然のように首を縦に振った。
「先が見えていたら、こんなところに隠れていない」
「そりゃそうだろうけれど……」
 国外逃亡ぐらい画策しているのかと想定していた。肩透かしを食らった心地
になり、十文字は考え込んだ。自分がすべきは、依頼人の期待に応えること。
つまり、河田玉恵が生きて姿を現しても、今まで以上の非難を浴びることなく、
元の生活に戻れように持って行く。
(大下に全てを被ってもらうでもしない限り、無理だ)
 河田はあくまでも巻き込まれただけとするには、それしかあるまい。他に妙
案が浮かぶ気配はない。
(いくら前科者でも、大下がそこまでするだろうか。そもそも、彼女と大下と
は、どういう感情で結び付いているんだ?)
 恋愛感情があるのなら、あるいは望みがあるかもしれない。
 しかし、大下が河田を好いているのなら、こんな風にひとりぼっちにするだ
ろうか。連絡もあまりないようだし、差し入れを持って来る訳でもない。ほぼ
放ったらかしと云ってよかろう。
「情報はいかにして得ているんです?」
「ラジオが一つ。乾電池はたくさんあるから、電気切れの心配は当分ないわ」
「それはいいのですが……」
 内心、懸念する十文字。逆に大下に今度の件を弱味とされ、より大きな罪を
被せられる恐れがありはしまいか。誘拐犯同士が殺しあったとされるあの事件
に関しても、警察発表通りなのか、極めて怪しい。
「……矢張り、今夜はここにいることにします」
 現時点で、誘拐事件のことまで問い質すのは、得策でないと判断した。また、
一晩いたからといって、大下の動きが把握できると期待した訳ではないが、で
きる限りのことをしないと落ち着かなかった。
 それから――空き家は他にもあったが、一つ屋根の下で寝泊まりすることに
した。明かりはあるが、外に漏れた光を目撃されると住民に不審がられ、通報
の恐れがある。よって、家屋の中央部に位置する部屋でしか明かりは灯せない。
「信用しているから、別にいいのに」
「依頼人に信用されるのはありがたい。ですが、第三者が見てどう思うかも大
事ですから」
 同じ部屋に仕切り一つを立て、寝床を用意しようとした河田に対し、十文字
は辞退した。隣の部屋に移り、早々に横になる。ぼろぼろの畳の上にこれまた
ぼろぼろのマットレスを敷き、タオルケットを被るだけの寝床だ。どうせすぐ
には寝付けない。万が一、大下が十文字の考える限り最悪の出方をしたとして、
さらに万万が一、偶然にも今夜行動を起こすとしたら……徹夜してでも対処せ
ねば。
 食事は自らが持って来た軽食に、河田が分けてくれた物を合わせて摂った。
そこそこ腹は満ちて、疲労感も取れたはずだった。

