#411/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 12/07/14 00:06 (314)
交換のことわり 1 永山
★内容
リクライニングシートの上で、松村清春(まつむらきよはる)は目を覚まし
た。薄暗い空間を見回す。いわゆる健康ランドの仮眠室にいるのだと思い出し
た。施設は使用料金が若干高めな分、納得できるきれいさ・新しさを保ってい
た。利用者は少なくないが、席はそれ以上に充分な数が用意されており、隣り
合うシートはどれも空っぽだ。
喉の渇きを覚えた松村は立ち上がると、各階に備え付けのウォーターサーバ
ーを目指した。使い捨てのコップに一杯と半分ほど飲んで、引き返そうとする
と、小さな声で呼び止められた。
「あの、もし」
気弱そうな声に振り返ると、そのイメージからさほどぶれのない、中肉中背
で色白の男が立っていた。
「何か」
似たような小声で応じる松村。相手の男は松村より若く、大学生ぐらいだろ
うか。童顔のようだから、実際はもう少し上かもしれない。
「先ほど、といっても一時間くらい経っていますが……私、寝言を聞いてしま
ったのです」
「ああ、うるさかったですか。そりゃすみません」
軽く頭を下げ、そのままきびすを返そうとした松村を、男は重ねて引き止め
た。
「そ、そういうことじゃないんです。お待ちを。私は黒川光(くろかわひかる)
と言います」
「はあ」
もしかすると同性愛者かと警戒する。生白い奴だが、外見と違って腕力はあ
るのかもしれない。実際、腕は太く、肩の辺りが盛り上がっている。
そんな気でいた松村を驚かせることを、黒川と名乗る男は言い出した。
「あなたが始末したい相手を、私が代わりに始末して差し上げようと思うので
すが、いかがでしょうか」
「――」
理解不能なことを言われ、松村は首を捻った。関わらぬ方がよさそうだ。相
手を無視して、仮眠室を目指し、自分のいたシートに早く戻ろう。いや、この
男が近くのシートを利用しているのなら、こちらが移動する必要がある。
「待ってください。湯田(ゆだ)という奴を憎んでいるんでしょう?」
これには歩みを止めざるを得なかった。まさしく、松村は湯田黎太郎(ゆだ
れいたろう)を殺したいほど憎んでいる。
「まさか」
思わず、呟いていた。寝言で口走ったのか。憎い相手の名前と殺意を。それ
をこの黒川に聞かれた……。
「か、勘違いしないでくださいよ。私はあなたと協力し合いたいだけなんです
から」
黒川は焦ったように両手を身体の前で振った。それだけ松村が恐い表情にな
っていたに違いない。
「協力し合いたい、だと?」
その台詞を噛み締め、吟味する松村。無論、周囲への注意も怠らない。真夜
中のようだが、いつ誰が通り掛かるともしれない。
「あんたも同じ悩みを抱えているという意味か?」
「はい。一人、どうしても許せない男がいます」
真剣な、というよりも生真面目な顔付きで黒川は肯定した。
交換殺人か――関心を抱いた松村だったが、今この環境でするのにふさわし
い話とは思えなかった。とはいえ、計画に乗る乗らないは別として、殺したい
相手の名前を黒川に知られた事実を看過してはおけない。
どう振る舞うべきか迷っていると、黒川から提案してきた。
「もし朝になっても気が変わってなければ、この建物の裏通りを、西に行った
先に寂れた喫茶店がありますから、そこで話しませんか」
「……よかろう。オープンは?」
「確か、九時です」
「分かった。十時までに現れなかったら、気が変わったものと受け止めてもら
いたい」
「了解しました」
黒川はそう言うと、壁に掛かる案内板を見た。
「別の仮眠室に移ることにします」
九時十五分過ぎ、指定された喫茶店に出向く。半地下の構造になっていて、
外観は古びて汚かったが、内装はそこそこ手入れされていた。客は黒川の他に
は見当たらない。店員もオーナーらしき初老の男一人きりのようだ。
コーヒーを注文する際、モーニングセットを断ると、豆菓子が付いて出て来
た。
奥に厨房を構えたカウンターの向こうに店員が引っ込み、スポーツ新聞を広
げたところで、黒川が本題を切り出した。
「最初に、話がまとまらない場合を考え、お互いに個人情報を出すのは最低限
にとどめるとしましょう。あなたは私の名前を知っているが、標的については
知らない。私は逆にあなたの名前を知らないが、標的については名前だけ知っ
ている」
今後、もし松村が一人で湯田を殺害し、それが事件として報道されても、黒
川は密告などしない、したくても簡単にはできないという意味だ。
「じゃあ、私のことは……灰田(はいだ)とでも呼べばいい。黒川さんの標的
は、何と呼ぼうか?」
「そうですね、大宮(おおみや)、としておいてください」
黒川はまず、どうして大宮を殺したいほど憎むようになったのかを、静かに、
