#412/598 ●長編 *** コメント #411 ***
★タイトル (AZA ) 12/07/14 00:07 (261)
交換のことわり 2 永山
★内容 14/11/29 15:57 修正 第2版
病院周辺に警察車両は見当たらない。尤も、わざわざパトロールカーで駆け
つけるかどうかは知らないが……少なくとも騒然とした雰囲気はなかった。
心に若干の余裕が生まれた松村は、タクシーを降りると、足早に建物へ近付
いた。病院の玄関ドアに札が掛かっているのだが、車中からでは読み取れなか
ったのだ。
予想通り、休診を告げる札だった。いや、日曜は元々休診なのだが、ドアに
掛けられた札には、明日月曜も臨時休診となることが手書きされている。
松村は病院を離れ、少し歩いてから通りすがりの人――多分、主婦――に声
を掛けた。湯田病院が休みになっているが、何かあったのですか?と。
女性は詳しくは知らないけれどと前置きした上で、「湯田先生と連絡が付か
なくなっているみたいですよ。今朝早くに婦長さんだか夫人だかが、この近所
を探してらして……」と教えてくれた。
松村は礼を述べ、とりあえず病院から遠ざかることにした。タクシーを捕ま
え、自宅方向を指示する。
(湯田は行方不明ってことか。生きていて自ら姿をくらましたのか、俺が殺し
たあと、誰かが死体を公園から移動した?)
松村はタクシーの後部座席で、首を捻った。どちらにしてもありそうにない。
今思い返しても、確実に殺した手応えがあった。といって、誰かが死体を移動
させるなんて奇特なことをやるとも考えにくい。
(他の奴が起こした殺人事件の死体を動かすなんて、メリットがなきゃ誰もや
らない。……メリット?)
松村はつい、声を上げそうになった。が、タクシー内ではまずいので、家に
入るまで取っておいた。
「そうか。あるとしたら、死体移動。そんなことをやるのは、あいつしかいな
い」
松村の脳裏に浮かんだのは、黒川光の顔。健康ランドで交換殺人を持ち掛け
てきたが、話がまとまらず、それっきりになっていた。
(交換殺人の相手を見つけられず、思いあまった黒川は、やはり俺を共犯にし
ようと考えたんじゃないか? 奴は俺の名前を知らなくても、湯田の名前を知
っている。俺が八月四日に湯田を殺す可能性が高いことも把握できたはず。と
なると、湯田の住所を突き止めさえすれば、当日、湯田を尾行することで殺害
場面に出くわせる。黒川はあのとき、俺が湯田を殺すのを物陰から見ていたん
だ。そして、慌ててて立ち去る俺を見て、俺の無策ぶりも推測できたに違いな
い。そこで黒川は死体を移動することで、俺のアリバイを成立させ、俺に恩を
売った気でいるんだろう)
松村は部屋の中を歩き回りながら、握り拳を作っていた。推測が確信に変わ
りつつあった。
(近い内に湯田の死体は発見され、俺のアリバイは成立するんだろう。それか
らしばらくしてほとぼりが冷めた頃、あいつは俺に接触してくるつもりだ。ア
リバイを作ってやった代わりに、指定する人物を始末してくれと)
筋が通っているように思えた。少なくとも、湯田の死体を移動する者がいた
とすれば、黒川の他に考えられない。
自分の推測に満足した松村は、次に対策を講じようと椅子に腰を落ち着けた。
が、ふと引っ掛かりを覚えた。
(わざわざ死体を移動してアリバイを作ってやった、なんて貸しを作る必要が
あるか? 殺害現場を目撃したのなら、そのことのみで俺を脅せるだろう。い
くら“破談”に終わったとはいえ、俺が交換殺人の件を警察に持ち込めるはず
ないことぐらい、黒川にも充分予測できるはず。現時点では、あいつの方が圧
倒的に有利な立場だ。なのにアリバイ作りで貸しを……交換殺人を持ち掛けた
手前、最低限の義理を果たしたつもりか?)
