AWC 故郷の思い出(3)


        
#393/598 ●長編
★タイトル (GSC     )  12/02/09  00:05  (173)
故郷の思い出(3)
★内容

    家畜(続き)


 家で兎を飼っていた時期は比較的長く、兄が毎日堤防へ餌を取りに行く
ので、よく一緒に付いていった。私がビクや竹篭を持ち、兄が兎の好きそうな
草を鎌で刈る。
 兎に水を飲ませてはいけないと言われていて、雨で濡れた草は、家の土間に
広げて乾かしてから兎小屋に入れてやった。
 兎小屋の床はセメント張りだが、一部分だけ土を露出しておくと、兎が自分
でトンネルのような穴を掘る。子供を産むのはこの穴の中だし、猫など危害を
加えそうな動物が来ると素早く穴に逃げ込む。しかし、私が小屋に入って
行っても、兎は穴の中に隠れてしまわないので嬉しかった。

 兎は一度に子供を何匹も産み、それら仔兎はやがて大きな木の箱に分けて移
される。この箱の天井が横滑りの木の蓋になっていて、私はその重たい蓋を
開けそこなって、しばしば小屋の中に落とし、思わずアッと叫ぶ。仔兎の上に
落下して、間違いなく潰してしまったかと思うが、兎は素早く反対側へ逃げて
いて助かる。この失敗を何回も繰り返し、その都度ぎょっとするが、仔兎は
敏捷で、けっして下敷きにならなかった。

 私は兎をよくかわいがった。が、どんなにかわいくても所詮は人間の家畜で
あることが悲しい。いつかは売りに出さねばならず、時には家で殺して、食肉
にし、毛皮を取る。
 兎は普段鳴くことはないが、絞め殺される時 哀れな声を出し、私はその声を
けっして忘れることができない。


 兄は山羊の世話もしていて、早朝川土手へ連れて行き、棒杭を地面に打ち
込んで繋いでおいて、夕方連れに行けばよかったが、雨が降り出すと、山羊は
勝手に棒杭を引き抜いて、ガラガラ引きずって帰って来ることがよくあった。

 山羊の乳を搾るのも兄の仕事で、念のため、首と後足を杭に縛りつけるが、
乳を搾る間、嫌がって暴れることは一度もなかった。
 山羊の乳は毎朝、鍋で沸かしてもらって、私の栄養補給になった。
 山羊は蜜柑の皮を好んで食べるが、人間の手のにおいが付いていると顔を
そむける。山羊の糞は兎のそれと同じく、大粒の豆のようにコロコロしていて
汚い感じはなかった。
 大人の山羊は頭で体当たりしてきて、その力が強く、うっかりすると突き倒
されてしまうから、それが山羊の親しみを表す習性だとわかっていても、私は
逃げ腰だった。
 仔山羊はそんなことをしないし、力も弱いので、扱いやすくて愛らしい。
私が綱をひっぱって堤防の方へ歩いていくと、仔山羊は後ろから私の背中に
おぶさるように跳び付くのだった。

 学校が始まって、辛い寮生活をしながら、ふと仔山羊のことを思い出し、
無性に故郷が恋しくて涙ぐむことがあった。
 夢の中にもよく仔山羊が出て来たから、まるで〈アルプスの少女ハイジ〉
そっくりだった。



    高射砲と機関銃


 戦争の影響は私の村にも及んで来た。
 刈谷の町には大規模な工場がいくつもあり、当然軍需関連ということになる
から、空襲の危険を免れ得ない。
 私の家から一、二キロ離れた地点に、二門の高射砲が据え付けられたのは
その頃だった。敵の飛行機が通るたびに「ズドーン、ズドーン」と、もの
すごい砲声が轟き、家が震動して壁土がザラザラと落ちて来た。
 けれども、終戦までついに、一機の飛行機をも撃ち落としたという話は聞か
ず、今から思えば、いかに編隊を組んでいるとはいえ、空を自由に飛び回る
飛行機目がけて、地上から単発式の高射砲の弾で撃ち落とそうというのは、
所詮無理であろう。万一、一機や二機に命中したとしても、米英軍の飛行機は
何十機・何百機とやってくるから、話にならない。
 父の言によれば、
「わざわざ高射砲を備え付けて、この辺りに工場があるから爆撃してくれと
教えているようなものだ。」
 ということではあったが、それでも高射砲は心理的に心強かった。


 私の家では、爆撃に備えて、土間に二つの大きな穴を掘り、家財道具を収め
て上から板で蓋をし、土をかぶせて埋めるようにした。
 今考えてみると、家が焼けてしまった後に、地下の道具類が無事燃えずに
残るのかどうかはなはだ疑問だが、当時はこれで充分とされていたのである。