しかし熱の籠もった口調で語った。大宮と黒川は大学の同期でゼミも同じ、と
もに院に進んで研究者を目指したが、二人の間の雑談から生まれたアイディア
を抜け駆けした大宮は重用され、黒川は日陰に追いやられる羽目に。
「それでも私は、あいつが機を逃さなかっただけであり、自分が間抜けだった
のだと納得しようとしていたのですが、あいつの方が勝手に私を恐れるように
なった。私は教職に就いていたのですが、痴漢の濡れ衣を着せられて、辞めざ
るを得なくなりました。あとになって分かったのですが、全てはあいつが裏で
糸を引いていたのです。私の社会的地位を失墜させる目的で、女性を使い、あ
りもしない痴漢騒ぎをでっち上げた」
松村は表情を変えず、内心ではそこまで分かるものなのか?と多少訝しんだ。
痴漢冤罪の件は本当だとしても、その裏にある“真実”とやらは、黒川の被害
妄想が産んだものなのかもしれない。その女性や大宮を訴えたのか問おうと思
った松村だったが、気が変わった。そんなことを詮索しても、意味がない。松
村が今、最も気になるのは、眼前に座る男が交換殺人のパートナーとして信頼
に足るかどうか、だ。
「灰田さん、私が大宮を始末したい気持ち、分かっていただけますよね?」
「ああ。よく分かった。一つ、尋ねたいのだが」
黒川はコーヒーではなく、お冷やで喉を潤し、「何なりと」と応じた。
「始末したい相手は、大宮一人だけで済むのか? でっち上げに協力した女の
方は?」
「大宮だけです。あいつさえいなくなれば、私の気は収まる。まあ、計画実行
より前に、あいつが事故か何かで死ねば、女の方を殺してくださいとお願いす
るかもしれませんが、そんな偶然は起きますまい」
黒川は、逆に質問してよいか、聞いてきた。松村は即座に頷く。
「あなたが湯田なる人物を始末したいと願う理由を、知っておきたい」
「……その点は、寝言で口走っていなかった訳か」
「助けてくださいとか助けてくれとか、熱に浮かされたみたいに繰り返し言っ
ていたのは聞きました」
「そんなことまで言ってたか」
顔が紅潮するのを自覚した松村。恥ずかしさもあるが、それ以上に憤怒の思
いが沸き上がる。当時の記憶が甦り、松村に歯ぎしりをさせた。
「だらだら話すつもりはない。私の恋人が死んだ最大の理由は、湯田にあるん
だ。直接の原因は事故なんだが、その際、すぐ近くにいた湯田は医師であるの
もかかわらず、知らぬふりを通した」
松村はまだ黒川を完全に信用した訳ではない。事故内容などの詳細を喋ると、
湯田の身元を突き止められ、さらには松村自身についての個人情報を掴まれる
かもしれない。それを恐れ、最小限のことしか話さなかった。
「この事実を知ったあとも、私は気にしないでおこうと努力した。湯田にも湯
田の都合があったのだろう。ちょうどタイミング悪く、急ぎの用を抱えていた
に違いない。そう考えるようにした。だが、湯田が利己的な理由でそれまで付
き合っていた女性と別れ、有力者の娘との結婚に走ったことを聞き、我慢の限
度を超えた。事故当日、急いでいたのもその婚約者との大事な約束があったか
ららしい。人の命を預かる医師として、利己的すぎる。あいつを生かしていて
も、世のためにならないと思ったね」
「……あの、私も質問をしてよろしいでしょうか」
「もちろん。答えられないことは、はっきりと拒否するが」
「多分、大丈夫でしょう。灰田さんは湯田に関する噂や情報を、どうやって入
手したのですか」
「簡単だ。自分で調べた。興信所に頼むようなことはしていない」
「それなら、灰田さんから憎まれているとは、湯田は知らないのでは?」
「いや、湯田の職業が医者と知った直後、すぐに抗議に行った。抗議と呼べる
レベルじゃなかったな。文句をぶつけて、罵倒してやりたかったんだ。その場
で周囲の人間に止められ、収まったが、私が憎んでいることは承知しているだ
ろう」
「それなら、仕方ありませんね」
憎悪を秘めたまま殺せば、交換殺人だのアリバイ工作だのに腐心しなくて済
んだでしょうに、といったニュアンスが感じられた。確かにその通りなのだか
ら、松村に返す言葉はない。
「では、ここからが本論になります。互いの始末したい相手を交換する気は、
おありですか?」
「恨みを晴らすことが一番だ。そのために適した手段があるなら、採用を考え
る」
「……一応、イエスの返事と受け取りました」
黒川は口元だけで笑うと、続けた。
「恐らく、一番懸念されるのは、信頼できるかどうか、でしょう。途中で計画
を口外したり、一人がやったのにもう一人が躊躇して逃げたりでは困ります」
「念書を交わす。それでいいんじゃないか」
交換殺人の約束をしたこと、誰それを殺すことを自筆した念書を、お互いが
相手に渡しておけば、裏切れないはず。
「灰田さんがそれでよろしいのであれば、私もかまいません。具体的に決まっ