心理状態を突き止めようと、仮説の構築を試みるが、しっくり来ない。そも
そも黒川の関与自体、確定した事実ではないのだ。
「向こうからのコンタクトを待つしかないのか……」
極めて嫌な焦燥感に全身を包まれる。松村はテーブルに片肘をつくと、空い
ている手の指で、自分の膝を苛立たしげに叩き始めた。
湯田を殺害してから八日後、松村は別の焦燥感を覚え出していた。
(推測は大外れだったのかもしれない)
このところ、ニュースに注意しているのだが、湯田黎太郎の遺体が発見され
たとの報道は一向にされない。病院は相変わらず閉じたままで、張り紙に理由
をはっきりとは書いていないので、湯田が行方不明なのは確実だ。警察に届け
が出ているのかもしれない。
(早く発見されないと、死亡推定時刻に幅が出て、俺のアリバイが成り立たな
くなるぞ)
心の中で、黒川に呼び掛ける。
(それとも……死体を永久に始末したのか? だとしたら、ありがたいことこ
の上ないが、そんな都合のいい、死体の隠し場所だか処理方法だかがあるのな
ら、交換殺人の相手を探さなくても、黒川単独で大宮とやらを殺し、死体を処
理すれば済む話ではないか)
返事は無論なし。不気味さだけが松村の頭上から、身体の内部へと、染み渡
るように降りて来る。気持ちの悪い感覚にとらわれ、あがいても拭いきれない。
(あいつに会わなければならない)
自分の推測が当たっていようがいまいが、黒川の存在がとにかく不気味でた
まらない。幸い、本名は分かっている。喫茶店で会ったとき、免許証の一部を
見せられ、確認した。
(顔も分かっている。ターゲットの大宮は仮の名前だが、大宮を恨みに到る背
景は聞いた。あれも手掛かりになるはず。独力で探し出せるんじゃないだろう
か)
松村は日曜の昼前から、再びネット検索を頼りに、黒川光の名前や彼が経験
したはずの“事件”を探し始めた。
だが、事件があまりに小さいためか、一向にヒットしない。黒川光の名も同
姓同名もしくは類似の別人ばかりで、これというものに行き当たりはしなかっ
た。
(大学名が職場名さえ分かれば、どうにかなると思うんだが)
インスタントの昼食を済ませる頃には、限界を感じていた。
(興信所に頼むか……しかし、俺が黒川を探していることを第三者に知られる
のは、マイナス面が大きい。もし殺人が発覚したとき、弱点になる。他の手段
を執る方がいい。何か手掛かり……あの健康ランドの常連だとしたら、あそこ
で張っていれば顔を合わす可能性はあるだろうが、確証がない。その上、こん
なやり方で幾日も粘った挙げ句、防犯カメラに姿を何度も録られるのは避けた
いところ……)
危ない橋を渡らずに済む方法を探し求める松村だが、どれもすぐに壁にぶち
当たる。
(俺が他人になりすました上で、興信所に依頼するのはどうか。身分証明を求
めてくる興信所ばかりではあるまい。むしろ、依頼者の身分を詮索することな
く、仕事を引き受ける探偵も、大勢いるに違いない)
なかなかよいアイディアに思えた。細かいことを詮索せずに引き受ける探偵
さえ見つかれば、だが。
(万が一、探偵に勘付かれて、そいつから脅迫されては元も子もないしな。探
偵選びは慎重に慎重を重ね、依頼の文言もよく練る必要がある)
――そうして松村が探偵に、黒川光の住所その他連絡先を突き止めるよう依
頼してから十日が経った。探偵からの報告では、芳しい成果は上がっていない。
その一方で、一週間後には追加料金が発生すると、しっかり告げてきた。
(警察やマスコミに通じた独自の情報ルートを持っている、なんてことには期
待していなかったが……こうも薄いレポートだと、疑ってしまう。本当にちゃ
んと調べてるんだろうな)
たまの旅行ぐらいしか趣味を持たない松村は、それなりに貯め込んではいる
が、しがないサラリーマンの身でいつまでも調査費を出せる訳もない。
(湯田もいつまでも行方不明のまま。一体どうなってるんだ)
松村が自宅で嘆息した、休日の真っ昼間。思い掛けない電話があった。
携帯電話に表示された記憶にない番号に警戒を抱きつつ、松村が出てみると、
聞き覚えのある男の声がすぐさま言った。
「ようやく見つけましたよ、松村さん。いや、灰田さんと呼んだ方が分かりい
いでしょうか?」
「あんた、黒川――さんか?」
「はい。今、お宅の近くまで来てるのですが、在宅ですか? まあ、おられて
も上がり込むのはやめておきますが」
「どうやって分かった? こっちもあんたを捜していたんだ、確かめたいこと
があって」
勢い込む松村に、黒川は落ち着いた調子で持ち掛けてきた。
「では前回のように、喫茶店で落ち合いましょうか。防犯カメラも何もない、
寂れた店がいいですね」