 防空壕は、家の西側の土手に、父が深い横穴を掘り、〈上のおばさん〉と
共同で使うようにしていた。
 即ち、私たちは崖の東側の入り口から中に入り、崖の上に住んでいる
おばさんは、自宅の庭から梯子段で防空壕の中へ下りて来られるようにして
あった。
 難点をいくつか挙げてみると、入り口の扉がいかにも薄っぺらで貧弱な板戸
だったこと、壁と天井は土がむき出しになっていて、雨の日には雫で濡れる
こと、家に近接しているため、もし焼夷弾が落ちた場合、煙が東の口から
入って崖の上へ吹き抜け、あたかも煙突の中に避難しているような具合に
なりかねないことなど、問題はいろいろあるが、なにしろ、当時私たちが毎日
寝起きしている家すらひどいあばら家だったことを思えば、防空壕は立派で
あった。
 学校の壕に比べると格段に設備が良く、崖の下を掘り抜いてあるから
安全度が高いし、地面には板を敷き、壁際に長椅子が作り付けてあった。

 空襲警報のサイレンが鳴ると、私はゆでたさつま芋のざるを抱えて防空壕に
入り、長椅子に腰掛けて芋を食べながら、警報解除を待つ。
 兄は入り口の板戸を時どき開けては外に顔を出し、敵機の様子を眺めたり
していた。


 しかし、防空壕に入るのはよほど危ないと思う時だけで、普段はのんびり
した田舎の生活だった。
 ある日のこと、兄と二人で兎の餌を取りに行こうとして、念のためラジオの
防空情報を聞いたら、たまたま
「B29 一機が…。」
 と放送していたので、
「ナアンダ! B29 一機か。それなら大したことはない」
 と言って、空襲警報中なのに、二人で草原へ出かけた。

 私が道端にいて、兄が原っぱの真ん中の方で草を刈っていると、遥か遠くの
方から、敵の飛行機のような不気味な爆音が響いてきた。
「オーイ、兄さん。」
「ナンダイ?」
「敵の飛行機みたいな音だが、大丈夫かなあ。ちょっと見てくれ。」
「そうか?」
 と言って兄が西の空を見上げて仰天した。
「大変だ! 小型機が編隊でこっちへやってくるぞ!」
 二人は真っ青になり、手を繋いで、家へ向かっていっさんに駆け出した。
二、三〇〇メーターの道を逃げ帰る間に、敵の飛行機がグングン後ろから
追い付いてくる。見付かったら機関銃で撃ち殺されるに違いない。
 途中の家に避難させてもらう思案も浮かばぬまま、走りに走って、やっと
自分の家の中に飛び込んだ刹那、屋根すれすれを艦載機が一機・二機・三機・
四機…と飛んで行き、すかさず例の高射砲が「ズドーン ヒュルヒュルヒュル」
と数発打ち上げられた。
 それでも私たちは、建物の中に入れば飛行機からは見えないから、狙い撃ち
される危険はないと思い、ほっと胸を撫で下ろしたものである。木造家屋の
土壁くらい、簡単に銃弾が突き貫けることを知っていたのかどうか?


 因みに、私たちの知識では、B29はアメリカ製の爆撃機で、焼夷弾や爆弾
を積んできて、家家を目標に投下するものであり、小型機とか艦載機というの
は、主にイギリス製で、小さい爆弾を持ってはいるが、多くは機銃掃射により
人を狙って撃ち殺すものと理解していた。

 その機銃掃射の音を初めて聞いた時には、あまりの恐ろしさに、私は腰を
抜かしてしまった。
 たぶん、高射砲を操作している日本兵を狙ったもので、兄や姉たちは平気で
窓から覗き見していたが、私は凄まじい射撃の音に、ヘナヘナとしゃがみ込ん
だまま立てなくなってしまったから、あれが〈腰を抜かす〉という現象なので
あろう。


 そして、終戦の前日、八月一四日のことを私は忘れることができない。
 防空壕に逃げ込んでまもなく、艦載機の編隊が頭上を旋回し、高射砲が数弾
打ち上げられたかと思うと、いつもより一段とものすごい機銃掃射の音が響き
渡り、ダダダダダッという機関銃・ピューンピューンと鳴る鉄砲やバリバリ
パチパチとはじける機銃の音が耳を聾する凄まじさとなった。
 さすがの兄や姉たちも、防空壕の戸を開けて外を見る勇気がなく、私は自分
が狙い撃ちされているものと思い、完全に体が硬直して動けなくなって
しまった。
 その間わずか五、六分は続いただろうか?

 後に聞いた話では、その時、私の家から一〜二キロ離れていたが、高射砲を
操作していた日本兵が二人、敵の弾に当って戦死を遂げたとのこと…、それが
本当だとしたら実に恐ろしい話だ。
 高射砲の周りで、半身を穴に隠しながら、急降下する敵機から機関銃を浴び
せられている兵士の姿が、ありありと思い浮かぶ。あと一日で終戦だったと
いうのに…。
 重ねて言うが、理由のいかんを問わず、戦争は絶対にやめなければ
いけない。


 何十年か過ぎた今も、私は飛行機のプロペラの唸りを聞くと、ゾーッと
身震いを覚える。
 それはたぶん、B29か艦載機の爆音に似ているのであろう。頭上から爆弾
を落とされそうな、あるいは心臓を撃ち貫かれるような、死の恐怖感に
襲われ、身の毛がよだつのである。


                [一九九一年(平成三年)三月五日   竹木貝石]


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