たら、そうしましょう。それから、次に問題になるとしたら、本当に相手を始
末できるか、ですか」
「心理的な意味ではなく、体格面などの点で実際にやれるかってことか」
「察しがよくて助かります。殺害方法にも関わってきますが、毒を手に入れる
なんてことは、私には無理です。灰田さんは?」
「無理だろうな。そりゃ、死んだ気になって盗みに入るなんてことをすれば、
可能かもしれないが、そんなリスクを冒すのは無駄だ」
「ならば、刺すか絞めるか殴る辺りになってくる。私が見るに、灰田さんの体
格なら、こ……おっと、本名を言いそうになった。大宮を始末するのに支障は
ないと思います」
「こっちも同様だ。湯田はやせのひょろひょろで、勉強ばかりしてきたような
男だよ」
「ではこの点も問題なしと。仮にやるとしたら、いつがよいでしょう?」
「俺は今、かなり自由の利く立場だから、ほぼいつでも応じられると思う。逆
に、湯田を始末する日を指定したいんだが……」
「といいますと?」
黒川の眼の開き具合が大きくなる。初めて主導権を失って、不安が覗いたと
いったところか。
「湯田は、恋人の命日に死ぬべきだ。死の間際に、思い出すかもしれない。思
い出して悔やみながら地獄に堕ちればいい」
「お気持ちは理解できます。して、その日付は?」
「だいたいひと月先になる。八月の四日だ。この日なら自分自身のアリバイも
確保しやすい。一周忌で人が集まる」
「え……まずいな、それは」
表情が曇り、目線が下がる黒川。
「不都合が?」
「え、ええ。誕生祝いをしてやる予定なんです、私の家族の。無論、一日中お
祝いする訳じゃありませんが、そんな日に他人の命を、ねえ」
すまなそうに言う黒川に、松村は黙って頷いた。心理は理解できる。八月四
日に復讐を果たしたい自分の気持ちだけを押し付け、相手の気持ちを無視する
訳にはいかない。
「他の日ではだめなんでしょうね」
「正直言って、日をずらすのは本意ではないが……彼女が事故に遭った日は、
七月三十一日だ」
「申し訳ない、七月末は物理的に無理なんです。実は――」
「結構、聞かないことにしましょう」
きっぱりと言い、松村は自らの懐に手をやった。財布を探す。
「こうもすれ違いが生じるのは、このまま突き進むべきでないとの暗示かもし
れない。縁がなかったとあきらめるのが賢明だ」
「そう、ですね」
若干の未練を滲ませつつも、黒川は同意した。
「お互い、会ったことは忘れるとしましょう」
「ああ。忘れるのは難しいかもしれんが、口外するようなことは絶対にないと
約束する」
松村は自分の飲んだコーヒー代をテーブルに置くと、「念には念を入れて、
時間をずらして出るとしよう」と言った。
恋人の命日が近付いてきた。松村は湯田を殺す決意を固めていたが、思いが
けない動きがあった。当の湯田から、会って話がしたいと短い手紙が届いたの
である。立場上、公に謝罪することは難しいが、内密になら誠意を示せるかも
しれないとの旨及びこの手紙は焼き捨ててくれと記してあった。
松村の脳裏に、湯田に最後のチャンスを与えようかという考えがよぎった。
心が少し揺れた理由は、湯田が話し合いに指定した日付が八月四日だったため。
あんな男でも、この日の持つ重大な意味を承知していたとみえる。
(会うのはいいが、夜の公園とは)
気懸かりに思いを巡らせた松村。湯田が指定してきたのはN公園という、都
内有数の広さを持つ公園で、その広大さ故、内密の話をするのに適していると
言えるかもしれない待ち合わせ時刻が十八時。夏の午後六時はまだ暗いとまで
は言えないだろうが、今までの素っ気ない対応ぶりを思うと、何か裏があるの
ではと勘繰ってしまう。
(用心のため、得物を持って行くか)
万が一、湯田が襲ってきたら返り討ちにする。その準備はしておこうと誓っ
た。うまくすれば正当防衛の形で、復讐を果たせるかもしれない。
謝罪のチャンスを与える気持ちと、復讐を果たそうとする気持ち、相反する
二つの気持ちが松村の中で綯い交ぜになっていた。
やはり湯田とは会うべきでなかった。松村は呼吸をようやく整えると、痛感
した。
結果から記すと、正当防衛にはなりそうになかった。だから、松村は湯田を
扼殺したあと、すぐに現場から遠ざかった。用意した凶器のナイフや革紐を使
う余裕はなかった。激昂して手を出してしまった。
最初、話し合いは穏やかに始まった。時間ちょうどに息せき切って現れた湯
田は、松村に対し、呼び出しに応じてくれたことに謝意を述べた。人目に付き
にくいベンチに腰を据えてから、まずは松村の意見を聞きましょうという態度
を取った。ある意味、この場面を夢見ていた松村は、積もり積もった思いをぶ
ちまけた。一応、湯田の意を汲み、周囲に聞こえない程度の音量ではあったが、
強い語気で相手の職業倫理の欠如や不誠実さを指摘した。恋人がどれほど苦し
んで、そして死を迎えたかも詳細に伝えた。さらに、今日まで話し合いの時間