「分かった」
松村は条件に当てはまる店を思い浮かべ、相手に伝えた。
その喫茶店で昼飯を兼ねた軽食を摂りながらという、案外のんびりした雰囲
気の中、話は始まった。
「まず、私があなたの居場所を突き止めた経緯からお話しましょう。でないと
薄気味悪いでしょうから」
「まあ、そうかな」
松村は意味なく強がってみせた。本心では、知りたい。松村の側ではまだ黒
川のことを何も掴めていなかっただけに、なおさらだ。
「特別な種はないんです。実は八月四日、N公園に出向いたんです」
「やはりか」
推測が当たっていたようだ。松村はやっと自信を取り戻した。
「湯田のあとをつけたんだな」
「それが、少し違いまして……。まあ、話がややこしくならないよう、私があ
なたの居場所を突き止めた経緯を先に片付けましょう。私は倒れている湯田を
見つけ、死んでいるのを確認しました。そしてある理由から、死体を別の場所
に移した。遺体を捨てる際、湯田とあなたが会っていたことを示唆するメモで
もあっては、遺体が発見されたときにまずいと思い、懐を探ったのです。そう
したら、携帯電話にあなたの情報があった。もちろん、灰田という名前ではな
かったが、スケジュール欄に“松村に会う”とあり、その日時が八月四日に該
当したので、推測は容易でした」
「……」
松村は冷や汗を覚えた。湯田はそんなデータを残していたのか。いや、当然
思い当たるべき可能性なのだが、殺害時の軽いパニックのおかげで、そこまで
気が回らなかった。
黒川はここまで言うからには、携帯電話のデータは処分したのだろう。
「それでまあ、いつかひょっとしたら必要になるかもしれないと考え、あなた
のデータをメモに取っておいたのです」
「よく分かった。それで、私に会いに来た理由は何だ? 大宮を殺してくれと
頼みに来たんじゃなさそうだが」
「ええ。もしかしたら気付いておられるかと思ったのですが、どうやらまだの
ようで。私のターゲットたる大宮は、N公園で八月四日、死体になっています」
「――まさか、あの、何て名前だったか……小宮、小宮山か? どこかの研究
所で働いているとかいう男が殺されていたとニュースでやっていた覚えがある」
テーブルに手をつき、身を乗り出した拍子に、お冷やのグラスに腕が当たり、
倒しそうになった。慌てて押さえると、どうにか事なきを得た。
「ご名答です。願いは成就しました」
満足げな笑みを浮かべた黒川。日常会話と変わらぬトーンである。松村は、
自分よりもよほど黒川の方が度胸が据わっているのだろうと認めた。
「でも、手を下したのは私じゃありません」
「私の他の誰かに、交換殺人を持ち掛けて決行したんだな」
「おお、素晴らしい。さすが、私が見込んだ方だ。その相手の名前、分かりま
すか」
「分かる訳が……待て。そうやってわざわざ聞くからには、俺の知っている奴
なんだな」
松村はつい、一人称を使い慣れた「俺」に戻していた。そのことに気付かず、
考える。そして一人の名が浮かんだ。ちょっと信じがたい。恐る恐る、その名
前を口にする。
「まさかとは思うが、湯田か?」
「まさかではないでしょう。うまくやり仰せれば、湯田黎太郎こそ、私にとっ
て最高の共犯者でしたよ、あの時点ではね」
黒川が得意げになった。焼き飯をかき込み、コーヒーを飲んでから続ける。
「あなたに交換殺人の話を断られてから、私は悩みました。折角、よさそうな
人と巡り会えたのに、まとまらなかったのが残念でならない。せめてこれを活
かせないかと考え、はっと閃いた。湯田に交換殺人を持ち掛けようと」
「だから、どうして湯田が最高の相手なんだか、説明してくれ」
「決まっています。湯田と組めば、私は殺人を犯さずに済む可能性が高かった。
何故なら、湯田は八月四日までに、あなたによって始末される可能性が大だっ
たから」
「……なるほど」
黒川の目論見を理解し、松村は真に感心した。
(ユニークな策略だ。湯田に交換殺人を持ち掛けて話をまとめ、八月四日まで
に小宮山を殺させる。湯田が先に決行するよう仕向けるのも大切だな。小宮山
を殺した湯田を、俺が殺したことで、黒川は交換の義務から解放される……)
そういえば、と松村は思い出したことが一つあった。
(公園で会ったとき、湯田はしきりに手のひらを気にしていた。あれはもしか
すると、紐状の凶器を使って小宮山を殺害した際に、力を込めるあまり、自分
自身の手にも鬱血のような痕跡が残った。それを気にしていたのかもしれない
な)
「ただ、話をまとめ上げるのは非常に、これ以上ないくらいにうまく運んだの
ですが、禍福はあざなえる縄のごとしというものなのか、実行の段になって、
