AWC 故郷の思い出(4)


        
#394/598 ●長編
★タイトル (GSC     )  12/02/09  00:07  (126)
故郷の思い出(4)
★内容

     自分史 『中学生時代』より

    兄【1】


 二歳年上の兄とは小さい頃からの喧嘩相手で、休みになって私が家に帰る
と、当座は
「貝石」
「貝石」
 と大事にしてくれるが、2、3日もすればもう喧嘩になる。
 それが休みも終りに近付くと急に名残り惜しくなって、二人は随分と仲良し
になるのであった。

 喧嘩はしても兄とはいつも一緒だった。
 近所の腕白どもに混じって、騎馬戦やチャンバラや川遊びをしたし、毎晩床
の中で兄に講談本を読んでもらった。太閤記・柳生十兵衛・荒木又右エ門・
真田幸村・岩見重太郎・木村重成・尼子十勇士・元和三勇士・そして左甚五郎
から一心太助に至るまで、私の記憶にある講談本は数えきれず、それは皆兄に
読んでもらった物で、今でも歴史小説が大好きなのはそれら講談本の影響に
よる。
 兄との喧嘩はたわいのないもので、例えば講談本についてこんな争いが
あった。
 荒木又右エ門が主人筋に当たる柳生飛騨守に進言する件で、柳生が大刀を
抜いて切りつけようとしたが、油汗がにじんできて容易に刀を振り下ろすこと
ができなかった。さてそれは何故だったかという解釈の違いで口論になった。
兄は、
「又右エ門の構えに一部の隙もなかったので、柳生は腕前の差を悟って刀を
振り下ろせなかったのだ」
 と言い、私は、
「又右エ門の構えがあまりに見事だったので、このような立派な武士を切る
のが惜しくて刀を振り下ろせなかったのだ」
 と主張した。
 二人とも自分の見解の方が正しいと頑張って譲らず、仕舞には大喧嘩に
なり、
「おまえなんか、もうどこへも連れて行ってやらない」
 と兄が言えば、私も負けずに、
「兄さんの魚釣りの付き合いなんかお断りだ」
 と怒鳴り返した。
 それでも翌朝には、お互い昨日の恨みをけろりと忘れ、肩を並べて魚釣りに
出掛けるのだった。

 もっと幼い頃の喧嘩も幾つか覚えている。
 私の家の東側の窓の外に丸太ん棒が積み上げてあって、窓からよくその上に
上って遊んだが、ある日私は兄に次のように提案した。
「この窓の所に何か仕掛けをしてみてくれ。俺は必ずその仕掛けを見破って
みせる。どんな危ない仕掛けでも構わない」
 やがて兄の準備ができたと言うので、はたしてどういう仕掛けが作ってある
のだろうかと、窓から顔を出した途端に、竹の熊手が突き出ていて、その先が
目に入ったので、私はたちまちワアーッと泣き出した。私も痛かったが、目
から血が出ているのを見た兄も驚いた。
 日頃負けん気の強い私は、目が見えなくても兄と互角以上にわたり合い、
取っ組み合いでも口喧嘩でも引けを取らなかった。だから兄は私を障害者扱い
しないし、そんな私が、
「どんな危ない仕掛けでも並気だから作ってみろ」
 と言ったので、一泡吹かせてやろうと思ったに相違ない。
 母や姉の前でも、
「貝石が自分から、どんな危ないことをしてもいいと言ったんだ」
 と兄が言い、私も
「丸太ん棒の仕掛けのことを言ったんで、熊手を使って目を狙うのは卑怯だ」
 と負け惜しむ。
 だが普段腕白者の私に、姉たちは味方をしてくれなかった。
 私も内心では不覚をとったと思うから、泣き止むが早いか、また懲りずに
兄に言った。
「よし、今度こそ何をしてもいいぞ! もう一度仕掛けを作ってみてくれ」
 けれども、兄はもう相手にしてくれなかった。
 いかに負けず嫌いといっても、目の不自由な小学2年生の私である。別の
仕掛けをされたら、やっぱり引っかかったに違いない。