を取ってくれなかったことをなじった。
湯田は自らの両手のひらを親指で交互にさすりながら、ずっと黙って聞いて
いた。が、およそ四十五分が経過した頃、口を開いた。「それで結局、どうし
て欲しいのか」と。
松村は一番に謝罪を求めた。墓前での謝罪と、公的な謝罪の両方をだ。しか
し、ことを表面化したくない湯田にとって、墓前に出向くのはまだしも、公で
の謝罪は受け入れられないものとして、拒否された。
ならば、明日にでもことを公にしてやろうかと、松村が脅しを掛けると、湯
田は態度をより硬化させた。
「所詮は金が欲しいだけなんだろう? 具体的な額を言って来たら、考えてや
る。常識の範囲で決着しようじゃないか」
湯田は吐き捨てるように言うと、腕時計を一瞥し、いきなりベンチから立っ
た。話し合いを打ち切るのは明らかだった。歩き出した湯田に松村が追いすが
り、立ち止まらせるために肩へと手を伸ばす。それを乱暴に払われた。怒りの
導火線に火が近付く。絶妙のタイミングで、湯田から罵倒の言葉が飛んで来た。
「度を超せば、おまえのやっていることは脅迫・恐喝、犯罪だ。身の程を弁え
ろ、己を知れっ」
捨て台詞を残して足早に去ろうとする湯田。松村は後ろから掴みかかり、無
我夢中のまま、腕に力を入れた。気付いたときには、完全に脱力した湯田の身
体が地面に横たわっていた。
綿密な計画を立てて殺すつもりが、こんな突発的な形で決行してしまった。
数瞬の茫然自失が去ると、逃げることのみが頭に浮かぶ。慌てふためいて目立
っては逆効果、と判断する冷静さはかろうじて残っていた。そうして歩いて公
園を出て来たにも拘わらず、息はかなり乱れていた。
自宅に直行する気でいたが、警察が待ち構えているような想像が沸き起こり、
すぐには戻れなくなった。仕方なく、馴染みの飲み屋に足を運び、時間を潰し
た。いや、落ち着くためにアルコールの力を借りた。
店には三時間ほどいて、顔見知りの店員や客と普通に会話できたことで、自
信を持った。踏ん切りを付け、帰宅した松村は、警察らしき人影や車両がない
ことにほっと安堵した。
が、部屋に入ると、真夏にもかかわらず、全ての鍵を内側から施錠した。亡
くなった恋人の写真に報告することさえ忘れ、またテレビを付けて情報を集め
ることもしない。城に戻った安心感あったが、それ故に弱さもさらけ出した。
ただただ震えた。自分はこんなにも度胸がなかったのかと驚くほどだった。
明け方に少し眠れた松村は、目覚まし時計に起こされて出勤の準備を始めた。
が、今日が日曜だと気が付いて、椅子にがっくりと座り込んだ。
寝床に戻るという選択肢もあったが、事件がすでに発覚したのか、気懸かり
だ。黙ってテレビを点け、ニュース番組にチャンネルを合わせてから、簡単な
朝食を用意する。
ほとんど味を感じないまま、朝食を済ませたが、ニュースで湯田の事件が報
じられることは最後までなかった。
(まだ見つかっていないのか。いや、それはあるまい。いくら広い公園でも、
通り道に放置してきたんだ。発見されたのは間違いないだろう。すると……他
殺でなく、病死と思われたのか? そんなまさか。医者が路上で死んでいたら、
死因が何であろうと報じられるはず。テレビで流すニュースバリューはないと
判断されたんだろうか)
松村はネットなら出ているかもしれないと思い立ち、パソコンを起動した。
古い機種であまり使っていないが、確証なしに新聞を買いに出るよりは早い。
早速、“湯田黎太郎”を検索してみる。表示されたのは、湯田のやっている
病院に関する情報がほとんどで、あとは何かの学会の名簿らしきリストあるい
は同姓同名と思しき人物に関するものだった。
「訳が分からない……」
呟いてから、病院の電話番号に眼をとめた。電話して湯田を呼び出しみるか
と考えた。だが、万が一、警察がすでに病院に出向いて、捜査を始めていたら
まずい。
(それよりも、もしもあいつが死んでいないなんて……)
最悪の事態を想像し、松村は知らず、震えを覚えた。殺したと思った相手が
あのあと蘇生し、警察に駆け込んでいたとしたら、完全にアウトだ。あるいは、
今、病院のベッドで意識を取り戻そうとしているのかもしれない。
松村は悪夢を振り払おうと、別の検索を試みた。可能性は低いが、湯田の身
元が確認されていないとすれば、“N公園 殺人”で何か分かるはず……。
「あ?」
表示された検索結果に、松村は驚きの声を小さく上げた。八月四日、N公園
で殺人が発生していた。その犠牲者は、小宮山大輝(こみやまだいき)という
名の男。大学と企業の共同プロジェクトに携わる研究者らしい。
(発見は昨日午後十時過ぎ。場所は……俺が湯田と会ったベンチとちょうど反
対側か)
死因は絞殺で、凶器はロープ状の物と推測されるが未発見。死亡推定時刻も
まだ出ていないようだ。