           *           *

「――いつの間にか眠っていた」
 悔しげに十文字先輩は云った。述懐がしばらく止まる。僕も入力の手を休め
た。先輩の家の先輩の部屋に、僕はノートパソコンを持ち込み、事件の記録を
取っていた。
 先輩はテーブルから湯飲みを取り上げると、一口煽った。息をつき、話を再
び始める。
「事件に携わっている最中に、眠ってしまうとは、我ながら信じられない。思
うところはあるのだが、それは後回しにしよう。いいかい?」
「かまいません」
「目覚めた僕は、時刻を確かめた。朝八時十五分。随分眠ったことになる。隣
の部屋の様子を窺った。呼び掛けたが返事がない。いやに静かだった。もう一
度声を掛けてから、ふすまを開けた――誰もいなかった」
「出掛けたか、朝食の準備ですか?」
「そんな暢気なことは考えなかったね。隠れ潜んでいる彼女が、朝八時に出歩
くのは、農村では避けるべき行為だろう。朝食の準備? すぐに終わるし、物
音が聞こえるはずだ」
「じゃあ……」
「念のため、家中を探したが、河田玉恵の姿はなし。玄関を見ると、靴はあっ
た。だが、さらに観察を重ねると、庭に面した戸が開けられ、足跡がかすかに
残っていた。僕に気付かれぬよう、庭に回って外に出たらしい。履き物は別に
用意してあったに違いない」
「助けを求めておきながら、何故、そんな不可解な真似をしたんでしょう?」
「待ちたまえ。続きがある」
 続きがあることは、僕も承知している。すでに大きく報道されているのだか
ら。
「僕は外に出た。人の目を気にする余裕はない。依頼人を捜し、あちこち歩い
て回った。といっても不案内故、最初は知っている道から当たった。要するに、
空き家までの道を逆に辿った。そして吊橋に差し掛かったところで、僕は見つ
けたんだ」
 先輩は身震いする様を覗かせた。名探偵らしくないが、勝手に出てしまった
のだろう。
「向かって右手、川の下流方向へ、五十メートルほど先だった。人が倒れてい
るのが見えた。衣服から、どうも河田玉恵らしいと気付き、僕は単眼鏡で確認
した。間違いなく彼女だ。彼女は、依頼人は……死んでいた」
 多分、見つけた時点で、十文字先輩は河田玉恵の死亡を直感したに違いない。
伝えられるところでは、彼女の遺体はかなり異常な状態にあったのだから。
 村には逆パンジージャンプの施設があり、椅子に腰掛けた状態で、上空三十
メートルほどの高さまで飛ばされるのが売りだという。開設後しばらくは賑わ
ったそうだが、利用客が怪我を負う事故が起きて、一時的に閉鎖。金属疲労が
原因とされるがはっきりしない。ために、再開の目途が立たぬまま、放置が続
いていた。その施設の真下で、河田は死んでいた。首を半分がた切られ、そこ
からの大量出血が死につながったと考えられている。
 不可解なのは、地面で固定されていた逆バンジージャンプ用の椅子が、上が
っていた点である。調べてみると、ロックが壊されており、ワイヤーと大型ゴ
ムバンドの張力で、発射できる状態になっていた。さらに、ワイヤーを覆う塗
装や保護材が剥がれ、金属が剥き出しになった箇所が散見された。その一部か
ら血痕が見つかり、検査の結果、河田玉恵の血液との判定が出た。
 これらを総合すると――村に入り込み、空き家に勝手に隠れ潜んでいた河田
だが、暇を持てあましていた。夜から明け方に掛け、逆バンジージャンプに乗
れないだろうかと思い立つと、一人で現場に出向き、装置を壊して動くかどう
か試した。その折、立ち位置が悪かったのか、長らく使っていなかったワイヤ
ーが変な方向に跳ねたかして、河田の首筋を襲った。間の悪いことに金属が剥
き出しになった部分が当たる。それは巨大な刃物に等しい。頭部を切り落とさ
んばかりの勢いで、河田の首をえぐった。彼女は助けを呼ぶ声すら出せず、絶
命した――というのが、警察が現時点で描いた構図である。
「ありえないでしょう」
 話を聞き終わった僕は、すぐさま云った。
「先輩に救いを求めた彼女が、朝っぱらから一人で出掛けて、しかも使われて
いなかった遊興施設を勝手に動かすなんて」
「同感だ。僕はすでに八十島刑事に、知っていることを全て話した。こっぴど
く叱られたけれどね。ちゃんと聞いてくれた。今頃、見直しを検討してくれて
いるはずだ」
 自嘲を交え、先輩は語った。結果的に依頼人を死なせるという最悪の事態を
迎えていたが、その後の対応に関しては、最善を尽くしたと自信を取り戻して
いるようだ。
「大下の行方も気になります」
 僕が水を向けると、名探偵はしっかり頷いた。
「まったくの想像だが、恐らく大下の仕業じゃないかと思っている。そして、
河田玉恵もまた、僕を全面的に信頼していた訳じゃないようだ。大下とも相談
するつもりでいた気がする。あの日、僕がうかうかと眠ったのは、彼女がくれ
た食べ物か飲み物に、眠り薬の類が混入してあったんじゃないかと睨んでいる
んだ。検査が遅くなって、検出できなかったのが残念だよ」
 食べ残し、飲み残しは全て処分されていたとのことだ。
「その河田を、大下が裏切った……」
 僕は、大下の犯行を示唆した形でひとまず書き終えると、事件のファイルを
未完の形で保存した。パソコンの向きを換え、その文章を先輩に見せる。
 先輩はざっと目を通しつつ、気になることを言い出した。
「大下の犯行を想定すると、大部分でしっくり来るのは事実だ。反面、さらな
る裏がある予感もするんだよ」
「と、云いますと?」
「君は気付かなかったかい? 色々と出来すぎな点が、いくつかある。たとえ
ば、笠置の右足切断事故が起きた夜、笠置が河田と会えたのは偶然のはずだが、
その後の展開を思うと、不自然な気がしてくる。また、河田が大下に助けを求
めると、彼は近くの町にいた。しかも、北陸出身の彼が、何故か甲信越に隠れ
家を用意できた」
 謎めかす先輩に、僕は尋ねずにはいられなかった。
「一体何が云いたいんですか? 裏ってどんな……」
「大下とは別に、真犯人がいるのかもしれない」
 十文字先輩は意外なほど強い調子で云った。かもしれないという表現を用い
たにも拘わらず、断言を感じさせる口調だ。
「手始めに僕は、ある人物の出身地を調べてみるつもりだよ」
 名探偵は最後まで謎めかした。

――終




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