 兄が太いゴム紐を持って来て、
「どれくらい伸びるか二人で引っ張ってみよう」
 と言ったことがある。私が一方の端を握り、兄が他の端を持って、互いに
反対方向へ歩く。大分伸びきったところで兄がわざとゴムをはなしたので、
それが私の手に当たって痛かった。
 兄が
「もう1回。今度ははなさないから」
 と言ったので、私が素直に応じると、兄はまた手をはなす。
 3回目も同じように騙されたので、私は悔しがって怒った。
 何日かして、兄がゴムカン(パチンコ)を持って来て、
「これを引き伸ばしてみよう」
 と言った。ゴムカンを標準語で何と言うのか知らないが、木の小枝の二叉に
なった先端にゴム紐を取付け、そのゴムに小石を挟んで引き絞り、すずめを
狙って打ち落とす手作りの道具である。
「もう嫌だ。このあいだみたいに引っ張っておいて放すんだろう。そうは騙さ
れるもんか!」
 すると兄は、
「今日こそ絶対に嘘は言わない。その証拠にゴムの方を俺が持とう。それなら
いいだろう?」
 と言ったので、私が木の柄を持ち、兄がゴムを持ってグイグイ引き伸ばし
た。目一杯伸びきったところで、私が手を放したので、ゴムカンの柄が勢い
よく兄の手にぶつかり、兄は血を流して泣きべそをかいた。
 私は兄がかわいそうになり、自分のやりすぎに後悔したが、兄は何も言えな
かった。

 二人は喧嘩もしたが、それ以上に仲のいい兄弟だった。
 母は私が小学3年生の時に亡くなって、家事は専ら父がしていたから、
おつかい・兎の餌の草取り・山羊の乳搾り・風呂炊きや畑仕事など、二人は
いつも一緒だった。
 夏休みには毎朝、兄と隣村のお寺へお経を習いに行ったし、夜は公民館へ
祭り太鼓や笛の稽古に通った。兄は何処へでも私を連れて行き、決して恥ずか
しいと感じなかったし、近所の子どもたちも、目の見えない私をからかったり
珍しがったりはしなかった。
 私が小学2年生の頃、兄の出校日に学校へ付いて行って、教室で兄の隣の
空席に座っていたことがあったが、先生は何もおっしゃらなかった。休み時間
に点字の話が出て、兄がボール紙を切り抜いて点字板の升目のような物を
作り、私がみんなの前で点字を書いて見せたものだ。

 今でも兄に感謝しているのは、活字の本を読んで点字になおす手伝いをよく
してくれたことで、英語のポケット辞典をAからFまで点訳したことや、5年
生の国語の教科書1冊全部点字で作ったことを思い出す。
 私が1字ずつコツコツと点字で打つのに合わせて、兄は1語1語辛抱強く
読んでくれる。大層時間のかかる作業だから、遊び盛りの子どもでなくても
うんざりするはずである。

 盲人野球の話をしたら、兄が手頃の丸木を削ってバットを作り、古びた革の
ボールの破れを繕って中にぼろぎれを詰め込んでくれた。
 このバットとボールを使って庭で遊んでいたのはよかったが、手桶に餅米が
浸してあったのを蹴飛ばしてひっくり返してしまい、父に叱られたのも懐かし
い思い出である。
 ぼろぎれを詰めたボールでははずまないので、兄が物置から見つけて来た
大きなゴムボールの破れたのを、春休み1日がかりで修理してくれたことも
ある。自転車のパンクを直す要領で、まずボールの汚れをこそげ落とし、
板ゴムを適当な大きさに切ってゴム糊で穴を塞ぐのだが、何度やり直しても
空気が洩れてなかなか思うようにならなかった。







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