このニュースに絞って検索を重ねると、被害者の顔写真を見ることができた。
当たり前だが、湯田とは別人だった。
「俺は湯田を扼殺――腕で絞めた。この男はロープ状の凶器で絞められている。
だから、間違って殺した訳ではない」
自分自身に言い聞かせる。残る大きな疑問は二つ。湯田は本当に死んだのか。
小宮山大輝の事件が同日同じ場所で起きたのは偶然か。
確かめやすいのは、前者の方だろう。しかし、行動に移すには勇気がいる。
警察の罠という可能性は低いとしても、何の策もなく殺しを実行してしまった
松村にとって、迂闊な接触はしたくない。
(病院前を車で通り掛かれば、何か分かるかもしれない。車から降りなければ、
見咎められることもあるまい。しかし、ナンバープレートが)
松村は普段に比べ、極端に臆病になっていた。彼自身、そのことに気付き、
どこかで肝を据えねばならないと思った。気持ちの切り替えが必要だ。
少しの間考え、恋人の墓参を思い立った。彼女への報告を済ませたあとなら、
たとえ捕まっても悔いはない。湯田の病院に様子を探りに行くのは、そのあと
だ。
――続く
#412/598 ●長編 *** コメント #411 ***
★タイトル (AZA ) 12/07/14 00:07 (261)
交換のことわり 2 永山
★内容 14/11/29 15:57 修正 第2版
病院周辺に警察車両は見当たらない。尤も、わざわざパトロールカーで駆け
つけるかどうかは知らないが……少なくとも騒然とした雰囲気はなかった。
心に若干の余裕が生まれた松村は、タクシーを降りると、足早に建物へ近付
いた。病院の玄関ドアに札が掛かっているのだが、車中からでは読み取れなか
ったのだ。
予想通り、休診を告げる札だった。いや、日曜は元々休診なのだが、ドアに
掛けられた札には、明日月曜も臨時休診となることが手書きされている。
松村は病院を離れ、少し歩いてから通りすがりの人――多分、主婦――に声
を掛けた。湯田病院が休みになっているが、何かあったのですか?と。
女性は詳しくは知らないけれどと前置きした上で、「湯田先生と連絡が付か
なくなっているみたいですよ。今朝早くに婦長さんだか夫人だかが、この近所
を探してらして……」と教えてくれた。
松村は礼を述べ、とりあえず病院から遠ざかることにした。タクシーを捕ま
え、自宅方向を指示する。
(湯田は行方不明ってことか。生きていて自ら姿をくらましたのか、俺が殺し
たあと、誰かが死体を公園から移動した?)
松村はタクシーの後部座席で、首を捻った。どちらにしてもありそうにない。
今思い返しても、確実に殺した手応えがあった。といって、誰かが死体を移動
させるなんて奇特なことをやるとも考えにくい。
(他の奴が起こした殺人事件の死体を動かすなんて、メリットがなきゃ誰もや
らない。……メリット?)
松村はつい、声を上げそうになった。が、タクシー内ではまずいので、家に
入るまで取っておいた。
「そうか。あるとしたら、死体移動。そんなことをやるのは、あいつしかいな
い」
松村の脳裏に浮かんだのは、黒川光の顔。健康ランドで交換殺人を持ち掛け
てきたが、話がまとまらず、それっきりになっていた。
(交換殺人の相手を見つけられず、思いあまった黒川は、やはり俺を共犯にし
ようと考えたんじゃないか? 奴は俺の名前を知らなくても、湯田の名前を知
っている。俺が八月四日に湯田を殺す可能性が高いことも把握できたはず。と
なると、湯田の住所を突き止めさえすれば、当日、湯田を尾行することで殺害
場面に出くわせる。黒川はあのとき、俺が湯田を殺すのを物陰から見ていたん
だ。そして、慌ててて立ち去る俺を見て、俺の無策ぶりも推測できたに違いな
い。そこで黒川は死体を移動することで、俺のアリバイを成立させ、俺に恩を
売った気でいるんだろう)
松村は部屋の中を歩き回りながら、握り拳を作っていた。推測が確信に変わ
りつつあった。
(近い内に湯田の死体は発見され、俺のアリバイは成立するんだろう。それか
らしばらくしてほとぼりが冷めた頃、あいつは俺に接触してくるつもりだ。ア
リバイを作ってやった代わりに、指定する人物を始末してくれと)
筋が通っているように思えた。少なくとも、湯田の死体を移動する者がいた
とすれば、黒川の他に考えられない。
自分の推測に満足した松村は、次に対策を講じようと椅子に腰を落ち着けた。
が、ふと引っ掛かりを覚えた。
(わざわざ死体を移動してアリバイを作ってやった、なんて貸しを作る必要が
あるか? 殺害現場を目撃したのなら、そのことのみで俺を脅せるだろう。い
くら“破談”に終わったとはいえ、俺が交換殺人の件を警察に持ち込めるはず
ないことぐらい、黒川にも充分予測できるはず。現時点では、あいつの方が圧
倒的に有利な立場だ。なのにアリバイ作りで貸しを……交換殺人を持ち掛けた
手前、最低限の義理を果たしたつもりか?)