僅かずつずれが生じました。湯田は小宮山殺しに関し、自分自身もなるべくア
リバイめいたものを確保しようと考えたようなんです。私から言わせれば、彼
には小宮山を殺す動機がないのだから、そんなこと必要ないんですが、あの人
は万全を期したがるタイプのようで」
「アリバイ証人に、この俺を選んだ訳か」
半ば呆れ気味に、松村は言った。黒川は大きく首肯し、言葉を継いだ。
「恐らく、裁判沙汰にもなりかねない問題を抱えた相手と一緒にいたなら強力
なアリバイになる、と計算したんでしょうね。もちろん、私はそんなことは全
く知りませんでした。八月四日にN公園で実行するとだけ聞かされていた。期
間ぎりぎりなのが気になったのですが、強く不満をぶつける訳にもいかず、妥
協しました。それで、私は当日のアリバイを確保し、湯田が小宮山を殺してか
ら充分に時間が経った頃合いに、N公園に向かったのです。小宮山の死を確か
めるのが目的でした。それまでに警察に通報されたなら、引き返すつもりでし
たが、そうはなっていなかった。目的を達したあと、湯田と連絡を取ろうとし
つつ、公園内を移動していると、死んでいる湯田を見つけたのです。ぴんと来
ましたよ。ああ、灰田さんの仕業だとね」
「ふむ。状況は分かった。遺体を動かした理由も聞かせてもらえるか」
「N公園内に、同じ日に二つの他殺体があったら、警察に関連性を探られるに
決まってます。どちらか一方を隠す必要がある。私は車で回って、学習教材の
訪問販売をやってるのですが、N公園にはその車で来ていました。だから遺体
移動の手段には困らない。あとは、どちらの遺体を動かすかですが、小宮山の
方を動かすのは気が進まない。下手を打つと、私のアリバイが消し飛んでしま
いますからね。一方、湯田を動かすのはどうか。私には関係ないし、あなたに
とって好都合になるはず。そう踏んで、湯田を移動させたのです」
己が手を掛けた死体が消え、別の殺人が発生していたという奇妙な事態に混
乱を来した松村だったが、黒川の説明を聞いてすっきりした。分かってみれば、
奇妙でも何でもない。事態は進むべき道を辿った、それだけに過ぎなかった。
「黒川さんの手並みは分かった。すばらしい。俺にとっても、ありがたい判断
をしてくれたと思う。で? 黒川さん、あんたが今日、俺にコンタクトしてき
た訳を聞かせてもらおう。まさか、感謝の言葉を聞きたくて来たんじゃあるま
い?」
警戒心をよみがえらせ、松村は尋ねた。黒川は心理的優位を感じ取っている
のか、すぐには答えない。ツナサラダを平らげたあと、悠然と喋り出す。
「感謝は私もしなければならない立場ですから、お互い様です。今日伺った目
的は、実は」
声を潜める黒川。緊迫の度合いが一段上がったようだ。虚を突かれた心持ち
の松村は、背筋が伸びる思いをした。
「実は、あなたに一人、始末してもらいたいなと思ったからです」
やはりな。内心つぶやきながら、松村は相手を斜め前から見据えた。
「交換殺人の話は断ったはずだ。俺は独りで標的を消した。それで完結してい
る。黒川さんのやったことは、俺のためにはなったが、勝手なアシストだろう。
それを恩に着せられても――」
「ストップ。これは失礼。誤解させてしまいましたね」
黒川は再び穏やかな口調に戻った。
「これは新たな交換の呼び掛けです。私は小宮山を葬って、念願を達成したつ
もりでいました。しかし、完全にはすっきりしていない。もやもやしたものが
残っている。原因を考え、じきに思い当りました。私を痴漢呼ばわりしてはめ
たあの女が、まだのうのうと生きている。それを想像するだけで、たまらなく
なりましてね。こりゃあ、あの女も始末しないと、気が収まらないなと気付い
た訳ですよ。もし応じてくださるのであれば、今度こそ灰田さん、いや松村さ
んのご都合に沿うようにします。松村さんにもあと一人ぐらい、この世から消
えたもらいたい人間、いるでしょう?」
「その前に……俺に拒否権はあるのかな?」
「さあ、どうでしょう」
とぼけ顔の黒川。松村は奥歯で歯ぎしりをした。
(こいつはおれが湯田を殺した証拠を握っている。少なくとも、そのチャンス
があったはずだ。抜け目のないこの男が、チャンスを逃したとは思えない)
「私も強引な手は使いたくありませんから、断られたときは、とりあえず、ま
た別のパートナーを探してみるつもりではいます」
黒川の飄々とした態度に、松村は冷や汗を覚えた。
(組んだとしても、黒川を信用できるのか? 湯田をうまく利用したみたいに、
俺も利用されたあと、殺されるのでは?)
疑心暗鬼にかられる。返答を決めかねる。一分近くも黙考し、やがて松村は
口を開いた。
「この話、ことわ――」
――終わり