心理状態を突き止めようと、仮説の構築を試みるが、しっくり来ない。そも
そも黒川の関与自体、確定した事実ではないのだ。
「向こうからのコンタクトを待つしかないのか……」
極めて嫌な焦燥感に全身を包まれる。松村はテーブルに片肘をつくと、空い
ている手の指で、自分の膝を苛立たしげに叩き始めた。
湯田を殺害してから八日後、松村は別の焦燥感を覚え出していた。
(推測は大外れだったのかもしれない)
このところ、ニュースに注意しているのだが、湯田黎太郎の遺体が発見され
たとの報道は一向にされない。病院は相変わらず閉じたままで、張り紙に理由
をはっきりとは書いていないので、湯田が行方不明なのは確実だ。警察に届け
が出ているのかもしれない。
(早く発見されないと、死亡推定時刻に幅が出て、俺のアリバイが成り立たな
くなるぞ)
心の中で、黒川に呼び掛ける。
(それとも……死体を永久に始末したのか? だとしたら、ありがたいことこ
の上ないが、そんな都合のいい、死体の隠し場所だか処理方法だかがあるのな
ら、交換殺人の相手を探さなくても、黒川単独で大宮とやらを殺し、死体を処
理すれば済む話ではないか)
返事は無論なし。不気味さだけが松村の頭上から、身体の内部へと、染み渡
るように降りて来る。気持ちの悪い感覚にとらわれ、あがいても拭いきれない。
(あいつに会わなければならない)
自分の推測が当たっていようがいまいが、黒川の存在がとにかく不気味でた
まらない。幸い、本名は分かっている。喫茶店で会ったとき、免許証の一部を
見せられ、確認した。
(顔も分かっている。ターゲットの大宮は仮の名前だが、大宮を恨みに到る背
景は聞いた。あれも手掛かりになるはず。独力で探し出せるんじゃないだろう
か)
松村は日曜の昼前から、再びネット検索を頼りに、黒川光の名前や彼が経験
したはずの“事件”を探し始めた。
だが、事件があまりに小さいためか、一向にヒットしない。黒川光の名も同
姓同名もしくは類似の別人ばかりで、これというものに行き当たりはしなかっ
た。
(大学名が職場名さえ分かれば、どうにかなると思うんだが)
インスタントの昼食を済ませる頃には、限界を感じていた。
(興信所に頼むか……しかし、俺が黒川を探していることを第三者に知られる
のは、マイナス面が大きい。もし殺人が発覚したとき、弱点になる。他の手段
を執る方がいい。何か手掛かり……あの健康ランドの常連だとしたら、あそこ
で張っていれば顔を合わす可能性はあるだろうが、確証がない。その上、こん
なやり方で幾日も粘った挙げ句、防犯カメラに姿を何度も録られるのは避けた
いところ……)
危ない橋を渡らずに済む方法を探し求める松村だが、どれもすぐに壁にぶち
当たる。
(俺が他人になりすました上で、興信所に依頼するのはどうか。身分証明を求
めてくる興信所ばかりではあるまい。むしろ、依頼者の身分を詮索することな
く、仕事を引き受ける探偵も、大勢いるに違いない)
なかなかよいアイディアに思えた。細かいことを詮索せずに引き受ける探偵
さえ見つかれば、だが。
(万が一、探偵に勘付かれて、そいつから脅迫されては元も子もないしな。探
偵選びは慎重に慎重を重ね、依頼の文言もよく練る必要がある)
――そうして松村が探偵に、黒川光の住所その他連絡先を突き止めるよう依
頼してから十日が経った。探偵からの報告では、芳しい成果は上がっていない。
その一方で、一週間後には追加料金が発生すると、しっかり告げてきた。
(警察やマスコミに通じた独自の情報ルートを持っている、なんてことには期
待していなかったが……こうも薄いレポートだと、疑ってしまう。本当にちゃ
んと調べてるんだろうな)
たまの旅行ぐらいしか趣味を持たない松村は、それなりに貯め込んではいる
が、しがないサラリーマンの身でいつまでも調査費を出せる訳もない。
(湯田もいつまでも行方不明のまま。一体どうなってるんだ)
松村が自宅で嘆息した、休日の真っ昼間。思い掛けない電話があった。
携帯電話に表示された記憶にない番号に警戒を抱きつつ、松村が出てみると、
聞き覚えのある男の声がすぐさま言った。
「ようやく見つけましたよ、松村さん。いや、灰田さんと呼んだ方が分かりい
いでしょうか?」
「あんた、黒川――さんか?」
「はい。今、お宅の近くまで来てるのですが、在宅ですか? まあ、おられて
も上がり込むのはやめておきますが」
「どうやって分かった? こっちもあんたを捜していたんだ、確かめたいこと
があって」
勢い込む松村に、黒川は落ち着いた調子で持ち掛けてきた。
「では前回のように、喫茶店で落ち合いましょうか。防犯カメラも何もない、
寂れた店がいいですね」
「分かった」
松村は条件に当てはまる店を思い浮かべ、相手に伝えた。
その喫茶店で昼飯を兼ねた軽食を摂りながらという、案外のんびりした雰囲
気の中、話は始まった。
「まず、私があなたの居場所を突き止めた経緯からお話しましょう。でないと
薄気味悪いでしょうから」
「まあ、そうかな」
松村は意味なく強がってみせた。本心では、知りたい。松村の側ではまだ黒
川のことを何も掴めていなかっただけに、なおさらだ。
「特別な種はないんです。実は八月四日、N公園に出向いたんです」
「やはりか」
推測が当たっていたようだ。松村はやっと自信を取り戻した。
「湯田のあとをつけたんだな」
「それが、少し違いまして……。まあ、話がややこしくならないよう、私があ
なたの居場所を突き止めた経緯を先に片付けましょう。私は倒れている湯田を
見つけ、死んでいるのを確認しました。そしてある理由から、死体を別の場所
に移した。遺体を捨てる際、湯田とあなたが会っていたことを示唆するメモで
もあっては、遺体が発見されたときにまずいと思い、懐を探ったのです。そう
したら、携帯電話にあなたの情報があった。もちろん、灰田という名前ではな
かったが、スケジュール欄に“松村に会う”とあり、その日時が八月四日に該
当したので、推測は容易でした」
「……」
松村は冷や汗を覚えた。湯田はそんなデータを残していたのか。いや、当然
思い当たるべき可能性なのだが、殺害時の軽いパニックのおかげで、そこまで
気が回らなかった。
黒川はここまで言うからには、携帯電話のデータは処分したのだろう。
「それでまあ、いつかひょっとしたら必要になるかもしれないと考え、あなた
のデータをメモに取っておいたのです」
「よく分かった。それで、私に会いに来た理由は何だ? 大宮を殺してくれと
頼みに来たんじゃなさそうだが」
「ええ。もしかしたら気付いておられるかと思ったのですが、どうやらまだの
ようで。私のターゲットたる大宮は、N公園で八月四日、死体になっています」
「――まさか、あの、何て名前だったか……小宮、小宮山か? どこかの研究
所で働いているとかいう男が殺されていたとニュースでやっていた覚えがある」
テーブルに手をつき、身を乗り出した拍子に、お冷やのグラスに腕が当たり、
倒しそうになった。慌てて押さえると、どうにか事なきを得た。
「ご名答です。願いは成就しました」
満足げな笑みを浮かべた黒川。日常会話と変わらぬトーンである。松村は、
自分よりもよほど黒川の方が度胸が据わっているのだろうと認めた。
「でも、手を下したのは私じゃありません」
「私の他の誰かに、交換殺人を持ち掛けて決行したんだな」
「おお、素晴らしい。さすが、私が見込んだ方だ。その相手の名前、分かりま
すか」
「分かる訳が……待て。そうやってわざわざ聞くからには、俺の知っている奴
なんだな」
松村はつい、一人称を使い慣れた「俺」に戻していた。そのことに気付かず、
考える。そして一人の名が浮かんだ。ちょっと信じがたい。恐る恐る、その名
前を口にする。
「まさかとは思うが、湯田か?」
「まさかではないでしょう。うまくやり仰せれば、湯田黎太郎こそ、私にとっ
て最高の共犯者でしたよ、あの時点ではね」
黒川が得意げになった。焼き飯をかき込み、コーヒーを飲んでから続ける。
「あなたに交換殺人の話を断られてから、私は悩みました。折角、よさそうな
人と巡り会えたのに、まとまらなかったのが残念でならない。せめてこれを活
かせないかと考え、はっと閃いた。湯田に交換殺人を持ち掛けようと」
「だから、どうして湯田が最高の相手なんだか、説明してくれ」
「決まっています。湯田と組めば、私は殺人を犯さずに済む可能性が高かった。
何故なら、湯田は八月四日までに、あなたによって始末される可能性が大だっ
たから」
「……なるほど」
黒川の目論見を理解し、松村は真に感心した。
(ユニークな策略だ。湯田に交換殺人を持ち掛けて話をまとめ、八月四日まで
に小宮山を殺させる。湯田が先に決行するよう仕向けるのも大切だな。小宮山
を殺した湯田を、俺が殺したことで、黒川は交換の義務から解放される……)
そういえば、と松村は思い出したことが一つあった。
(公園で会ったとき、湯田はしきりに手のひらを気にしていた。あれはもしか
すると、紐状の凶器を使って小宮山を殺害した際に、力を込めるあまり、自分
自身の手にも鬱血のような痕跡が残った。それを気にしていたのかもしれない
な)
「ただ、話をまとめ上げるのは非常に、これ以上ないくらいにうまく運んだの
ですが、禍福はあざなえる縄のごとしというものなのか、実行の段になって、
僅かずつずれが生じました。湯田は小宮山殺しに関し、自分自身もなるべくア
リバイめいたものを確保しようと考えたようなんです。私から言わせれば、彼
には小宮山を殺す動機がないのだから、そんなこと必要ないんですが、あの人
は万全を期したがるタイプのようで」
「アリバイ証人に、この俺を選んだ訳か」
半ば呆れ気味に、松村は言った。黒川は大きく首肯し、言葉を継いだ。
「恐らく、裁判沙汰にもなりかねない問題を抱えた相手と一緒にいたなら強力
なアリバイになる、と計算したんでしょうね。もちろん、私はそんなことは全
く知りませんでした。八月四日にN公園で実行するとだけ聞かされていた。期
間ぎりぎりなのが気になったのですが、強く不満をぶつける訳にもいかず、妥
協しました。それで、私は当日のアリバイを確保し、湯田が小宮山を殺してか
ら充分に時間が経った頃合いに、N公園に向かったのです。小宮山の死を確か
めるのが目的でした。それまでに警察に通報されたなら、引き返すつもりでし
たが、そうはなっていなかった。目的を達したあと、湯田と連絡を取ろうとし
つつ、公園内を移動していると、死んでいる湯田を見つけたのです。ぴんと来
ましたよ。ああ、灰田さんの仕業だとね」
「ふむ。状況は分かった。遺体を動かした理由も聞かせてもらえるか」
「N公園内に、同じ日に二つの他殺体があったら、警察に関連性を探られるに
決まってます。どちらか一方を隠す必要がある。私は車で回って、学習教材の
訪問販売をやってるのですが、N公園にはその車で来ていました。だから遺体
移動の手段には困らない。あとは、どちらの遺体を動かすかですが、小宮山の
方を動かすのは気が進まない。下手を打つと、私のアリバイが消し飛んでしま
いますからね。一方、湯田を動かすのはどうか。私には関係ないし、あなたに
とって好都合になるはず。そう踏んで、湯田を移動させたのです」
己が手を掛けた死体が消え、別の殺人が発生していたという奇妙な事態に混
乱を来した松村だったが、黒川の説明を聞いてすっきりした。分かってみれば、
奇妙でも何でもない。事態は進むべき道を辿った、それだけに過ぎなかった。
「黒川さんの手並みは分かった。すばらしい。俺にとっても、ありがたい判断
をしてくれたと思う。で? 黒川さん、あんたが今日、俺にコンタクトしてき
た訳を聞かせてもらおう。まさか、感謝の言葉を聞きたくて来たんじゃあるま
い?」
警戒心をよみがえらせ、松村は尋ねた。黒川は心理的優位を感じ取っている
のか、すぐには答えない。ツナサラダを平らげたあと、悠然と喋り出す。
「感謝は私もしなければならない立場ですから、お互い様です。今日伺った目
的は、実は」
声を潜める黒川。緊迫の度合いが一段上がったようだ。虚を突かれた心持ち
の松村は、背筋が伸びる思いをした。
「実は、あなたに一人、始末してもらいたいなと思ったからです」
やはりな。内心つぶやきながら、松村は相手を斜め前から見据えた。
「交換殺人の話は断ったはずだ。俺は独りで標的を消した。それで完結してい
る。黒川さんのやったことは、俺のためにはなったが、勝手なアシストだろう。
それを恩に着せられても――」
「ストップ。これは失礼。誤解させてしまいましたね」
黒川は再び穏やかな口調に戻った。
「これは新たな交換の呼び掛けです。私は小宮山を葬って、念願を達成したつ
もりでいました。しかし、完全にはすっきりしていない。もやもやしたものが
残っている。原因を考え、じきに思い当りました。私を痴漢呼ばわりしてはめ
たあの女が、まだのうのうと生きている。それを想像するだけで、たまらなく
なりましてね。こりゃあ、あの女も始末しないと、気が収まらないなと気付い
た訳ですよ。もし応じてくださるのであれば、今度こそ灰田さん、いや松村さ
んのご都合に沿うようにします。松村さんにもあと一人ぐらい、この世から消
えたもらいたい人間、いるでしょう?」
「その前に……俺に拒否権はあるのかな?」
「さあ、どうでしょう」
とぼけ顔の黒川。松村は奥歯で歯ぎしりをした。
(こいつはおれが湯田を殺した証拠を握っている。少なくとも、そのチャンス
があったはずだ。抜け目のないこの男が、チャンスを逃したとは思えない)
「私も強引な手は使いたくありませんから、断られたときは、とりあえず、ま
た別のパートナーを探してみるつもりではいます」
黒川の飄々とした態度に、松村は冷や汗を覚えた。
(組んだとしても、黒川を信用できるのか? 湯田をうまく利用したみたいに、
俺も利用されたあと、殺されるのでは?)
疑心暗鬼にかられる。返答を決めかねる。一分近くも黙考し、やがて松村は
口を開いた。
「この話、ことわ――」
――終わり